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戻らない日常2「ただいま」の消えたホーム』  作者: リンダ


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途切れた帰り道」

戻らない日常2


第20話「途切れた帰り道」


数日後の夕方。


栄商事の川崎支店では、終業時刻を知らせるチャイムが鳴っていた。


「宮本さん、今日の資料、先方に送っておきました」


「ありがとう、斉藤さん。急ぎの対応まで頼んじゃって悪かったね」


「いえいえ。今日はそれほど遅くならずに済みましたし」


杏子はパソコンの電源を落とすと、家族のグループトークを開いた。


『今から帰るね。港南台には七時前かな』


すぐに乃亜から返事が届く。


『今日は私がサラダ担当!』


続いて、貴教からも写真が送られてきた。まな板の上に、太さのそろっていないキュウリが並んでいる。


『俺が切った。ちょっと曲がった』


杏子は思わず笑った。


『上手やん。指だけは切らんようにね』


最後に勝から届いたのは、フライパンのスタンプだった。


『今日はお父さん特製ハンバーグ』


『焦がさんといてや』


『信用がないな』


家族のやり取りを眺めながら、杏子は会社を出た。空には夕暮れの青が残り、駅へ向かう人の流れが歩道を埋めていた。


その頃、川崎駅では杉本駅員が改札付近を見回っていた。


帰宅時間と京浜東北線の遅れが重なり、コンコースはいつも以上に混雑している。案内放送が繰り返され、足早にホームへ向かう乗客の列が途切れない。


杉本は、その人波の向こうに立つ男を見つけた。


黒田慎吾だった。


以前に声をかけたときとは様子が違う。黒田は電光掲示板も見ず、改札を通る人々をじっと目で追っていた。特に若い女性や、笑い合う男女が通るたび、その表情が険しくなっていく。


杉本は隣にいた高瀬駅員を呼び止めた。


「高瀬さん。あの男、以前お声をかけた黒田慎吾です」


「また来たのか……」


黒田は上着のポケットに片手を入れたまま、改札を通過した。


杉本の胸に、言葉にできない危機感が走った。


「鉄道警察隊へ連絡を。今度は様子が違います」


高瀬が無線機を手にした。


その瞬間、黒田が京浜東北線ホームへ続く階段へ向かって走り出した。


「お客様、止まってください!」


杉本の声がコンコースに響く。


黒田は振り返らなかった。


階段を下りる途中、上着から包丁を取り出した。それを見た乗客の一人が悲鳴を上げ、人の流れが突然逆向きに動き始める。


「包丁を持ってる!」


「逃げて!」


階段は一瞬で混乱に包まれた。


黒田は近くにいた人々へ無差別に刃を向けた。逃げようとして転ぶ人、家族の手を引く人、壁際へ身を寄せる人。悲鳴と怒号が重なり、誰も状況を把握できなかった。


「俺に靡かない女が悪いんだ!」


黒田が叫ぶ。


「俺を選ばないんだから、俺に刺されても仕方がない!」


それは理由ではなかった。


好意を受け入れるかどうかは相手が決めることだ。黒田が抱えてきた怒りも孤独も、何の関係もない人を傷つけてよい根拠にはならない。


ただ、自分の過ちを認めず、拒絶された責任を女性や社会へ押しつけ続けた男の、身勝手な責任転嫁だった。


ホームでは非常を知らせる警報音が鳴り始めた。駅員が列車の進入を止め、乗客へ避難を呼びかける。


「改札方向へ戻らないでください! 反対側の階段から避難してください!」


杉本と高瀬は乗客を遠ざけながら、黒田の位置を無線で伝えた。連絡を受けていた鉄道警察隊も、すでにホームへ向かっていた。


その頃、杏子は改札を抜けていた。


騒ぎの中心から少し離れた場所にいた杏子には、最初、何が起きているのか分からなかった。大勢の人が階段を逆走し、誰かが「逃げろ」と叫んでいる。


目の前で、小さな男の子が人波に押されて転んだ。


「危ない!」


杏子は男の子の腕を取り、壁際へ引き寄せた。


「お母さんは?」


「あっち……」


泣きながら指さす先で、一人の女性が必死に子供の名前を呼んでいた。


「大丈夫。お母さん、そこにおるよ。走らんでええから、一緒に行こう」


杏子が男の子を立たせた、そのときだった。


背後で鋭い叫び声が上がった。


杏子が振り返る。


人々の隙間から、包丁を持った黒田が迫っていた。


逃げようとした乗客同士がぶつかり、杏子の体がわずかによろめく。杏子は男の子を母親のいる方向へ押し出した。


「行って!」


次の瞬間、杏子の体に強い衝撃が走った。


何が起きたのか理解できないまま、杏子は床に膝をついた。手から通勤バッグが離れ、中身がホームに散らばる。


スマートフォンの画面には、家族のグループトークが開かれたままだった。


『今から帰るね』


その言葉の下で、勝から新しいメッセージが届く。


『ハンバーグ、もうすぐ焼けるぞ』


鉄道警察隊員がホームへ駆け込み、杉本たちと連携して黒田を取り押さえた。


「包丁を離せ!」


黒田はなおも意味の通らない言葉を叫び続けていたが、間もなく身柄を確保された。


しかし、混乱は終わらなかった。


複数の負傷者がホームと階段に倒れている。駅員や居合わせた乗客が声をかけ、次々に救急隊が到着した。


「聞こえますか。お名前を教えてください」


杏子はかすかに目を開けた。


「……斉藤……杏子です」


「ご家族へ連絡できますか?」


杏子の視線が、少し離れた場所に落ちているスマートフォンへ向いた。


「夫と……子供が……待ってるんです」


「分かりました。もう救急車が来ています。話さなくて大丈夫です」


「帰らないと……」


杏子の声は、構内の警報音にかき消された。


港南台の斉藤家では、ハンバーグの焼ける匂いが台所に広がっていた。


「乃亜、トマト切れたか?」


「完璧。今日は厚さも全部そろってる!」


「お姉ちゃん、それ一個だけ分厚いやん」


「これはお母さん用の特別サイズ!」


「言い訳やろ」


勝は笑いながら皿を並べた。


時計は七時を過ぎていた。


「お母さん、そろそろ着くんちゃう?」


乃亜がスマートフォンを見る。しかし、杏子から新しい連絡は届いていない。


貴教がテレビのチャンネルを変えると、画面に速報が表示された。


――川崎駅で刃物を持った男が複数の乗客を襲ったとの情報。京浜東北線は運転を見合わせています。


台所から、フライパンの焼ける音だけが聞こえた。


乃亜の表情が消える。


「お母さん……川崎駅やんな?」


勝はすぐに杏子へ電話をかけた。


呼び出し音が続く。


一回。


二回。


三回。


誰も出ない。


「電車が止まって、電話に気づいてないだけや」


勝はそう言った。しかし、その声は自分でも分かるほど震えていた。


もう一度かける。


今度は、知らない男の声が電話に出た。


『斉藤杏子さんのご家族の方でしょうか』


勝の手から血の気が引いた。


「夫です。杏子に何があったんですか」


『奥様は川崎駅で発生した事件に巻き込まれ、現在、病院へ搬送されています』


乃亜と貴教は、電話を握る父の顔を見つめていた。


食卓には四人分の皿が並び、杏子の席だけが空いている。


テレビでは事件現場の映像が繰り返されていた。


勝は電話を切ると、震える息をのみ込んだ。


「病院へ行くぞ」


「お母さん、大丈夫なん?」


貴教が尋ねる。


勝は答えられなかった。


乃亜はテーブルの上に置かれた母の箸を、じっと見つめていた。


少し前まで、斉藤家にはいつもの夕食が始まろうとしていた。


焼きたてのハンバーグを囲み、今日あった出来事を話し、誰かの一言に全員で笑うはずだった。


けれど杏子の帰り道は、川崎駅で突然途切れた。


そして斉藤家の「いつもどおり」もまた、二度と同じ形では戻らない夜を迎えようとしていた。


次回予告


川崎駅で起きた無差別刺傷事件。


杏子が搬送された病院へ駆けつけた勝、乃亜、貴教は、手術室の前で医師の言葉を待ち続ける。


「お母さん、朝になったら帰ってくるよね?」


答えられない勝のスマートフォンには、親族や職場からの連絡が相次ぐ。


一方、逮捕された黒田慎吾は、取調室でも被害者へ責任を押しつける言葉を繰り返していた。


「俺を選ばなかった女たちが悪い」


その供述を聞いた刑事は、静かな怒りを込めて告げる。


「あなたが傷つけた人たちは、あなたを拒絶した女性ですらない。あなたとは何の関係もない人たちだ」


次回、第21話「お母さんを待つ夜」。


閉ざされた手術室の扉の向こうで、杏子の命をつなぐための闘いが続きます。

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