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戻らない日常2「ただいま」の消えたホーム』  作者: リンダ


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いつもの帰り道

 第19話「いつもの帰り道」


 夏祭りが終わった翌週、斉藤家にはいつもの平日が戻っていた。


 朝の食卓では、乃亜が前日のバスケットボール練習について話し、貴教はトーストをくわえたまま、プロ野球の結果を確認している。勝は新型車の試験日程が表示されたタブレットを眺め、杏子は時計を気にしながら弁当をバッグへ入れていた。


「今日、急な対応が入るかもしれんから、帰りが少し遅くなるかも」


 杏子が伝えると、乃亜がすぐに顔を上げた。


「晩ごはん、どうする?」


「昨日のカレーが残ってるから、温めて食べて。お父さんが早かったら、何か追加で作ってくれるやろ」


 勝がタブレットから顔を上げる。


「任せろ。冷蔵庫にあるもので何とかする」


 貴教が不安そうに尋ねた。


「お父さん、ルーを二箱入れたりせんよね?」


「カレーはもうできているんだから、ルーは入れない」


「お姉ちゃんが前に全部入れたから」


「またその話する?」


 朝から始まった姉弟げんかに、杏子は笑いながら靴を履いた。


「ほな、行ってきます」


「行ってらっしゃい!」


 三人の声に見送られ、杏子はいつものように港南台駅へ向かった。


 根岸線から京浜東北線へ直通する電車には、毎朝見かける顔が並んでいた。新聞を読む会社員、眠そうに立つ学生、子供を保育園へ送った帰りらしい母親。杏子もつり革につかまり、今日の商談資料へ目を通した。


 電車は定刻どおり川崎駅へ到着した。


 ホームを歩く杏子の近くを、楽しそうに話す若い男女が通り過ぎていく。その少し先では、以前から駅員に警戒されていた男が、柱の陰から人の流れを見つめていた。


 男の名前は、黒田慎吾。三十五歳。


 黒田は電車へ乗るわけでもなく、誰かと待ち合わせをしている様子もなく、ただホームに立ち続けていた。到着した電車のドアが開いても動かず、乗客が降りてくるたび、その顔を一人ずつ確かめるように視線を向ける。


 杉本駅員は、離れた位置から黒田の様子を見ていた。


「また来ていますね」


 隣にいた高瀬駅員が振り返る。


「この前、鉄道警察隊と一緒に声をかけた男か?」


「たぶん、同じ人です。服装は違いますけど、顔に見覚えがあります」


 二人はしばらく黒田の行動を確認した。黒田は腕時計を見ることも、スマートフォンで誰かに連絡することもない。何本もの電車を見送りながら、カップルや子供を連れた家族へ視線を向けている。


「あの男、何をやっているんですかね。電車を待ってるわけでも、誰かを待ってるわけでもなさそうです」


 杉本の言葉に、高瀬も表情を曇らせた。


「鉄道警察隊へ連絡しておくか。何もなければ、それでいい」


 駅員たちが感じたのは、説明しにくい違和感だった。黒田は大声を出しているわけでも、乗客へ直接話しかけているわけでもない。それでも、駅を利用する目的が見えないまま、人々の表情だけを観察し続ける姿は、以前よりも不気味に映った。


 黒田の視線の先を、幼い子供を連れた家族が歩いていく。父親が子供を抱き上げ、母親が笑いながらその背中を支えていた。


 黒田は、その光景を目で追った。


 なぜ、自分にはあれがないのか。


 なぜ、あの男には家族がいて、自分には誰もいないのか。


 黒田の胸に浮かぶのは寂しさではなく、他人の幸福を責めるような怒りだった。


 数年前、黒田には好意を寄せていた女性がいた。同じ職場で働いていた長谷川理沙という女性だった。


 黒田は何度か食事へ誘い、ある日、自分の気持ちを伝えた。しかし理沙には交際している男性がいた。


「気持ちはありがたいです。でも、私には付き合っている人がいるので、黒田さんとはお付き合いできません」


 理沙は相手を傷つけないよう言葉を選び、はっきりと断った。


 本来なら、それで終わる話だった。


 だが、黒田は受け入れなかった。


「一度、二人で話せば分かってもらえる」


「俺のことを、まだよく知らないだけだ」


 そう自分へ言い聞かせ、理沙が返事をしなくなっても、何度もメッセージを送った。勤務後の理沙を駅まで追い、帰宅時間に合わせて職場の外で待つこともあった。


 理沙は上司へ相談し、やがて警察にも助けを求めた。黒田は警察から、連絡や接近をやめるよう警告を受けた。


 職場でも事情が知られるようになり、同僚たちは黒田から距離を置いた。親しくしていた知人も、理沙の意思を尊重するよう忠告したが、黒田はそれを自分への裏切りだと受け取った。


 誰も分かってくれない。


 自分はただ、好きな女性と話したかっただけだ。


 理沙が警察へ相談したせいで、自分の評判が壊れた。


 黒田はそう考え続けた。


 しかし実際には、黒田を孤立させたのは理沙の拒絶ではない。相手が断ったあとも意思を無視し、付きまといをやめなかった黒田自身の行動だった。


 黒田はその事実から目をそらし、責任を周囲へ押しつけた。


 職場を離れてからも人間関係は長続きしなかった。忠告されれば攻撃されたと感じ、距離を置かれれば見下されたと思い込んだ。自分の言動を振り返ることはなく、孤立が深まるほど、女性や恋人のいる男性への不満を強めていった。


 ホームを歩く若いカップルが、顔を寄せ合ってスマートフォンの画面を見ている。


 黒田は二人の笑顔をにらむ。


 ――なんで俺は、こんないい男なのに、誰もなびかないんだよ。


 その思いは、自信ではなかった。自分の望みが受け入れられない現実を、他人の責任へ変えるための歪んだ理屈だった。


 とりわけ、幸せそうに笑う女性を見ると、黒田の中では理沙の姿が重なった。自分を拒んだ女性、自分以外の男性を選んだ女性、自分を警察へ訴えた女性。目の前の見知らぬ女性たちには何の関係もないのに、黒田は勝手に同じ側へ分類し、怒りを膨らませていく。


 やがて駅員室から連絡を受けた鉄道警察隊員二人が、ホームへ姿を見せた。


 杉本と高瀬が合流し、黒田へ近づく。


「お客様、以前にもこちらでお声をかけた方でしょうか」


 黒田はゆっくりと振り返った。


「違います」


「念のため、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」


 しばらく沈黙したあと、黒田は小さな声で答えた。


「黒田慎吾です」


「どなたかをお待ちですか?」


「別に。電車を見ていただけです」


「長時間ホームにいらっしゃるようですが、どちらかへ乗車されるご予定は?」


「もう帰ります」


 黒田はそれだけ言うと、階段の方向へ歩き始めた。鉄道警察隊員は無理に引き留めず、その背中を見送った。


 その時点で、黒田は具体的な違反行為をしていなかった。それでも駅側は、以前にも似た行動が確認されていたことから、氏名、時刻、特徴を記録し、再び不審な滞留があれば連絡することを確認した。


 杉本は、黒田が消えた階段を見つめた。


「やっぱり、何か引っかかるんですよね」


 鉄道警察隊員が答える。


「違和感を軽く考えず、見かけたら共有してください。早めに声をかけることにも意味があります」


 黒田が改札を出たあと、川崎駅にはいつもの朝が戻った。


 杏子はそのやり取りを知らないまま、栄商事へ出勤していた。


 午後になると、取引先へ送る商品の数量に食い違いが見つかり、杏子の所属する営業部は対応に追われた。倉庫、取引先、社内の担当部署へ何度も連絡を入れ、資料を修正し、今後の納品日程を組み直す。


 時計が午後六時を回った頃、杏子は勝へメッセージを送った。


『やっぱり少し遅くなる。先に晩ごはん食べてて』


 すぐに返信が届く。


『了解。今日は俺が温める。安心して仕事を終わらせて』


 そのあと、乃亜からも届いた。


『カレー焦がさんように見張っとく』


 続いて貴教。


『お父さん、鍋の火を強くしようとしてます』


 杏子は思わず笑い、短く返信した。


『乃亜、貴教、お父さんの監督よろしく』


 斉藤家では、勝が鍋をかき混ぜながら子供たちへ反論していた。


「温めるだけなのに、どうして二人に監視されなきゃいけないんだ」


「お父さん、さっき火を一番強くしたやん」


「早く温めようと思って」


「カレーは新型車の加速試験と違うで」


 乃亜の言葉に、貴教が笑い転げる。勝は苦笑しながら火を弱めた。


 午後七時過ぎ、仕事を終えた杏子は栄商事を出て、川崎駅へ向かった。京浜東北線は車両点検の影響で遅れが発生し、コンコースには帰宅を急ぐ乗客があふれていた。


 改札前の案内表示を確認しながら、杏子は勝へメッセージを送る。


『今から帰るね』


 送信した直後、勝から笑顔の絵文字とともに返信が届いた。


『気をつけて。カレーは無事だ』


 杏子は画面を見て笑い、そのまま改札を通った。


 同じ頃、黒田慎吾は駅の外にいた。


 一度は鉄道警察隊に声をかけられて立ち去ったものの、駅前から離れず、ガラス越しに人々の動きを見ていた。仕事帰りの夫婦、手をつないで歩く恋人たち、家族へ電話をかける女性たち。


 その中に杏子の姿もあった。


 だが、黒田が杏子個人を知っていたわけではない。杏子は、黒田の前を通り過ぎた大勢の乗客の一人にすぎなかった。


 黒田が見ていたのは、一人ひとりの事情ではない。自分には与えられなかったと勝手に思い込んでいる幸福の象徴だった。


 杏子は遅れて到着した電車へ乗り、川崎駅を離れた。


 午後八時を過ぎた頃、玄関の扉が開く。


「ただいま」


「おかえり!」


 乃亜と貴教が同時に駆け寄り、勝がキッチンから顔を出した。


「カレーは焦げてないぞ」


 杏子は靴を脱ぎながら笑った。


「まず最初に報告するのが、それなん?」


「今日の最重要事項だったからな」


 温め直されたカレーを囲み、四人はいつものように一日の出来事を話した。乃亜は学校で美羽と笑ったことを、貴教は休み時間の野球でホームランを打ったことを、勝は試験車両の調整が進んだことを話す。


 杏子も、仕事のトラブルが無事に片づいたと報告した。


 少し遅くなっただけの、どこにでもある平日の夜だった。


 食後、杏子は送信履歴に残る『今から帰るね』というメッセージを見た。その一言に、家で待つ三人からすぐ返事が届くことを、杏子は当たり前のことだと思っていた。


 そして、勝も乃亜も貴教も、杏子が「ただいま」と帰ってくることを疑っていなかった。


 一方、川崎駅前を離れた黒田慎吾は、暗い道を一人で歩いていた。


 自分の孤立を招いた行為を振り返ることなく、他人の幸福へ責任を押しつける。その不満は、誰かに止めてもらうことを待つようなものではなく、黒田自身が育て続けているものだった。


 その夜、川崎駅では、黒田に関する新たな申し送りが作成された。


 駅員たちは、まだ知らなかった。


 自分たちが感じていた言いようのない違和感が、まもなく現実の危険へ変わろうとしていることを。


 次回予告


 数日後の夕方。


 杏子はいつものように仕事を終え、川崎駅から港南台の自宅へ帰ろうとしていた。勝は車で帰宅し、乃亜と貴教は母を待ちながら夕食の準備を進める。


 混雑する川崎駅で、杉本駅員は再び黒田慎吾を見つける。


「鉄道警察隊へ連絡を。今度は様子が違います」


 駅員たちが動き始めた、その直後。


 ホームの一角から、鋭い叫び声が響く。


 次回、第20話「途切れた帰り道」。


 いつもどおり続くはずだった斉藤家の夜が、その瞬間を境に変わり始めます。

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