届いて、お母さん
戻らない日常2
第22話「届いて、お母さん」
長時間の手術を終えた杏子は、救命救急センターの集中治療室へ移された。
午前六時を過ぎた頃、勝、乃亜、貴教の三人は、看護師から短時間の面会を許された。消毒を済ませ、マスクとガウンを身につけて病室へ入ると、いくつもの医療機器に囲まれた杏子が眠っていた。
いつも家族に向けていた明るい笑顔はなく、その顔はひどく青白かった。人工呼吸器につながれた杏子の胸が、機械の働きに合わせて静かに上下している。
勝はベッドのそばまで歩み寄ったものの、妻の名前を呼ぶことさえできなかった。朝、いつもどおり「行ってきます」と家を出た杏子が、目の前で命をつなぐ治療を受けている。それが現実だと認めた瞬間、心が崩れてしまいそうだった。
乃亜が母の手を握った。
「お母さん、乃亜やで」
返事はない。
「この前のライブ、めっちゃ楽しかったな。光子さんと優子さんのトークで、お母さんも笑いすぎて、お腹痛いって言ってたやろ。私、まだ話したいことがいっぱいあるんよ。次のライブも一緒に行くんやろ?」
乃亜の涙が、杏子の手の甲に落ちた。
「だから、起きてよ。もう一回、私の話を聞いてよ。お母さん……」
貴教も反対側から杏子の手に触れた。小さな手が震えていた。
「お母さん、俺、今度は真っすぐキュウリ切るから。昨日のはちょっと曲がったけど、次はちゃんと同じ太さにする。ハンバーグもまだ食べてないやろ?」
貴教は涙を拭うことも忘れ、必死に呼びかけた。
「野球の試合も見に来てよ。俺、もっと外野フライ取れるようになるから。エラーせんように練習するから……だから帰ってきてよ」
勝は杏子の髪にそっと触れた。
「杏子、みんな待ってるぞ。乃亜も貴教も、真理子も健太も、智樹さんも直哉さんも待ってる。会社の人たちも、学校のみんなも、チームのみんなも、お前が帰ってくるのを待ってるんだ」
そのときだった。
杏子の右手の指が、ほんのわずかに動いた。
「お母さん?」
乃亜が顔を上げた。
杏子のまぶたが微かに震え、完全には開かないまでも、家族の呼びかけに応えようとしているように見えた。
「先生! お母さんの手が動いた!」
看護師がすぐに近づき、杏子の状態を確認した。
「声が聞こえている可能性があります。そばで話しかけてあげてください」
乃亜はもう一度、母の手を強く握った。
「お母さん、聞こえる? 私たち、ここにおるよ」
杏子の指が、今度は確かに乃亜の手を握り返した。
力と呼べるほど強いものではなかった。それでも三人には、杏子が「ここにいる」と伝えてくれているように思えた。
「届いた……。お母さんに届いたよ」
乃亜は泣きながら笑った。
貴教も母の腕へ顔を寄せた。
「絶対帰ろうね。四人で帰ろうね」
勝は二人の肩を抱き寄せた。ほんのわずかな反応だったが、長い夜を越えた家族にとって、それは暗闇の中に差し込んだ一筋の光だった。
一方、神奈川県警は黒田慎吾の自宅を捜索していた。
部屋からは、女性や幸せそうな家族への一方的な恨みを書き連ねたノート、川崎駅を繰り返し訪れていたことを示す記録、事件前に凶器を準備したことを裏づける資料が押収された。
ノートには、かつて好意を寄せた長谷川理沙への恨みだけでなく、自分と何の関係もない女性たちを敵視する言葉が並んでいた。
『幸せそうな女を見ると腹が立つ』
『自分を選ばない社会が間違っている』
『誰かに思い知らせなければならない』
捜査一課の石黒達也刑事は、一枚ずつ証拠を確認した。
「衝動的に起こした事件ではない。黒田は何度も川崎駅を訪れ、人の流れを見ながら実行の機会をうかがっていた可能性が高い」
捜査員の一人が、押収物を記録しながらうなずいた。
「それでも本人は、被害者が悪いと供述しています」
「供述がどうであれ、準備して実行したのは黒田自身だ。身勝手な責任転嫁で、奪われた命も、壊された家族の日常も戻ってこない」
石黒は、事件当時の防犯カメラ映像に映っていた杏子の姿を思い出した。混乱する人の流れの中で、転んだ子供を壁際へ逃がした直後、黒田に襲われていた。
杏子は黒田と面識すらなかった。
ただ仕事を終え、夫と二人の子供が待つ家へ帰ろうとしていただけだった。
その日の午後、杏子の状態は一時的に落ち着きを見せていた。
医師から「依然として危険な状態です」と説明されていたものの、指を動かしたという事実が、家族に小さな希望を与えていた。
「お母さん、声が聞こえたんだよね」
病院の廊下で、貴教が何度も確かめるように言った。
「ああ。お母さんは、俺たちの声をちゃんと聞いてる」
勝はそう答えた。
乃亜はスマートフォンを開き、母へ送るメッセージを書いた。
『お母さんへ。目が覚めたら、また四人でライブに行こうね。今度は私が忘れ物チェックをします。お母さんの分のハンバーグも残してあるよ』
送信しても、既読にはならない。それでも乃亜は、いつか母が目を覚ましたときに読んでくれると信じていた。
ところが、その夜から杏子の体温が上がり始めた。
腹部の深い傷は、腸管と血管を大きく損傷していた。手術で止血と損傷部位の処置は行われたものの、大量出血による体への負担は極めて重く、炎症によって全身の状態が急速に悪化していった。
翌朝、杏子の意識は混濁し始めた。
医師が呼びかけても、前日のような反応はない。体温は下がらず、血圧も不安定になっていた。
救命救急医の佐伯直人が、勝たちへ説明した。
「腹部の傷による臓器への損傷が非常に深刻です。感染と強い炎症反応が起こり、複数の臓器が十分に機能できない状態になりつつあります」
「もう一度、手術はできないんですか」
勝が尋ねた。
「必要な処置はすべて行っています。ただ、杏子さんの体が受けた損傷があまりにも大きい。できる限りの治療を続けますが、極めて厳しい状態です」
「昨日、手を握り返してくれたんです」
乃亜が訴えた。
「私の声、聞こえてたんです。だったら、また戻ってこられますよね?」
佐伯はすぐに答えることができなかった。
「私たちも、杏子さんが戻ってこられるよう全力を尽くします」
それ以上の約束はできなかった。
昼を過ぎた頃、杏子の容体が急変した。
警報音が鳴り、医師と看護師が集中治療室へ駆け込んだ。勝たちは廊下へ出され、再び閉ざされた扉の前で待つことになった。
「お母さん!」
貴教が扉へ向かって叫んだ。
「お願い、帰ってきて! 俺、ちゃんと言うこと聞くから! 野球の道具も自分で片づけるから!」
乃亜は両手を組み、何度も同じ言葉を繰り返した。
「お母さん、負けんといて。お願い。お母さん、帰ってきて……」
勝は二人を抱き締めながら、扉の向こうへ視線を向けていた。時間の感覚は失われ、数分が何時間にも感じられた。
やがて佐伯が出てきた。
その表情を見た瞬間、勝はすべてを悟った。
「ご家族の皆さん、中へお入りください」
ベッドの周りには、医師と看護師が立っていた。杏子の胸はもう動いていなかった。
勝は妻の手を握った。
「杏子……俺だ。勝だ。乃亜も貴教もいるぞ」
返事はなかった。
「お母さん、起きて」
乃亜が母の肩へ触れた。
「聞こえてるんやろ? 昨日、手を握ってくれたやん。もう一回握ってよ。ねえ、お母さん!」
貴教は母の胸元へ顔を伏せた。
「帰ろうよ。みんなで帰るって言ったやん! お母さん、目を開けてよ!」
佐伯は杏子の瞳と心音を確認し、静かに時計を見た。
「午後三時四十二分、死亡を確認します」
その言葉が告げられた瞬間、病室に乃亜と貴教の叫び声が響き渡った。
「嫌や! お母さん!」
乃亜は杏子の手を両手で包み、首を激しく横に振った。
「なんでお母さんが死ななきゃいけないの! 何も悪いことしてないやん! 普通に仕事して、家に帰ろうとしてただけやん!」
「お母さんが何したん!」
貴教は泣きながら繰り返した。
「何もしてないやん! あの人のことも知らなかったんやろ! なんで刺されなきゃいけなかったん! なんで帰ってこられないの!」
勝は二人を抱き締めようとしたが、自分の足にも力が入らなかった。杏子の手を握ったまま、ベッドの横へ崩れるように膝をついた。
「杏子……ごめん。守れなくて、ごめん……」
真理子、健太、智樹、直哉も病室へ入り、声を上げて泣く子供たちを支えた。看護師たちも目に涙を浮かべながら、静かに頭を下げた。
誰にも、乃亜と貴教の問いに答えることはできなかった。
杏子が悪かったからではない。
杏子が何かを間違えたからでもない。
黒田慎吾が自分の怒りを他人へ向け、何の関係もない人々を傷つけることを選んだからだった。
壁際に設置されたテレビでは、事件の続報が流れていた。音量は小さかったが、画面に表示された文字が、病室にいる全員の目に入った。
――川崎駅無差別刺傷事件。死者三人、重軽傷者十三人。
ニュースキャスターが、搬送されていた三十八歳の女性が新たに死亡し、事件による死者が三人になったと伝えた。
その三十八歳の女性が、自分たちの母であり、妻であり、妹であり、姉である斉藤杏子なのだと、家族は認めることができなかった。
テレビの中では「三人」という数字で伝えられていた。
けれど、杏子は数字ではない。
勝と笑い合い、乃亜の話を聞き、貴教の野球を応援し、毎朝港南台駅から川崎へ通勤していた。家族の好みに合わせてカレーの辛さを考え、雨の日には迎えに来てくれた三人へ「ありがとう」と笑い、ライブでは腹筋が痛くなるほど笑った。
その杏子が、もう「ただいま」と帰ってくることはない。
乃亜のスマートフォンには、前日に送ったメッセージが残っていた。
『お母さんの分のハンバーグも残してあるよ』
最後まで、既読がつくことはなかった。
次回予告
杏子の死が伝えられ、港南小学校、港ブルーサンダース、横浜リトルファイヤーズ、そして勝と杏子の職場に深い悲しみが広がる。
警察から司法解剖や今後の捜査について説明を受けた勝は、乃亜と貴教を連れて、杏子のいない港南台の自宅へ戻る。
玄関を開けても、「おかえり」の声は聞こえない。
食卓には、あの夜に用意した四人分の食器。冷蔵庫には、杏子のために残されたハンバーグが入っていた。
「捨てないで。お母さんが帰ってきたら食べるから」
貴教の言葉に、勝は何も答えられない。
次回、第23話「帰らない『ただいま』」。
明るくにぎやかだった斉藤家に、初めて訪れる静かな朝。三人は、杏子のいない家で何を思うのでしょうか。




