残り三秒、誰に託す?
第17話「残り三秒、誰に託す?」
港ブルーサンダースの練習試合は、第四クオーターの残り一分を切っても、どちらが勝つか分からない接戦が続いていた。
得点は三十六対三十八。港ブルーサンダースが二点を追っている。
主将の横山紗良が相手の守備を引きつけ、石井結衣へパスを出す。結衣はゴール下へ切り込もうとしたが、二人の選手に進路をふさがれた。
「乃亜!」
結衣からのパスを受けた乃亜は、右へ一歩踏み込んで相手をかわし、ゴール下へボールを放った。
しかし、シュートはリングの手前に当たって外れた。
「リバウンド!」
小林凛が懸命に跳び、こぼれたボールを確保する。凛からパスを受けた田辺心春が、落ち着いてミドルシュートを決めた。
三十八対三十八。同点。
残り時間は十八秒だった。
相手チームは時間を使いながら最後の攻撃へ入った。港ブルーサンダースの選手たちは必死に足を動かし、ボールを持つ選手へ食らいつく。
残り七秒。相手がゴール下へ切り込む。
「行かせない!」
紗良が正面へ入り、相手のシュートコースをふさいだ。苦しい姿勢から放たれたボールはリングに当たって外れ、松永七海が両手でリバウンドを抱える。
「取った!」
まだ四年生の七海は、すぐに乃亜を探した。
「乃亜ちゃん!」
パスを受けた乃亜が前を向いた瞬間、終了を告げるブザーが鳴る――その直前、相手選手の手がボールに触れ、コートの外へ出た。
審判が時計を確認する。
残り三秒。港ブルーサンダースのボールだった。
村瀬浩司コーチが、すぐさまタイムアウトを要求した。
選手たちはベンチへ集まり、肩で息をしながら村瀬を見つめる。体育館の観客席からは、勝、杏子、貴教が心配そうにコートを見下ろしていた。
「残り三秒。おそらく、これが最後の攻撃になる」
村瀬は作戦ボードを選手たちの前へ置いた。
「紗良が相手を引きつけ、結衣が乃亜へのパスコースを作る。心春は逆側へ動き、凛と七海はリバウンドへ入れ。相手は乃亜のシュートを警戒してくるだろう」
乃亜はタオルで汗を拭きながら、作戦ボードを見つめた。
ここまで乃亜は、何度も積極的にシュートを打っていた。しかし、第四クオーターに入ってからは三本続けて外している。
――次も外したら。
その考えが頭をよぎった。
村瀬は乃亜の表情を見て、静かに尋ねる。
「怖いか?」
乃亜は一瞬迷ったあと、正直にうなずいた。
「はい。でも、逃げたくないです」
「それでいい。最後に誰が打つかは、最初から決めつけなくていい。コートの中で一番よい選択をしなさい」
紗良が乃亜の肩へ手を置いた。
「私たちは、乃亜が何を選んでも動くから」
結衣もうなずく。
「シュートでもパスでも、乃亜が決めたことを信じるよ」
心春が冷静な口調で付け加える。
「ただし、悩んでいる時間はないからね。三秒しかないし」
「分かってるよ!」
いつもの突っ込みに、乃亜の表情がわずかに緩んだ。
ブザーが鳴り、両チームの選手がコートへ戻る。
観客席では、貴教が落ち着かない様子で立ち上がっていた。
「お姉ちゃんが打つんかな?」
勝はコートから目を離さずに答える。
「分からない。だが、乃亜なら最後まで考えて決めるさ」
杏子は両手を組み、祈るように娘を見つめていた。
選手たちが配置につく。七海がサイドラインの外でボールを持ち、審判から手渡されるのを待つ。
審判の笛が鳴った。
三秒。
紗良がゴール方向へ走り、乃亜を守る相手選手の進路へ体を入れる。結衣も逆側から動き、わずかな空間を作った。
「乃亜ちゃん!」
七海がパスを出す。
乃亜は両手で確実にボールを受けた。
二・六秒。
目の前には相手選手が一人。左側には心春が空いている。ゴール下では凛がリバウンドに備え、紗良と結衣も次の動きへ入っていた。
ほんの一瞬だけ、乃亜の視界が狭くなる。
――パスを出す?
――自分で打つ?
そのとき、紗良の声が聞こえた。
「乃亜、コート全体を見て!」
乃亜は顔を上げた。
心春へパスを出すコースも見えた。凛がゴール下へ入る姿も、結衣が相手を引きつけている動きも見えた。
そして、自分の前に生まれた、わずかなシュートコースも見えた。
迷いは消えた。
――ここは、私が打つ。
二秒。
乃亜は右足を踏み込み、ボールを一度だけ床へついた。相手選手がパスを警戒して横へ動いた瞬間、乃亜はリングの正面へ入った。
一・二秒。
両足で床を蹴り、真っすぐ跳ぶ。
これまで何千回も練習してきた形だった。肘をリングへ向け、手首を柔らかく返す。
〇・八秒。
乃亜の指先からボールが離れた。
体育館中の視線が、弧を描くボールへ集まる。
時間が止まったように、乃亜にはボールの回転がはっきりと見えた。
勝たなければならない。
自分が決めなければならない。
最上級生として、チームを引っ張らなければならない。
これまで胸の奥へ押し込めてきた重圧が、ボールと一緒にリングへ向かっていく。
ボールはバックボードの内側へ当たり、リングの上で一度だけ跳ねた。
そして、白いネットを揺らして落ちた。
電光表示は、残り〇・〇一秒。
三十八対四十。
港ブルーサンダースが、初めてリードを奪った。
「入った!」
貴教が観客席で飛び上がる。
杏子は両手で口元を覆い、勝は大きく拳を握った。
残された時間は、相手がボールへ触れることさえ難しいほど短かった。再開直後、試合終了のブザーが体育館に響き渡る。
港ブルーサンダースの勝利が決まった。
その瞬間、乃亜は両手を上げた。しかし、すぐに力が抜けたようにコートへ膝をついた。
「乃亜!」
紗良が真っ先に駆け寄り、結衣、心春、凛、七海も続く。
「入ったよ! 乃亜、入った!」
結衣が抱きつき、七海も乃亜の背中へ腕を回す。
「乃亜ちゃん、すごい! すごい!」
乃亜は笑おうとした。しかし、顔を上げたときには涙があふれていた。
「怖かった……」
声が震えていた。
「外したらどうしようって、ずっと怖かった。うちが決めんと負けるって思ったら、足が動かんようになりそうやった」
紗良は乃亜の隣へしゃがみ、その肩を抱いた。
「それでも、自分で打ったんだね」
「みんなが動いてくれたから。紗良ちゃんも、結衣も、心春も、凛ちゃんも、七海ちゃんも……みんなが空けてくれたから、打てた」
心春が目元を拭きながらも、いつもの調子で言う。
「泣くのはいいけど、鼻水はユニフォームで拭かないでね」
「拭かんよ!」
乃亜が泣きながら言い返すと、仲間たちに笑いが広がった。
村瀬コーチは、抱き合う選手たちを少し離れた場所から見守っていた。やがて全員を集めると、穏やかな声で話し始めた。
「最後のシュートを決めたのは乃亜だ。しかし、その一本は乃亜だけの得点じゃない。紗良が相手を引きつけ、結衣が道を作り、心春がパスの選択肢になり、凛と七海がリバウンドへ入った。五人全員で生み出したシュートだ」
選手たちは真剣な表情でうなずいた。
「乃亜、自分で打つと決めた理由は?」
「コート全体を見たら、みんなが私のために動いてくれているのが見えました。それで、今なら打てると思いました」
「なら、その判断でいい。自分で打つことと、自分勝手に打つことは違う。仲間の動きを見て、責任を引き受けて放ったシュートなら、それはチームのシュートだ」
「はい!」
試合後、観客席から下りてきた家族のもとへ乃亜が向かうと、杏子が娘を強く抱き締めた。
「よう決めたね。めっちゃ格好よかったよ」
「お母さん、苦しい……」
そう言いながらも、乃亜は母の背中へ腕を回した。
勝は目を赤くしながら、乃亜の頭を優しくなでる。
「お父さん、泣いてる?」
「汗だ」
「体育館で座って見てただけやん」
貴教が横から割り込む。
「お姉ちゃん、残り〇・〇一秒って、ほとんど時間ないやん! 俺のライトからの返球より速いやん!」
「比べるものが違うよ」
乃亜が笑うと、貴教は両手を上げてシュートのまねをした。
「俺も、家に帰ったらやってみる!」
帰宅後、貴教はリビングのごみ箱をゴールに見立て、丸めた靴下で決勝シュートの再現を始めた。
「残り三秒! 斉藤貴教、打った!」
放たれた靴下は、ごみ箱を大きく外れ、洗濯物を畳んでいた杏子の頭へ落ちた。
「貴教」
低い声で名前を呼ばれ、貴教の動きが止まる。
「……残り〇・〇一秒で逃げます」
「逃げる時間はありません」
乃亜と勝が同時に吹き出し、リビングは再び笑いに包まれた。
その夜、乃亜は自分の部屋で、勝が撮影した最後のシュートの動画を何度も見返していた。画面の中では、仲間たちが自分のために走り、シュートが決まった瞬間には、誰よりも先に喜んでくれている。
乃亜は動画を止め、チームの連絡グループへ短いメッセージを送った。
『みんながいたから打てました。次も五人で勝とうね』
すぐに紗良から返信が届く。
『次は残り三秒になる前に勝とう』
続いて心春からも届いた。
『毎回〇・〇一秒は心臓に悪いです』
乃亜は声を上げて笑い、スマートフォンを胸の上へ置いた。
同じ頃、杏子は川崎駅から帰宅するため、京浜東北線のホームへ向かっていた。以前より駅員や鉄道警察隊の巡回が少し増えていることに気づいたものの、何かの強化期間なのだろうと思い、そのまま電車へ乗り込んだ。
ホームに、あの男の姿はなかった。
少なくとも、その日までは。
次回予告
港南台の町内会で、夏祭りが開かれることになった。
乃亜は港ブルーサンダースの仲間たちと屋台を手伝い、貴教は横浜リトルファイヤーズのチームメイトと射的へ挑戦。勝と杏子も、久しぶりに浴衣で会場へ向かう。
ところが人混みの中で、貴教の姿が見えなくなってしまう。
「貴教、どこ行ったん!」
家族と仲間たちが探し回るなか、本人は意外な場所で、ある子供を助けていた。
次回、第18話「浴衣と焼きそばと迷子」。
迷子になったのは、貴教なのでしょうか。それとも――。




