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七. 暗号の裏側

 ジョーは最近忙しい。ダボス会議で知り合った中国人実業家キャミー・リーが正式にEDENへの資金提供を申し出たのだ。正直に言えば、その額は嘗てのドルフの援助額に比べれば微々たるものだが、一棟の新しいEDENを建てるには十分な金額だった。それでジョーは今日行われている理事会でサンパウロ近郊での新たなEDENの建設を議題にかけている。最近反政府活動が激しさを増している同国。中道左派の現政権が国益のために全方位外交を推し進める中、昨年から日和見主義やら売国政府やらという文言が新聞で踊り始めた。そして世界の二大陣営、つまり資本主義陣営と社会主義陣営に外交上の二股を掛けだしてからというもの、右派政党が国民の支持を集めるようになり、中でも極右政党は今年に入ってから反政府デモやテロ行為を行うまでになってきた。いつの世も割を食うのは弱者だと決まっている。世界最悪水準の同国の経済格差もさることながら、昨今の反政府暴動の鎮圧やテロによる市民の犠牲によって、生み出される孤児の数に拍車がかかってしまった。EDENも同国政府から再三施設建設の要請を受けていたところで、渡りに船とはこのことだ。

 でも忙しいのはジョーだけじゃないのよ。私も正にこれから結構ややこしい仕事を始めるの。この前ジョーと見たニールのCCTVの映像だけど、やっぱり最後に不自然に途切れる違和感が忘れられなかったの。何だか一瞬世界が止まったような感じっていうのかしら。そこで念のために動画ファイルをこれから解析してみるってわけ。まず動画ファイルをバイナリエディタで開いてみるわね。

「00000000:00 00 00 20 66 74 79 70 69 73 6F 6D 00 00 02 00……ftypisom……」

 まあ、動画ファイルって言っても十六進数で表示すればこんなものよ。こういう意味不明な羅列が三千万行くらい続くんだけど、通常のファイルなら一定の規則性があるの。でも、私が違和感を持った動画の最後の部分を見てみると、

「Zã.ñˆ.#E¼Ñ……」

 ほらね。普通なら〈ftyp〉や〈moov〉といった英単語が並ぶテキスト表示が、文字化けのようなカオス状態になってる。こんな具合にデータが異常な表示になってるということは、明らかに暗号化されてるってこと。つまりニールの動画の後半部分には何か暗号化されて確認できないデータが残ってるってことなの。

 さてどうしようかな…。暗号を解くにもまずはどうやって暗号化されてるかが分からないと手の打ちようがないわね。普通、MP4ファイルっていうのはマトリョーシカのような入れ子構造をしてるの。動画の設計図が入ったムーヴボックスが一番外側にあって、その下にはビデオやオーディオごとにトラックボックスがあって、そのまた下にはメディア情報があるメディアボックスがあるって感じよ。こうして玉ねぎの皮を剝ぐように下層のサンプルディスクリプションボックスを覗いてみると…ほら、あった。encv(エンシー・ビデオ)ボックス。これがあるってことはこのファイルはやっぱり暗号化されてるってこと。更にその中のsinf(シンフ)ボックスで暗号化の規格を見て……tenc(テンク)ボックスでそのパラメータが128ビットだと分かれば、暗号化で使用された規格がAES–128だってことが判るってわけ。

でもこれは、結構やっかいね。暗号規格が判ったのはいいんだけど、このAES–128っていうのは、かなり信頼性の高い暗号化規格なの。解読するための128ビットのキーには2の128乗通り、つまり340(かん)通りの組み合わせがあって、そこらのスパコンを使っても解読には数億年かかる代物よ。さて、どうしたものかしら。AES–128を解読するのはさすがの私でも難儀だわ……。

ちょっと待ってね……このMP4が暗号化されてるってことは……あった、pssh(ピーエスエスエイチ)ボックス。これは暗号化された動画を再生するために必要なヘッダー情報よ。そしてこの後ろにあるシステムIDを見ると……edef(イーディーイーエフ)……ってことは、この後ろの本体にRSAで暗号化された解読キーがあるってことね。つまり、AES–128で暗号化された動画ファイルを解読するキー自体がRSAっていう別の規格で暗号化されて入ってるってこと。RSAっていうのはインターネットなんかでも広く使われてる暗号方式で、この暗号を解く鍵を手に入れるためには600桁以上の巨大な数字を素因数分解する必要があるの。これまた最新のスパコンを使っても一億年以上はかかる。

ファイルもそれを解読するキーも二重で暗号化されてるっていうと普通なら諦めるけど、私を舐めてもらっちゃ困るわね。ファイル自体を暗号化してるAES–128の解読は私でも年単位を要するけど、RSAで暗号化されたキーさえ解読できれば、そのキーでAES–128を突破して隠された映像を再生できるようになるのよね。そしてスパコンで一億年かかるRSA解読を一瞬でやってのけるって言ったら、もう、あれしかないじゃない。

「ジョー、ちょっと古巣の量子コンピューターを借りるわよ」

私はEDEN一号棟の地下に配備されてる量子モデムを遠隔でオンラインにした。量子モデムとは0と1のデジタル信号を光子などの量子状態に変換する機器のことよ。それと同時にその量子を私がランダムに設定した角度で回転させることでブラインド化することができるの。だって、もし私が通常のデジタル信号を量子コンピューターのサーバーに送れば、直ぐに送った情報の中身がバレてRSAの解読をしてることが判ってしまうから。こうしてデータをカモフラージュした量子に変換して送ることで、受け取った量子コンピューターのサーバーは単なるいつもの物理シミュレーションのノイズとしか認識しないわ。これが計算内容をサーバー側に隠して行う〈量子ブラインド計算〉を逆手にとって、世界随一の量子コンピューターを無料で拝借する方法よ。

私はRSAで暗号化されたキーファイルをバイナリデータから抽出して、量子モデムでブラインド・エンコードを済ました。そしてお次は、足跡を残さないために国内の量子中継器を経由させて、ジョーがいた国立標準技術研究所が保有してる量子コンピューターへのファイルのアップロードよ。ここの次世代量子コンピューターの存在は、実はまだ世界では知られてないの。新政権が予算を削ったとは言え、量子コンピューターは一国家の暗号を丸裸にできる兵器よ。政府は拠出資金を削る代わりに民間企業に多額の投資を迫って、既に数千の論理量子ビットを搭載した代物が実用段階に達してるの。ただ一つ問題なのは、量子中継器の方ね。今の中継器のコヒーレンス時間は精々もって六十秒。コヒーレンス時間っていうのは量子的な繫がりを保てる時間のこと。もしRSAの解読が終わる前に量子状態が崩れると、解読がストップするだけじゃなくて、量子コンピューターの管理者側に異常アラートが飛んでこちらの居場所が丸見えになっちゃうの。つまり一度失敗すれば、二度と同じ方法では解読を試みることはできないってこと。さて、吉と出るか凶と出るか…いくわよ。

「Analyzing(分析) Periodicity(進捗)————10%」

 量子コンピューターのサーバーにファイルのアップロードが完了すると、私のコマンド上で量子コンピューターによる周期性分析の進捗が示される。————40%————60%————時間は? 残り二十秒。お願い! 何とかもって! 70%————80%————!

「ヤバい、中継器のメモリが真っ赤!」

 中継器のメモリがなくなればコヒーレンスが切れてしまう! 計算は!? 90%————97%————あと3%! 来い来い来い来い!! 三秒————二秒————一秒————!! 

「74 68 69 73 69 73 66 61 72 65 6E 6F 75 67 68 2E」

 AESキーゲット! 危なかった! 接続の遮断があとコンマ一秒遅れてたら逆探知されるとこだったわ。やれやれ、スパコンで一億年かかる素因数分解をものの一分で解いちゃうなんて、飛んでもないお利巧さんね。でも変ね。このAESキーって、もしかして……。


 理事会を終えたジョーは、まだ一号棟一階の大広間で役員たちと談笑していた。その中にはEDENの新設に資金提供をするキャミー・リーの姿も見えた。

「キャミー、本当にありがとう。何とお礼を言っていいかわからないよ」

 ジョーはシャンパンの泡が立ったグラスをキャミーに手渡しながら言った。どうやらサンパウロの議題は無事通った様子ね。

「お礼を言いたいのはこちらの方よ。こんなに素晴らしいお金の使い道をあなたたちは私に与えてくれたんだから」

 五十路を過ぎてると聞いてたけど、キャミーの肌の白さと艶は年齢不相応なほど若々しく見えた。アップした黒髪と淡い翡翠色のチャイナドレスがマッチしている。

「みんな、グラスは持ったかい。それでは、EDEN四十号棟の門出とキャミーとの素晴らしい出会いを祝して、チァーズ!」

「チァーズ!!」

 ジョーのかけ声に続いて、グラスがトーストする子気味のいい音と談笑の声が響き渡る。

「ジョー、ちょっといい?」

 私はジョーが役員の一人と会話を終えたタイミングで声をかけた。

「アイ、ごめん。今日はこれからキャミーたちと会食なんだ」

「ニールの映像覚えてるでしょ?」

「アイ、聞いてるのか?」

「ニールの映像に続きがあったの」

 迷惑そうな表情を浮かべていたジョーの顔が真顔に戻る。

「見てみたいと思わない? 五分で済むわ」

「ジョー、お話ししてるのはアイかしら?」

 キャミー? こっちは立て込んでるのに……。

「ああ、キャミー、紹介するよ。こっちはアイ、アイ、こっちはキャミーだ」

「アイ、はじめまして。色々とお話は伺ってるわ。こうしてお話できて嬉しい」

「ええ、そうね。でも人が話してるのに割り込んで……」

 ジョーがすかさず私の口を塞ぐ。

「キャミー、申し訳ないけどちょっと席を外すよ」

 ジョーは空笑いしながらその場を去ると、広間とはホールを挟んで反対側にある小会議室に入った。部屋に入って早々ジョーはぶつぶつと私に文句を言っていたが、私は無視して会議室のブラインドを下げ、銀幕を下ろし、プロジェクターの電源を入れた。プロジェクターの乾いたファンの音と共に光の画面が浮かび上がってくる。

「五分だぞ、五分」

 ジョーはまだ腹立たし気に言うと、椅子に座って背もたれにのけ反った。私は時間なんて気にしてなかったけど、それでも簡単に暗号解読の経緯をジョーに話した。私の話が進めば進むほど、ジョーが前のめりの姿勢に変わっていくのが分かった。

「いい? 再生するわよ」

 私がそう言うとジョーは頷き、解読されたニールの映像の続きが再生された。

 

 私は映像をルーカスがニールに心臓マッサージと人工呼吸をするところまで早送りした。前回はこのまま暫くすると映像が砂嵐に変わったけど、今回は映像が途切れない。ルーカスは激しく上下させていた肩を止めて突然立ち上がると、助けを求めて街灯の裏へ走り去っていった。既にニールの手足の痙攣は止まり、完全に沈黙している。映像には手前のゴミ置き場から街灯まで伸びる暗い路地と、まるで街灯がスポットライトのように照らす光の輪の中に横たわるニールの死体だけが映し出されていた。

「あ、あれは何だ……!」

 街灯とは逆の方向から黒い手のようなものが姿を現した。その細い腕に続いて同じく黒い頭のようなものがもう片方の手と共にゆっくりと這ってくる。性別は判断できないが長い髪を垂れ流し、体を引きずるようにしてニールの死体に近づいていく。黒いそれはニールの体に這い上がるように重なり合った。ニールの体が暫く黒い影に包まれたように見えたが、なぜかニールの体は不気味にその大きさを増しているように見えてきた。いや、違う。

「来る……こっちに来るぞ!」

 ジョーは瞬きをすることも忘れて小さく悲鳴を上げるように言った。そう、ニールの体が大きくなっているのではなく、黒いそれがニールの死体を引きずりながらこちらへ地面を這って近づいてきているのだ。黒いそれは路地の中央に張り出した木の幹の陰に消えていき、一度画面から姿を消した。しかし間もなく木の根に黒い手がかけられ、再び頭がゆっくりと現れる。それは人なのか影なのか判らない。ただ黒い何かの背後に、力なく両手を放ったニールの死体が見え隠れした。黒いそれが手を伸ばして自身の体を引き寄せる度に、もう片方の手で掴まれたニールの死体も引きずられていく。そうして近づいてきた黒いそれはいよいよCCTVの死角にさしかかり、ニールの死体と共にカメラの画角から完全に外れた。映像は再び動くものが何一つない静止画のような景色を映し出す。その時だった。

「ひぃやぁ!」

 ジョーが叫んだ。CCTV映像の下から黒いそれの頭が画面一杯に生えてきたのだ。男とも女とも見える大きく見開かれた不気味な片目が画面中央に現れた。一切の瞬きをせず、眼球を小刻みに動かしながら黒いそれはカメラ越しに私たちを凝視している。そして大きく口を開けるように目の輪郭がゆっくりと歪んだ次の瞬間だった。

「ぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぃぃぃぃぃぃぃや゙や゙や゙や゙や゙や゙や゙や゙や゙や゙や゙や゙や゙や゙や゙!!!」

 耳をつんざくような凄まじい悲鳴が響き渡った。ジョーも思わず両手で耳を塞ぐ。

「もういい! 止めろ!!」

 ジョーが叫ぶと私は映像を停止した。何も映さぬプロジェクターの白い光の筋をいくつもの塵が浮遊していく。息切れしたような乾いたファンの音だけが部屋を支配していた。ジョーは耳を塞いでいた両手を力なく机上に落すと、両肩で荒い息をしながら放心している。

「このファイルの暗号化されたAESキーはわざわざ動画ファイル内のpsshボックスに入れられてたの。普通はどこか別のサーバーに置くのに。ジョー、この意味分かる?」

 私の問いかけにジョーは微動だにしない。

「開けられるもんなら開けてみろってことよ。意図的で、挑発的で、そして幼稚ね」

「誰かがわざわざこんなことをしたってことか?」

 ジョーが眼球だけを私に向けて言った。

「そうね。わざわざこんな悪趣味なことをしたってこと」

「何のために……」

 ジョーはいつもの悪夢を見た後のように両手で顔を拭いながら言った。

「それはこのAESキーを見れば分かるわ。74 68 69 73 69 73 66 61 72 65 6E 6F 75 67 68 2E。16バイトのAESキー。これをアスキーコードで文字に変換すると一つの文になるの」

「一つの文?」

「This is far enough.」

「……これ以上踏み込むな?」

 突然会議室の扉が開いた。私は直ぐにプロジェクターの電源を切り、ブラインドを上げた。

「キャミー? どうして君がこんなところに。」

 窓から白い陽の光が差し込んでくると、入口にキャミーの姿が浮かび上がった。

「ごめんなさい、迷ってしまって」

 キャミーは慌てて弁解した。ジョーは明るくなった部屋に目を細めながら、立ち上がってキャミーの元へ歩いていく。

「いや、いいんだ。さ、美味しい中華でも食べに行こう」

 ジョーは笑顔でそう言うと、キャミーの肩に手を添えてエスコートした。


 ご一読いただきありがとうございます!本作は、今、私達が問うべき人類とAIのあり方について一石を投じるべく執筆しています。

 現在、個人で利用できる最新のAI技術を駆使し、本作の『公式プロモーションビデオ(実写映画風PV)』を鋭意制作中です! 完成版は私のX(https://x.com/RIGHTTHINGADAY)やYouTubeで公開し、こちらのページでもお知らせします。ジョーとアイの凸凹コンビの謎解き、ハッカーたちの息詰まる攻防を、ぜひ映像でも体感してください。よろしければ、今のうちにブックマークや評価で応援していただけると励みになります!

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