横浜ライブへ行こう
第13話「横浜ライブへ行こう」
待ちに待ったM&Yの横浜ライブ当日。斉藤家では朝から、乃亜が同じ持ち物を何度も確認していた。
「チケット、持った。ペンライト、持った。タオル、持った。双眼鏡、持った。飲み物、持った。スマホの充電、百パーセント!」
確認を終えたはずの乃亜は、三分後には再びバッグを開けていた。杏子が笑いながら、その手を止める。
「乃亜、それで五回目やで。チケットはお母さんが預かってるから大丈夫」
「会場に着いてから、ペンライトがないことに気づいたらどうするん?」
「そのペンライト、今、乃亜が右手に持ってるぞ」
勝に指摘され、乃亜は自分の手元を見た。
「あった!」
「朝から大丈夫か?」
一方、貴教はM&Yの曲を覚えたと自信満々で、リビングを歩きながら歌っていた。
「ミートパイを信じて、明日へ走ろう~」
乃亜が勢いよく振り返る。
「そこ、“未来”やなくて“ミートパイ”になってる!」
「似てるからええやん!」
「意味が全然違う! 未来に何をかけるつもりなん?」
「デミグラスソース」
「食べる気満々やん!」
午前中から騒がしい斉藤家へ、勝の妹・斉藤真理子と弟・斉藤健太がやって来た。ほどなくして、杏子の兄である宮原智樹と宮原直哉も到着し、総勢八人がそろった。
「乃亜、今日は一緒に踊ろうね」
真理子がペンライトを取り出すと、乃亜の目が輝く。
「真理子おばちゃん、もう準備してるん?」
「昨夜、振り付けを全部復習したから」
健太も大きなバッグを抱えていた。
「俺は付き添いだから。ライブグッズには興味ないからな」
「そのバッグ、何?」
勝が尋ねると、健太は目をそらした。
「現地で買ったグッズを入れる予定のバッグ」
「買う気満々じゃないか」
落ち着いた性格の智樹は、興奮して一気に話す乃亜の説明を最後まで聞いていた。その隣では、M&Yの熱心なファンである直哉が、貴教と一緒に例の歌を歌い始める。
「ミートパイを信じて~」
「直哉兄ちゃんまで間違えんといて!」
午後一時過ぎ、八人は港南台駅へ向かった。乃亜はM&YのツアーTシャツを着て、首にはタオル、手には公式バッグという完全装備だった。真理子と直哉も同じツアーTシャツを着用し、健太は「付き添い」と言いながら、すでに限定リストバンドをつけている。
改札口へ向かうと、斉藤家と顔なじみの駅員が声をかけた。
「今日はライブですか?」
乃亜は満面の笑顔で答えた。
「はい! 今日はめっちゃ、はちゃけてきます!」
杏子も続ける。
「爆笑トークで腹筋痛になって、明日、整骨院へ行くまでがワンセットです」
駅員は思わず吹き出した。
「帰り、階段を下りられる程度にしておいてくださいね」
ホームへ上がると、京浜東北・根岸線の車内には、明らかに同じライブへ向かうと思われる人々が大勢乗っていた。M&YのTシャツ、ファイブピーチ★のタオル、色とりどりのペンライト。普段ならそれぞれ別の目的地へ向かう乗客たちが、今日は同じ場所を目指している。
「この車両だけで、何人ライブに行くんやろ」
乃亜が声を弾ませると、直哉が周囲を見回した。
「半分以上はそうやない? あの人も、あっちの人もグッズ持ってるで」
貴教が小声で言う。
「全員で“ミートパイ”って歌ったら仲間になれるかな」
「ならん。うちらまで歌詞を間違えてると思われる」
港南台から根岸線で横浜へ向かい、横浜市営地下鉄ブルーラインへ乗り換える。新横浜駅が近づくにつれて、ライブ客の数はさらに増えていった。
横浜アリーナに到着したのは午後三時。開場は午後五時、開演は午後六時なので、時間には十分な余裕がある。
会場周辺には、すでに大勢の観客が集まっていた。巨大な公演看板の前では記念撮影の列ができ、グッズ売り場から戻ってくる人たちは、戦利品を誇らしげに抱えている。
「健太、本当にグッズは買わないのか?」
勝が尋ねると、健太は販売一覧を真剣な目で見つめた。
「せっかく来たから、タオルくらいは買う」
数分後、健太はタオルだけでなく、Tシャツ、ペンライト、キーホルダー、パンフレットまで抱えて戻ってきた。
「付き添いの荷物やないやろ」
真理子の突っ込みに、一同が笑う。
八人は開場前にアリーナ周辺のフードエリアへ向かった。乃亜は横浜名物を取り入れた焼きそば、貴教は大きなハンバーガー、勝と杏子は中華風の丼を選び、親族たちも思い思いのスタジアム飯を買った。
「ライブ前にそんなに食べて大丈夫?」
乃亜が貴教を見る。
「腹から声を出すには、腹をいっぱいにせんと」
「途中で眠くなっても知らんよ」
「ヘビメタで寝られる人がおったら見てみたいわ」
午後五時、入場が始まった。全員でチケットを確認し、手荷物検査を受けて会場内へ入る。客席に足を踏み入れた乃亜は、巨大なステージと天井近くまで埋まった観客席を見上げ、しばらく言葉を失った。
「すごい……ほんまに今日、ここでM&Yが歌うんや」
勝はそんな娘の横顔を見て、優しく笑った。
「当選発表の日から、ずっと楽しみにしてたもんな」
席に着いてからも、会場の熱気は上がり続けた。真理子と乃亜はペンライトの点灯色を確認し、直哉はセットリストを予想する。智樹は全員分の飲み物を確認し、健太は買ったばかりのパンフレットを夢中で読んでいた。
貴教はステージを見ながら尋ねる。
「お姉ちゃん、最初は何の曲やと思う?」
「明るいポップスかな。でも、ファイブピーチ★やから予想できん」
午後六時。客席の照明が一斉に消えた。
地鳴りのような歓声が横浜アリーナを包み、暗闇の中でギターの轟音が響く。次の瞬間、赤い照明がステージを切り裂き、優子のドラムが猛烈な勢いで走り出した。
一曲目は、まさかのヘビーメタルだった。
「いきなりこれー!」
乃亜が叫び、真理子と一緒にペンライトを振る。
ベースを抱えた光子が重厚な低音を響かせ、その後ろでは優子が、プロの男性ドラマーでも演奏が難しいほど複雑で激しいビートを正確に刻んでいた。奏太のギターがうなり、小春のキーボードが鋭い旋律を重ね、美香は力強い歌声で会場を圧倒する。
息つく間もなく、二曲目、三曲目もヘビーメタルが続いた。優子の両足がツーバスを高速で踏み込み、巨大な横浜アリーナ全体を震わせる。
三曲を終えると、メンバー五人がステージ中央へ集まった。
「横浜のみなさーん! こんばんはー!」
光子と優子の声に、観客が総立ちで応える。
メンバー紹介では、美香、光子、優子、奏太、小春が順番に演奏を披露した。優子が短いドラムソロで猛烈なツーバスを響かせると、貴教は口を開けたまま動かなくなった。
「手と足、何本あるん?」
「二本ずつや」
勝が答える。
「絶対、どっかに予備の足があるって」
続くMCでは、横浜にちなんだ特別コントが始まった。題名は『博多ラーメンと横浜ラーメンのラブラブ日記』。
光子が博多ラーメン、優子が横浜ラーメンを演じる。
「うちは細麺やけん、あんたの太い包容力に憧れるとよ」
「俺はお前の替え玉まで、全部受け止める!」
「でも、うちには紅しょうががおるとよ!」
「俺にも、ほうれん草と海苔がいる!」
「具だくさんの複雑な関係やね!」
会場全体が大爆笑に包まれる。乃亜はペンライトを持ったまま前かがみになり、杏子は涙を拭いていた。
「もう腹筋がピキッていった!」
「お母さん、整骨院の予約しとく?」
「まだライブ半分も始まってへんで!」
爆笑コントの直後、ステージの照明は紫色に変わり、美香の艶やかな歌声で演歌『博多雨慕情』が始まった。先ほどまでヘビーメタルを演奏していたバンドとは思えないほど、しっとりとした音色が会場を包む。
「振り幅がすご過ぎるやろ」
健太が感心すると、智樹もうなずいた。
演歌の余韻が残るなか、突然、優子のカウントが響いた。再び激しいヘビーメタルへ突入し、ツーバスがうなりを上げる。
そこからはポップス、ロック、クラシック調のインストゥルメンタル、民謡を取り入れた楽曲、バラード、ダンスナンバーと、次々に音楽の景色が変わっていった。
乃亜は振り付けを完璧に踊り、真理子も負けずについていく。直哉は全曲を大声で歌い、健太は「付き添い」という設定を完全に忘れてペンライトを振り回していた。貴教も覚えたばかりの曲を歌っていたが、ときどき歌詞が食べ物へ変わっていた。
「未来へ進もう!」
乃亜が歌う。
「ミートパイ食べよう!」
貴教が続く。
「まだ間違えてる!」
本編二十曲が終わると、メンバーは一度ステージを去った。しかし客席から、すぐにアンコールを求める手拍子が湧き起こる。
「アンコール! アンコール!」
斉藤家と親族たちも、声をそろえた。
やがて五人が再登場し、光子が笑顔で語りかける。
「外は真夏です。でも最後は、横浜アリーナに雪を降らせましょう」
アンコール曲は『雪の約束』だった。
白い照明が会場を照らし、天井から雪に見立てた白い紙片が静かに舞い落ちる。先ほどまで激しく燃え上がっていた会場が、優しい歌声に包まれた。
乃亜は隣にいる父と母、弟、そして叔父や叔母たちを見た。全員が同じステージを見つめ、同じ歌を聴いている。その光景が嬉しくて、自然と笑顔になった。
フィナーレでは五人が手をつなぎ、深く頭を下げた。
「横浜、ありがとう!」
大歓声のなか、ライブは幕を閉じた。
会場を出る頃には、八人とも声がかれ、腕は重く、笑い過ぎた腹筋には鈍い痛みが残っていた。
「乃亜、はちゃけてきたか?」
勝が尋ねると、乃亜は満面の笑顔で答えた。
「人生で一番はちゃけた!」
杏子は腹部を押さえながら言う。
「私は明日、ほんまに整骨院かもしれん」
「俺も付き添うよ」
健太が答えると、真理子がすぐに突っ込む。
「ライブも整骨院も付き添いなん?」
帰りの電車では、さすがの乃亜も勝の肩にもたれて眠っていた。貴教も座席で舟をこぎ、手には買ってもらったライブタオルを大切そうに握っている。
杏子は二人を見ながら、静かに笑った。
「楽しかったね」
「ああ。また四人で来よう」
勝の言葉に、杏子はうなずいた。
港南台駅に到着すると、行きに声をかけてくれた駅員が、今度は改札内から笑顔で尋ねた。
「しっかり、はちゃけてきましたか?」
乃亜は眠そうな目をこすりながら、それでも元気よく答えた。
「はい! でも、腹筋が痛いです!」
「では予定どおり、明日は整骨院ですね」
斉藤家と親族たちの笑い声が、夜の港南台駅に響いた。
こうして、四月から始まった斉藤家の新しい一年は、笑いと音楽に包まれながら最初の季節を終えた。
その夜、川崎駅では最終列車が近づき、人影も少なくなっていた。コンコースの柱のそばに、以前と同じ男が立っていた。
男は楽しそうにライブの感想を語り合う人々を無表情で見つめたあと、小さなノートを開いた。しかし、何かを書くことはなく、やがて静かに閉じた。
遠くで、駅員の明るい案内放送が響いていた。
男はその声に背を向け、人混みの消えた通路を歩き去った。
次回予告
楽しかった横浜ライブから一夜明け、斉藤家にいつもの月曜日がやって来る。
声をからした乃亜、筋肉痛の貴教、腹筋を押さえる杏子。勝だけは平然としているように見えたが、会社の朝礼で椅子から立ち上がった瞬間、その表情が固まる。
「お父さんも筋肉痛やん!」
「これは筋肉痛じゃない。ライブの余韻だ」
一方、川崎駅では、杏子が見覚えのない男とすれ違っていた。
次回、第14話「月曜日は全員筋肉痛」。
楽しい週末の余韻の陰で、誰にも気づかれない何かが、静かに動き始めます。




