ライトへ走れ
第16話「ライトへ走れ」
土曜日の朝、横浜リトルファイヤーズは、港南ウイングスとの練習試合に臨んでいた。
貴教はベンチの前に立ち、グローブを何度も開いたり閉じたりしながら試合を見つめていた。入団後の初打席ではライト前ヒットを放ったものの、今日はまだ出番がない。
「守備練習では取れるんやけどなあ……」
貴教がつぶやくと、隣に座っていた森田蓮が笑う。
「試合で飛んでくると、ボールが大きく見えるぞ」
「大きく見えるなら取りやすいやん」
「いや、近づいてくると怖いってこと」
「先に言わんといてよ!」
その会話を聞いていた河合悠斗が、グラウンドを指差した。
「貴教、ライトなら風にも気をつけろよ。今日は少し流されるから」
「風まで相手にせんといけんの?」
「野球は九人対九人だけど、外野手だけは風と太陽も相手なんだよ」
貴教は急に不安になり、空を見上げた。青空には薄い雲が浮かび、時折、外野からホーム方向へ強い風が吹いていた。
試合は三回を終えて、横浜リトルファイヤーズが二対三と一点を追っていた。大森監督が選手交代を告げる。
「四回から、貴教がライトへ入れ」
「はい!」
待っていた出番のはずなのに、返事をした貴教の声は少し裏返っていた。
大森監督は、その表情を見逃さなかった。
「緊張しているか?」
「ちょっとだけです」
「ちょっとだけの顔には見えないな」
監督は笑いながら、貴教の肩を軽くたたいた。
「最初から完璧に守れる選手はいない。怖がって打球から逃げるな。自分のところへ飛んできたら、声を出して前へ出ろ」
「はい!」
貴教がライトの守備位置へ走っていくと、観客席から杏子の声が飛んだ。
「貴教~! 頑張れ~!」
勝も立ち上がり、右手を挙げる。乃亜は両手を口元に当て、グラウンド中へ聞こえる声で叫んだ。
「エラーしても、晩ごはんはあるで~!」
貴教は振り返り、グローブを振り上げる。
「縁起でもないこと言わんといて!」
そのやり取りに、ベンチの選手たちから笑いが起こった。緊張が少しだけほぐれ、貴教はライトの定位置についた。
四回表。先頭打者が内野ゴロに倒れ、一死となる。続く打者が高めの球を振り抜くと、白いボールが高く舞い上がった。
「ライト!」
一瞬、貴教の足が止まった。
自分のところへ飛んでくる。そう分かった途端、練習のときには感じなかった恐怖が胸に広がった。空へ上がったボールは、青空と重なって急に小さくなったように見える。
貴教は前へ二歩進んだ。しかし、風に押された打球は予想よりも後ろへ伸びていく。
「下がれ、貴教!」
センターから蓮の声が飛ぶ。
貴教は慌てて後ろを向き、打球を追った。もう一度見上げたときには、ボールがどこにあるのか分からなくなっていた。
「ボールから目を離すな!」
大森監督の声が響く。
貴教は必死に空を探し、ようやく白球を見つけた。グローブを伸ばすものの、落下地点から半歩ずれている。
ボールはグローブの先に当たり、芝生へ落ちた。
「あっ!」
打者走者は一塁を回り、二塁へ進む。記録はライトのエラーだった。
貴教は急いでボールを拾い、内野へ返した。その顔からは、試合前までの明るさが消えていた。
「ごめん!」
「まだ一死だ! 次、切り替えよう!」
ショートの悠斗が声をかける。センターの蓮も、離れた場所からグローブをたたいた。
「次は取れる! 打球より先に落下地点へ入れ!」
後続の打者が打席に入るまでの間、大森監督がライトへ向かって声を張った。
「貴教、今のでいい!」
エラーしたのに「いい」と言われ、貴教は驚いて監督を見る。
「怖くても最後まで追った。だが、最初の一歩が前だったから遅れたんだ。打球が上がった瞬間、すぐ後ろへ走ろうとするな。ボールを見ながら角度を判断しろ!」
「はい!」
「一個失敗したなら、一個分うまくなれ!」
貴教は大きくうなずき、再び構えた。
エラーで出た走者は二塁に残ったものの、投手が後続を抑え、失点にはつながらなかった。ベンチへ戻ってきた貴教に、大森監督は叱ることも慰めることもせず、先ほどの打球がどのように伸びたのかを丁寧に説明した。
「外野フライは、真下から見上げると動きが分かりにくくなる。少し回り込んで、ボールの後ろから入るんだ」
「後ろから?」
「捕ったあと、すぐ内野へ投げられる姿勢を作るためでもある。肩が強いだけでは外野手にはなれない。捕って、投げて、初めて一つの守備だ」
貴教は何度もうなずいた。
四回裏、横浜リトルファイヤーズは一点を返して三対三の同点に追いついた。五回表も貴教はライトの守備へ入る。
先頭打者が、今度は浅いライトフライを打ち上げた。
「ライト、前!」
貴教は最初の打球のように立ち止まらず、ボールを見ながら前へ走った。落下地点へ近づくほど、ボールの動きが少しずつ分かるようになる。
「オーライ! オーライ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
最後は小走りになって位置を調整し、胸の前でグローブを構える。白球が吸い込まれるように収まった。
「アウト!」
審判の声が響いた瞬間、貴教はグローブを掲げた。
「取った!」
杏子と乃亜が同時に立ち上がる。
「貴教、ナイスキャッチ!」
「今のは晩ごはん大盛り!」
「さっきも晩ごはんはあるって言ってたやん!」
貴教がライトから言い返すと、観客席に笑いが広がった。
それから貴教の動きは、目に見えて変わった。打球が上がるたびに足を止めず、周囲の選手と声を掛け合う。自分のところへ飛んでこない打球でも、内野からの返球に備えて動いた。
次の打者がライト前へ鋭い打球を放つ。今度はフライではなく、芝生を転がるヒットだった。
二塁にいた走者は三塁を回ろうとする。貴教は正面から打球へ入り、腰を落として捕球すると、迷わず三塁へ投げた。
低く伸びた送球が、ほとんどノーバウンドで三塁手のグローブへ届く。
「アウト!」
走者より一瞬早かった。
ベンチが大きく沸き、大森監督も両手をたたいた。
「それだ、貴教! 肩だけじゃなく、捕ってからが速かったぞ!」
貴教は嬉しそうに笑い、ライトへ戻っていった。
「俺、今の格好よかった?」
観客席に向かって尋ねると、乃亜が答える。
「めっちゃ格好よかった! 最初のエラーがなかったら完璧やった!」
「今、それ言わんでええやろ!」
試合は六回表を迎え、四対四の同点だった。二死一塁から、相手打者が大きな当たりを放つ。
打球は再びライト方向へ高く上がった。
最初に落球したものよりも、さらに高い。風にも流されている。
貴教は一歩目で慌てなかった。ボールの角度を見ながら斜め後ろへ走り、途中で一度だけ速度を緩める。それから落下地点へ回り込み、右手を添えてグローブを構えた。
「オーライ!」
ボールが落ちてくる。
今度は最後まで目を離さなかった。
乾いた音とともに、白球がグローブへ収まる。
「アウト! チェンジ!」
貴教はしっかりとボールを握ったまま、その場で小さく飛び上がった。蓮と悠斗が駆け寄り、背中をたたく。
「取れたじゃん!」
「最後の入り方、よかったぞ!」
試合は四対四の引き分けに終わった。横浜リトルファイヤーズは勝てなかったものの、貴教は三度の守備機会をこなし、エラーは最初の一個だけで済んだ。
試合後のミーティングで、大森監督が選手たちの前に立つ。
「今日、一番変わったのは貴教だな」
貴教は少し照れながら顔を上げた。
「最初の打球は落とした。だが、そのあと逃げずに二つのフライを捕り、強い送球で走者も刺した。外野手に大切なのは、エラーを一度もしないことだけじゃない。失敗したあと、次の打球へ向かえることだ」
「はい!」
「ただし、次の試合では最初から捕れよ」
「はい……」
チームメイトたちが笑い、貴教も頭をかきながら笑った。
帰りの車内で、貴教は後部座席から何度も尋ねた。
「最後のフライ、ちゃんと撮れてる?」
助手席の杏子が、勝の撮影した動画を確認する。
「撮れてるよ。最初に落としたところから、全部」
「最初のは消して」
乃亜がすぐに口を挟む。
「消したらあかんよ。失敗したあとに捕れるようになったのが分からんやん」
「でも、格好悪いし」
勝は前を向いたまま言った。
「残しておけ。今日の一番大事な場面は、最後のキャッチだけじゃない。落としたあと、次の打球から逃げなかったことだ」
貴教は少し考え、やがてうなずいた。
「じゃあ、最初から最後まで残しといて」
「へそ天写真と同じ“重要証拠”のフォルダーに入れようか?」
乃亜が笑う。
「野球用のフォルダーを新しく作って!」
その夜、貴教はグローブを磨きながら、何度も右手を開いたり閉じたりしていた。
「最初は、ボールが落ちてくるのが怖かった。でも、一回取れたら、次は早く飛んできてほしいって思った」
杏子が隣に座り、優しく尋ねる。
「外野、好きになれそう?」
「うん。まだちょっと怖いけど、ライトから投げるのは気持ちよかった」
乃亜がバスケットボールを指先で回そうとして、すぐに落とす。
「失敗しても、次があるってことやね」
「お姉ちゃんは今、普通に失敗しただけやろ」
「これも成長の途中です!」
いつもの姉弟げんかが始まり、勝と杏子は顔を見合わせて笑った。
同じ頃、川崎駅の駅員室では、数日前に長時間ホームへ滞在していた男についての申し送りが行われていた。しかし、その後、男の姿は確認されていなかった。
「声をかけられて、もう来なくなったんですかね」
杉本駅員の言葉に、先輩駅員は静かに答えた。
「そうならいい。ただ、決めつけずに注意して見ていこう」
その夜、駅から少し離れた歩道橋の上に、一人の男が立っていた。眼下を走り抜ける京浜東北線の明かりを見つめたあと、男は上着の内側へ手を入れ、折り畳まれた封筒に触れた。
電車の窓には、家路へ向かう人々の姿が流れていく。
男は何も言わず、やがて暗い階段を下りていった。
次回予告
港ブルーサンダースの練習試合は、残り三秒で同点。
最後の攻撃を任された乃亜は、自分でシュートを打つか、仲間へパスを出すか、一瞬の判断を迫られる。
「乃亜、コート全体を見て!」
横山紗良の声を受け、乃亜が選んだプレーとは。
次回、第17話「残り三秒、誰に託す?」。
勝負を決めるのは、乃亜のシュートでしょうか。それとも、仲間を信じる一本のパスでしょうか。




