お母さんを待つ夜
戻らない日常2
第21話「お母さんを待つ夜」
救急車が到着したとき、病院の正面玄関にはすでに報道関係者が集まり始めていた。川崎駅で発生した無差別刺傷事件は、発生から一時間もたたないうちに全国ニュースで速報され、複数の負傷者が市内の病院へ搬送されたと伝えられていた。
勝は乃亜と貴教を連れ、警察官に案内されて救命救急センターへ駆け込んだ。受付で杏子の名前を告げると、看護師は三人を手術室前の待合スペースへ案内した。
そこには、杏子の通勤バッグが置かれていた。駅のホームに散らばった中身を、警察官が可能な限り拾い集めて届けてくれたものだった。社員証、化粧ポーチ、財布、折り畳み傘。そして、乃亜と貴教が母の日に贈った、小さな花柄のハンカチ。
それを見た瞬間、乃亜の目から涙があふれた。
「これ……お母さん、ずっと持ってくれてたんや」
貴教は母のバッグに触れようとしたが、途中で手を止めた。
「お母さん、朝になったら帰ってくるよね?」
勝は答えられなかった。
手術中と記された赤い表示が、閉ざされた扉の上で光っている。杏子は今、その向こうで医師たちによる処置を受けている。けれど、家族には祈りながら待つことしかできなかった。
「お父さん……」
乃亜が震える声で尋ねた。
「なんでお母さんが、こんな目に遭わなきゃいけないの?」
「……乃亜」
「お母さん、普通に会社へ行って、お仕事して、家に帰るために駅にいただけやろ? 誰かに悪いことしたわけでもない。知らない人に恨まれるようなことだってしてない。それなのに、なんで?」
声を抑えようとしても、涙は止まらなかった。
「お母さん、何も悪くないやん。私たちのところへ帰ろうとしてただけやん!」
貴教も母のバッグを抱き締め、泣き始めた。
「俺、お母さんにハンバーグ見せたかった。キュウリも切ったんよ。ちょっと曲がったけど、お母さん、上手やって言ってくれたのに……」
勝は二人を抱き寄せた。
「お母さんは何も悪くない。乃亜も貴教も悪くない。あの男が、自分の勝手な怒りで、何の関係もない人たちを傷つけたんだ」
そう言い切った勝自身の声も震えていた。
家を出る直前、火を止めたフライパンの中には、杏子の分のハンバーグが残されている。食卓には四人分の皿が並んだままだ。いつもなら「ただいま」と玄関を開けるはずだった杏子が、今は命をつなぐための手術を受けている。
その現実を、勝はまだ受け止め切れずにいた。
やがて、勝の妹の真理子と弟の健太、杏子の兄である宮原智樹と宮原直哉が病院へ駆けつけた。
「兄ちゃん、杏子さんは?」
「まだ手術中だ」
勝が答えると、真理子は両手で口元を押さえた。健太は言葉を失い、手術室の表示を見上げたまま動かなかった。
智樹は勝の肩に手を置いた。
「勝さん、乃亜と貴教のことは俺たちも見る。だから、一人で全部背負おうとせんでくれ」
直哉は貴教の隣に座り、背中をゆっくりさすった。
「お母さん、帰ってくるよね?」
貴教がもう一度尋ねると、直哉はすぐには答えず、涙をこらえながらうなずいた。
「お医者さんたちが、今、必死に助けてくれよる。俺たちも一緒に待とう」
待合スペースには、スマートフォンの着信音が途切れることなく響いていた。
乃亜の画面には、小川美羽からメッセージが届いていた。
『ニュースを見たよ。乃亜、返事はいらないからね。ずっと祈ってる。明日の学校のことは心配しなくていいから』
港ブルーサンダースのグループにも、横山紗良から書き込みがあった。
『乃亜のお母さんが助かるように、みんなで祈っています。乃亜は一人じゃないよ』
石井結衣は『またみんなで乃亜のお母さんの応援をしよう』と送り、田辺心春は『今は家族のそばにいて。練習のことは考えなくていい』と続けた。小林凛と松永七海からも、泣き顔のスタンプではなく、乃亜の好きな明るい色の花と、祈る手の絵が送られてきた。
村瀬監督からは勝のもとへ、短いメッセージが届いた。
『チームのことはすべてこちらに任せてください。乃亜さんとご家族のそばにいてあげてください』
貴教のスマートフォンにも、森田蓮や河合悠斗から連絡が届いた。
『貴教のお母さん、絶対よくなるように祈ってる』
『次の試合、貴教のお母さんにも見てもらおう。だから今はそばにいてあげて』
大森監督からも、『野球はいつでもできる。今は家族全員でお母さんを待つんだ』と送られていた。
勝の勤務先であるイモトからは、上司や開発チームの仲間たちが相次いで連絡を寄せた。
『仕事のことは一切考えなくていい』
『必要なことがあれば、時間を問わず連絡してほしい』
『会社としてできる限り支える』
栄商事の宮本からも、杏子の社員証や緊急連絡先を確認したこと、会社の同僚たちが回復を願っていることが伝えられた。
それらの言葉は温かかった。しかし、どれほど多くの励ましが届いても、手術室の扉は閉ざされたままだった。
時計の針だけが、ゆっくりと進んでいった。
同じ頃、神奈川県警の取調室では、黒田慎吾への事情聴取が始まっていた。
黒田は逮捕されたあとも、自分が何をしたのか正面から受け止めようとはしなかった。机を挟んで向かい合う捜査一課の石黒達也刑事に対し、同じ言葉を繰り返した。
「俺を選ばなかった女たちが悪いんです」
石黒は黙って黒田を見つめた。
「俺はちゃんと気持ちを伝えた。それなのに、彼氏がいるから無理だとか、警察に相談するとか……俺ばっかり悪者にされた。誰も俺のことを理解しようとしなかった」
「だから駅にいた人たちを襲ったのか」
「幸せそうな顔をしてる女を見ると、腹が立つんですよ。俺がこんな思いをしてるのに、あいつらだけ普通に笑ってる。俺を選ばない女が悪い。だから俺に刺されても仕方がない」
石黒の表情は変わらなかった。しかし、机の上に置かれた手には強く力が入っていた。
「あなたが傷つけた人たちは、あなたを拒絶した女性ですらない。あなたとは何の関係もない人たちだ」
黒田は視線をそらした。
「あなたが好意を寄せた女性にも、あなたと交際する義務はない。交際を断られたあとも連絡を続け、待ち伏せし、つきまとったのはあなた自身の選択だ。その結果、周囲が離れていった責任まで、被害者に押しつけるつもりか」
「でも、あの女が――」
「違う」
石黒は静かな声で遮った。
「人を傷つけると決め、刃物を用意し、駅へ向かい、何の関係もない人たちを襲ったのは、あなた自身だ。誰かにそうさせられたのではない」
黒田は黙り込んだ。
その沈黙は反省から生まれたものではなかった。ただ、自分の言い分が通らないことへの不満を押し殺しているだけだった。
夜7時。
「フライデー爆笑ラジオカフェ」の放送開始時刻を迎えた。しかし、いつもの軽快なテーマ曲は途中で音量を落とし、スタジオには笑い声のない静けさが広がっていた。
光子と優子の前にあるモニターには、規制線が張られた川崎駅と、救急車が並ぶ駅前の映像が映されていた。
光子がマイクの前でゆっくり息を吸った。
「こんばんは。光子です」
「優子です」
優子の声も、いつもの明るさを抑えていた。
「今夜の『フライデー爆笑ラジオカフェ』は、予定していた内容を変更します。夕方、JR川崎駅で無差別刺傷事件が発生し、複数の方が病院へ搬送されました。容疑者はすでに警察に確保されていますが、現場周辺では列車の運転見合わせや入場規制が続いています」
光子が続ける。
「川崎駅や周辺にいらっしゃる方は、駅員さんと警察の指示に従い、安全な場所へ移動してください。事件現場の映像や、被害に遭われた方が特定できる写真を、興味本位で撮影したり広めたりしないでください。ご家族の安否を心配している方も大勢いらっしゃいます」
そのとき、番組スタッフが一通のメッセージを二人へ渡した。
送り主の名前を見た光子と優子の表情が変わった。
それは、横浜ライブを心待ちにし、番組にも何度か楽しいメッセージを送ってくれていた乃亜からだった。
『光子さん、優子さん。川崎駅の事件で、私のお母さんが刺されました。今、病院で緊急手術を受けています。どうしてお母さんなのか分かりません。普通に仕事から帰ってきて、四人でご飯を食べるはずでした。お母さんが助かるように、一緒に祈ってください』
スタジオに長い沈黙が落ちた。
優子は唇をかみ、涙をこらえながらマイクへ向かった。
「乃亜ちゃん。大変なときに、知らせてくれてありがとう。今、どんな言葉を伝えても足りないと思います。お母さんは何も悪くない。乃亜ちゃんも、ご家族の誰も悪くありません」
光子もうなずいた。
「乃亜ちゃんのお母さん、そして今回の事件で傷つけられたすべての方が助かることを、心から願っています。乃亜ちゃん、今は無理に強くならなくていいよ。泣いてもいいし、怖いと言ってもいい。お父さんや弟さん、そばに来てくれた大人たちと一緒にいてください」
優子はモニターに映る川崎駅を見つめた。
「私たちの番組は、笑うことで少しでも心を軽くしたいという思いで続けています。でも今夜は、無理に笑う時間ではありません。傷ついた人を置き去りにせず、不確かな情報や心ない言葉で、ご家族をさらに傷つけない。そのために私たちができることを、皆さんと一緒に考えたいと思います」
二人は番組の予定を全面的に変更し、警察や鉄道会社から発表された情報、運転見合わせの状況、相談窓口や献血に関する案内を伝えた。事件の映像を繰り返し流すことはせず、未確認情報を拡散しないよう何度も呼びかけた。
放送の最後、光子と優子は杏子をはじめとする被害者たちへ、短い言葉を送った。
「どうか、帰りを待っている人のもとへ戻ってきてください」
「今夜は、日本中から届く祈りを、皆さんへ送ります」
病院の待合スペースでその放送を聴いていた乃亜は、スマートフォンを胸に抱いた。
「読んでくれた……」
勝は乃亜の肩を抱き寄せた。
「届いたな」
「お母さんにも、届くかな」
「届く。きっと聞こえてる」
深夜を過ぎても、手術室の表示は消えなかった。
乃亜は椅子に座ったまま何度も眠りかけ、そのたびに顔を上げて扉を見た。貴教は直哉の上着を掛けてもらい、母の通勤バッグを抱えたまま小さく丸くなっていた。
勝は一睡もせず、手術室の前に立ち続けていた。
午前四時三十七分。
ようやく手術中の表示が消えた。
扉が開き、手術着を着た救命救急医の佐伯直人が出てきた。勝たちは一斉に立ち上がった。
「斉藤杏子さんのご家族ですね」
「はい。妻は……妻は助かったんですか」
佐伯は慎重に言葉を選んだ。
「損傷した部位への処置と止血は行いました。現時点で心臓は動いています。ただし、出血が非常に多く、体への負担も深刻です。手術は終わりましたが、まだ危険な状態を脱したわけではありません」
乃亜が一歩前へ出た。
「お母さん、生きてるんですよね?」
「はい。懸命に闘っています」
「会えますか?」
「集中治療室へ移したあと、短い時間であれば、ご家族に入っていただけるよう調整します。ただ、これからの二十四時間から四十八時間が大きな山になります」
貴教が勝の服をつかんだ。
「お父さん、お母さん、帰ってくるよね?」
勝は涙をこぼしながら、今度ははっきりとうなずいた。
「帰ってきてもらうんだ。俺たち四人で、もう一度家に帰るんだ」
窓の外が、わずかに明るくなり始めていた。
けれど、杏子を待つ長い夜は、まだ終わっていなかった。
次回予告
長時間の手術を終え、集中治療室へ移された杏子。
わずかな面会時間を与えられた勝、乃亜、貴教は、呼びかけに反応しない杏子の手を握る。
「お母さん、乃亜やで。ライブの話、まだいっぱいしたいやろ?」
「俺、今度は真っすぐキュウリ切るから。だから見に来てよ」
一方、警察は黒田慎吾の自宅を捜索し、事件前から書き残されていた身勝手な言葉と、川崎駅を何度も下見していた記録を発見する。
そして病院では、杏子の容体に新たな変化が現れる。
次回、第22話「届いて、お母さん」。
家族の呼びかけは、深い眠りの中にいる杏子へ届くのでしょうか。




