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戻らない日常2「ただいま」の消えたホーム』  作者: リンダ


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帰らない『ただいま』

戻らない日常2


第23話「帰らない『ただいま』」


杏子の死亡が確認されてから数時間後、勝は病院の家族控室で、石黒刑事から今後の手続きについて説明を受けていた。


死因を正確に特定し、黒田慎吾の刑事責任を立証するため、杏子には司法解剖が行われる。家族のもとへ戻れるまでには、もう少し時間が必要になるという。


「奥様をすぐにお返しできず、申し訳ありません」


石黒が深く頭を下げると、勝は力なく首を横に振った。


「必要なことなんですよね」


「はい。斉藤杏子さんに何が起きたのかを明らかにし、黒田の行為を法廷で立証するために必要な手続きです。死亡が確認されたことで、殺人容疑を含めて捜査を進めます」


「お願いします」


それだけ答えるのが精いっぱいだった。


乃亜と貴教は、控室の長椅子に並んで座っていた。乃亜は杏子の花柄のハンカチを握り、貴教は母の通勤バッグを抱えている。二人とも泣き疲れ、呼びかけてもすぐには反応しなかった。


真理子や健太、智樹、直哉は、今夜は自分たちの家へ来るよう勧めた。しかし貴教が、小さな声で言った。


「お母さんが帰ってきたとき、家に誰もおらんかったら困る」


誰も、「お母さんはもう帰ってこない」と言うことができなかった。


勝は二人を連れ、港南台の自宅へ戻った。


玄関の鍵を開ける。


いつもなら、杏子の明るい声が聞こえてきた。


「おかえり。手を洗っておいで」


けれど、今夜は何も聞こえなかった。


電気をつけると、事件の夜のままになった食卓が現れた。四人分の皿、四人分の箸、空いたままの杏子の席。急いで家を出たため、サラダの器にはラップさえ掛けられていなかった。


台所の時計が、規則正しく秒を刻んでいる。


その音が、妙に大きく聞こえた。


「お母さん、まだ病院におるんやろ?」


貴教が尋ねた。


勝は息をのみ、貴教の目線まで腰を落とした。


「今は警察とお医者さんが、お母さんに何があったのか調べてくれている」


「終わったら帰ってくる?」


「……帰ってはくる。でも、もう、お母さんと話したり、一緒にご飯を食べたりすることはできないんだ」


貴教は首を横に振った。


「そんなの帰ってくるって言わん」


その言葉に、勝は何も返せなかった。


乃亜は黙ったまま台所へ入り、杏子がいつも座っていた椅子へ手を置いた。一昨日まで、ここで杏子は朝食を食べ、乃亜の学校の話を聞き、貴教の寝癖を笑っていた。


「お母さん、ここに座ってたんよね」


乃亜が椅子をわずかに引いた。


「一昨日まで、普通におったんよね」


「……ああ」


「普通におった人が、急にいなくなるなんて、おかしいよ」


乃亜は母の椅子に座り、背もたれを抱くようにして泣き始めた。


勝が冷蔵庫を開けると、杏子のために残したハンバーグが入っていた。あの夜、帰宅が少し遅くなっても温め直せるよう、皿に載せてラップを掛けていた。


貴教が冷蔵庫の中をのぞき込んだ。


「捨てないで」


「貴教……」


「お母さんが帰ってきたら食べるから。俺が切ったキュウリも一緒に食べるって言ってたから」


「でも、お母さんは――」


「捨てないで!」


貴教の叫びが、静まり返った家に響いた。


「お母さんの分なんやから! 勝手に捨てたら、お母さんが食べられんやろ!」


勝はハンバーグの皿を取り出し、しばらく見つめた。焼き上がったときには、四人で囲むはずだった夕食の一皿にすぎなかった。それが今は、杏子を待っていた時間そのものに思えた。


「分かった。捨てない」


勝は新しい保存容器へ移し、蓋に日付と「杏子の分」と書いて、冷凍庫へ入れた。


貴教はそれを見届けると、床へ座り込み、声を押し殺して泣いた。


その夜、三人はほとんど眠れなかった。


乃亜は何度も母の寝室をのぞいた。ベッドの片側には、杏子が読みかけていた本が伏せてあり、枕元には眼鏡が置かれている。クローゼットを開けると、通勤用のブラウスやスーツ、休日に着ていた明るい色の服が並んでいた。


奥には、家族の祝いの席で杏子が着た礼服も掛かっている。


「服はこんなにあるのに……」


乃亜は母のブラウスへ頬を寄せた。洗剤と、杏子が使っていた柔らかな香りが、わずかに残っていた。


「お母さんだけがおらん」


貴教は玄関に置かれた母の靴を見つめていた。雨の日に履く靴も、休日用のスニーカーも、きれいに並んでいる。どれも持ち主が帰ってくるのを待っているようだった。


駐車場には、杏子が普段の買い物や両親の送迎に使っていたコンパクトワゴンが止まっていた。


勝が自分の車の横に立つと、貴教が杏子の車へ近づいた。


「この車も、もう動かんの?」


「車は動くよ」


「じゃあ、お母さんが運転するのは?」


勝は答えられなかった。


運転席は杏子の体格に合わせた位置のままで、助手席には買い物用の折り畳みバッグが置かれていた。後部座席には、乃亜が以前置き忘れたタオルと、貴教の野球帽が残っている。


家も、服も、車も、杏子が帰ってくることを前提に、そのままの姿で残されていた。


それなのに杏子だけがいない。


翌朝、目覚まし時計がいつもの時刻に鳴った。


勝は台所へ向かったが、朝食を作る気力が湧かなかった。炊飯器の使い方も、パンを焼く時間も知っている。それでも、杏子がいない台所に立つと、何から始めればいいのか分からなくなった。


乃亜と貴教も起きてきたが、二人とも母の席を避けるように座った。


テレビはつけなかった。


誰も話さなかった。


これまでの斉藤家では考えられないほど、静かな朝だった。


港南小学校では、高橋真理教諭と松本健吾教諭から、杏子が事件で亡くなったことが児童たちへ慎重に伝えられた。


小川美羽は机に顔を伏せて泣いた。


「乃亜のお母さん、ライブの話をするとき、いつも笑ってたのに……」


港ブルーサンダースでは、横山紗良を中心に、練習前に黙とうが行われた。石井結衣、田辺心春、小林凛、松永七海は、誰一人いつものような声を出せなかった。


村瀬監督は選手たちへ告げた。


「今は乃亜に無理をさせないこと。返事を求めるような連絡はしないこと。ただ、戻ってきたいと思ったときに、いつでも戻れる場所を守っておこう」


横浜リトルファイヤーズでも、大森監督が事件について説明した。森田蓮と河合悠斗は、貴教のために何ができるのか話し合ったが、答えは見つからなかった。


「また野球しようって、送ってもええかな」


蓮が尋ねると、大森監督は静かにうなずいた。


「短い言葉でいい。返事はいらないと添えてやれ。それだけでも、自分を待っている仲間がいることは伝わる」


イモトの開発部では勝の机が、栄商事では杏子の机が、誰にも使われないまま残されていた。栄商事の宮本は、杏子が最後に送った取引先へのメールを開いたまま、しばらく動くことができなかった。


件名は、ごく普通の業務連絡だった。


翌週の予定について、杏子自身が書いたメールだった。


しかし、その翌週が杏子に訪れることはなかった。


事件から一週間後の金曜日。


斉藤家では、三人が居間に集まり、「フライデー爆笑ラジオカフェ」を聴いていた。笑い声の消えた家の中でラジオをつけることに、乃亜は少し迷った。


けれど、あの夜に自分の投稿を読んでくれた光子と優子へ、伝えなければならないと思った。


乃亜は送信ボタンを押した。


番組の後半、スタッフから一通の投稿を受け取った光子は、その差出人を見て言葉を失った。


優子も画面をのぞき込み、しばらく何も言えなかった。


スタジオから、音が消えた。


やがて光子が、震える声で読み始めた。


「ラジオネーム、港南台の乃亜さんからです」


『光子さん、優子さん。先週は私の投稿を読んで、一緒に祈ってくれてありがとうございました。川崎駅の事件で重傷を負ったお母さんは、手術のあと、一度だけ私の手を握り返してくれました。でも、その翌日に亡くなりました。三十八歳でした』


光子の声が詰まった。


優子が引き継いだ。


『まだ、お母さんがいないことを信じられません。家にはお母さんの服も靴も車もあります。冷凍庫には、お母さんのために残していたハンバーグも入っています。でも、お母さんは帰ってきません』


優子はそこで読み上げるのを止め、目元を押さえた。


しばらくして、光子が残りの文章を読んだ。


『お母さんは私と一緒にM&Yとファイブピーチ★を応援してくれました。横浜ライブにも家族みんなで行きました。お母さんと一緒に行けないのは悲しいけれど、私はこれからもずっとM&Yとファイブピーチ★を応援していきます。お母さんの分まで、歌を聴き続けます』


読み終えたあとも、二人はすぐには話せなかった。


長い沈黙ののち、光子がマイクへ向かった。


「乃亜ちゃん……知らせてくれて、ありがとう」


その短い言葉に、さまざまな思いが込められていた。


「先週、手を握ってくれたと聞いて、私たちも信じていました。もう一度、ご家族のもとへ帰ってきてくださると信じていました。本当に、言葉が見つかりません」


優子も涙声で語りかけた。


「これからも応援すると言ってくれて、ありがとう。でも、乃亜ちゃんは、お母さんの分まで無理に何かを背負わなくていいんだよ。歌を聴きたくない日があってもいい。笑えない日があってもいい。私たちは、乃亜ちゃんが再び聴きたいと思えた日に、いつでもここにいます」


光子は杏子へ語りかけるように続けた。


「杏子さん。横浜ライブへ来てくださって、私たちの音楽とトークを家族で楽しんでくださって、本当にありがとうございました。乃亜ちゃんから届く言葉の中に、杏子さんがどれだけご家族を愛していたのかが表れています。その時間は、決して消えません」


放送中、ほかのリスナーからも次々に投稿が届いた。


『乃亜ちゃん、返事はいりません。遠くからご家族を応援しています』


『私にも同じ年頃の子供がいます。杏子さんのことを忘れません』


『ライブ会場のどこかで同じ時間を過ごしていたと思います。次に「雪の約束」を聴くときは、杏子さんのことを思います』


『泣きたいときは泣いてください。いつか笑える日まで、急がなくていいです』


光子と優子は、すべてを読み上げることはできないほど多くのメッセージが届いていると伝えた。


「乃亜ちゃん、勝さん、貴教くん。今、全国のたくさんの人が、斉藤家のことを思っています」


「一人ではないことだけは、どうか忘れないでください」


番組の最後に流れたのは、横浜ライブのアンコールで斉藤家が四人そろって聴いた「雪の約束」だった。


乃亜は母の椅子へスマートフォンを置き、少しだけ音量を上げた。


「お母さん、聴こえる?」


貴教も椅子のそばへ座った。


「この曲、覚えてるよね」


勝は二人の後ろに立ち、肩へ手を置いた。


杏子からの返事はない。


それでも三人は、最後まで曲を聴いた。


曲が終わったあと、家の中は再び静かになった。


けれど、その静けさの中には、全国から届いた「あなたたちは一人ではない」という言葉が、わずかに残っていた。


次回予告


司法解剖を終え、ようやく家族のもとへ戻った杏子。


通夜と葬儀には、親族、友人、職場の同僚、乃亜と貴教のクラスメイトやチームメイトが集まり、突然奪われた三十八年の人生を悼む。


棺の中の母を見た貴教は、最後までその手を離そうとしない。


「閉めないで。お母さんが暗いところに一人になるやん」


乃亜は横浜ライブで買った限定タオルを、杏子のそばへ入れることを決める。


一方、川崎駅には多くの花が手向けられ、杉本駅員は事件を防げなかった悔しさを抱え続けていた。


次回、第24話「お母さんとのお別れ」。


斉藤家は、最後の「いってらっしゃい」を杏子へ伝えることができるのでしょうか。

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