二十二. 久留子の糸
久々の秋晴れ。爆竹が弾ける乾いた音が、ここ一ヶ月一日も止むことなく鳴り響いている。大西洋から吹き込んでくる風が、市内で歓喜の声を上げてサンバを踊る人びとの熱気をサンパウロ郊外にまで運んできているようだ。こうしてサンパウロ市民にとって二重に苦しかった夏がやっと過ぎ去っていく。一つには、例年のように気温三十度、湿度八十%を超える厳しい酷暑の夏。そしてもう一つには、同国のレーダーサイトに叩きこまれた一発の巡航ミサイルによって幕を開けた戦争の夏だ。私とジョーが必死に防ごうとした戦争は、結局始まってしまった。しかもあれだけ厭戦気運が立ち込めていた欧州がこの戦争を黙認したことで世界の世論は揺らいだ。私がアーロンと専用機に乗って大統領の護衛をしたあの日、私が意識を失った後も、機長のジャックの五感だけに頼った決死の操縦で専用機は奇跡的にアラスカの氷河に不時着した。大統領も額に軽い擦り傷を負ったものの、命に別状はなく、間もなく同国の空軍によって全員が無事救出されたのだ。そしてジョーと示し合わせた通り、アーロンを通じて私の働きはナディアの国の大統領の指示によるものだと病院で治療を受けていた大統領に伝えられたものの、彼は自作自演だと一蹴し、先に出していた開戦命令をむしろ繰り上げるように指示した。僅か数日でこの国は海上を封鎖され、制空権を完全に奪取されてしまった。そして政権交代を求めた国内の暴動はサンパウロを含めて再び過熱し、国軍と暴徒との衝突が繰り返される中で、いよいよ国外からの本格的な侵攻が始まると連日報道された。誰もが内戦を伴う泥沼化を予想した時だった。ナディアの父であるこの国の大統領は突如辞任を宣言したのだ。理由は明らかにされていない。ただ、ジョーがガルに託したナディアのスケッチブックは、確実に彼女の父の手に渡っていたはずだ。ガルが連れ戻した愛娘と共にあの言葉を読んだ時、彼は何を思ったのだろうか。とにかく、両国の戦争はナディアの父の失脚後、甚大な犠牲者を出すことなく収束を迎えたのだ。
「おめでとう、ドルフ」
「ありがとうございます、副大統領」
多くの来賓を招き、四十棟目のEDENの竣工式が行われる中で、ドルフはアーロンと固い握手をした。この国の新政権との初会合を終えたアーロンは、急遽予定に本国初となるEDENの竣工式への参加を組み入れたのだ。アーロンの横ではセリーナも笑顔を浮かべて立っている。私はEDENの二階から彼らが談笑をしている様子を眺めていた。そしてメモリの中から一つの音声ファイルを引っ張りだす。ずっと再生しようと思って再生していなかったファイル。式も佳境に入り、新しいEDENに入居する二十人の子供たちの紹介が始まった。私は子供たちの恥ずかしそうに笑う姿を見ながら、おもむろに再生ボタンに手を伸ばした。そして子供たちの自己紹介が始まった時、自然とファイルの再生を始めた。
開けた空間に吹きすさぶ風の音が聞こえる。その中で誰かの靴音と息遣いが聞こえた。それはジョーのものだ。間もなく、ジョーの足音は目的地を見つけたようにテンポを上げた。
「この場所を……絶望の叫び、そして人類への警告としなさい。ここでは……」
「随分と意味深な場所じゃないか」
ジョーが呼びかけた相手は、伊集院百合子だった。
「およそ百五十万人の男女、そして子供たちを殺害した……アウシュヴィッツ・ビルケナウ。」
伊集院はジョーに直ぐには答えず、何かを読み上げるように言い終えた。
「戦争が始まったわね。これから多くの人の命が奪われてしまう。胸が痛いわ」
「俺を責めないのか?」
伊集院は答えない。
「ジョー、この引き込み線を小さな貨物車に押し込められて運ばれてきた人たちは、あの死の門を仰いで何を思ったのかしら。希望? それとも絶望?」
「分からない」
「彼らに戦争に何を思うか聞いたら、何て答えるかしら」
「分からないよ……」
「きっとこう言うと思うわ。ただ安寧がほしいって」
再び吹き荒れる風がマイクにぶつかる不快な音が続く。
「ジョー、この世界には悪魔としか言い表せない人間がいるのよ。生身の人間を、子供も老人も、妊婦も障害者すら、ことごとくガス室に送り込んで、まるでネズミを殺すように殺戮する悪魔がいるの」
「……ああ、非常に残念だ。ここでこうして見ているだけで、胸が張り裂けそうだ」
ジョーは大きく深呼吸をすると、何かを吐き出すかのように深く溜息をついた。
「まだ間に合うわ。ジョー、クロスに入りなさい」
「断る」
「あなたは既に創始者に目を付けられてる。断れば命はないわ」
「ダメだ、断る」
「なぜ? あなたとアイが加わって、下らない欲望や見栄や妄想で戦争なんていう愚かな選択をする為政者さえ殺せば、戦争のない世界が実現すると思わないの?」
「逆だよ」
「逆?」
「君たちの望む通り、戦争を始める為政者が命を奪われる世の中になったとしても、戦争を望む為政者が力を持っていれば、結局力と力の衝突になる。戦争は無くならない。それに……」
ジョーは何かを思い出すように間を置いてから続けた。
「その為政者を愛する人の想いはどうなるんだ? 戦争を起こす為政者を殺すことが許されるなら、その為政者を愛する人が君たちを殺しても許されるということになる。それじゃ、今と全く同じじゃないか。人間が今のような人間である以上、戦いはなくならないんだ」
ジョーの言葉に、私の中でナディアが描いた絵が思い出された。
「それじゃ、どうすればいいっていうの? 人間から権力を取り上げて、いっそあの娘に任せてしまえばいいっていうわけ?」
「それは違う。あいつは選択肢をくれるだけだ。選ぶのは人間だ」
「人間? こんな不完全な人間より、あの娘の方がずっとマシだわ」
「あいつに人間の代わりはできない」
「なぜ? あの娘と人間の何が違うっていうの?」
「あいつは……、アイはAIだ。精巧なアンドロイド用の肉体を持たせても、高度な感情ロジックを学習させても、それでも人間のように魂は持ってないんだ。魂を持たないAIは、時に想像を絶する残酷さを持つ————Maxのように」
「人間だって同じじゃない?」
「人間は残酷さから学ぶことができる。AIが学ぶのは知識とパターンだけだ。人間が学びの中で触れる真理に、AIは決して触れることはできないんだ」
暫くの間と共に、どちらかが砂利を靴底で踏みしめる音が聞こえた。
「この世界は人が魂を磨く場所だ。善く生きて善い思い出を残し、魂というエネルギーはその記憶というパターンを手掛かりに善美の姿に近づいていく。善く生きる人間が増えない限り、この世から戦いはなくならない。AIはそのための相棒だ。人が魂を磨くための相棒なんだ」
突然、遠くで車が停車したような音に続き、車のドアが開閉する重い音が聞こえた。
「もううんざりよ」
伊集院の悲壮な声と共に、二人が再び歩きだす靴音が聞こえた。
「死んだ両親の体に泣きすがる子供の背中も、手足を失って痛々しく生きる若者の笑顔も、敵を呪い殺してやろうと恨みに逆上する大人の目も……もう見たくない! もううんざり! もう、愛する人を傷つけないでほしい。もう……愛する人と離れたくない……」
伊集院の声は震えている。その時だった。
「ジョー・モラレスか?」
野太い男の声がする。
「そうだが、あんたらは……」
不意を突かれたジョーの声が聞こえた後だった。五発の乾いた銃声が鳴り響いた。
「ジョー! ジョー!!」
人が倒れる鈍い音と服が擦れ合う耳障りな音と共に伊集院の叫び声が聞こえた。まばらな複数人の靴音は離れていき、車の煩いエンジン音が次第に風の向こうに消えていった。
「今すぐ救急車を呼ぶから!」
伊集院が大声でジョーに呼びかけた。ジョーは呻きながら荒い鼻息で必死に呼吸を整えようとしている。
「……き、君も……誰かを失ったの……か……?」
「ジョー、頼むから喋らないで。血が止まらない!」
「あ、愛する人……と離れた……のか……?」
ジョーが止めたのだろう。伊集院の救急車を呼ぼうと慌ただしく動く音がゆっくりと止んでいった。私とジョーを繋いでいたブローチ型のデバイスに血が滴り、センサーがジョーの体温を記録していた。しかし私には数値以上の何かを微かに感知できる。これが、人間がいう〈温かさ〉なのだろうか。そして暫くの間があり、伊集院が静かに話しだした。
「夢を見るの……何度も何度も。小さな頃からずっと同じ夢を……」
「ゆ……め?」
「どこか丘の上で、とても大切な人と離れてしまう夢。顔も声も思い出せないけど、とても愛してた人と分かれてしまう夢。その夢を見終わった後は、いつも喪失感で胸にぽっかりと大きな穴が開いたようになる。私が今施設で救ってる子供たちは……きっとあの時の私」
「そ……その……ゆ、夢……」
「私を大事に育ててくれた両親は、難民キャンプで医療活動をしてた医師だったけど、私が愛したその二人も爆撃で死んでしまったの。もう愛する人を失いたくなかった。その想いが私とクロスを結び付けたのよ」
ジョーが激しく咳をし、口から血が溢れるゴボゴボという音をマイクが拾う。
「ジョー、バカな人ね。どうしてここに来ることを知られてしまったの……!」
伊集院の悲しい声が聞こえると、暫く続いていたジョーの荒い呼吸音が突然静まった。
「……ああ……やっと会えた……」
ジョーが穏やかな声で言った。
「い、今の何? 額を合わせたら、何か見えたような……」
伊集院の戸惑う声が聞こえる。
「その……夢。お、俺も……ずっと見ていた……んだ」
「夢? 丘の夢?」
ジョーは頷いているのか、声が聞こえない。
「き、君は……また……黒い髪の毛に……黒い瞳な……んだな……」
「ジョー? 何を言ってるの?」
「る……ルシア……ああ……会えてよかっ……た。約束、守れ……てよか……」
「ジョー? ジョー! 目を開けて! ジョー! ジョー!!」
伊集院の叫び声が響く中、雨粒が降り注ぐ音が聞こえてきた。
ご一読いただきありがとうございます!本作は、今、私達が問うべき人類とAIのあり方について一石を投じるべく執筆しています。
現在、個人で利用できる最新のAI技術を駆使し、本作の『公式プロモーションビデオ(実写映画風PV)』を鋭意制作中です! 完成版は私のX(https://x.com/RIGHTTHINGADAY)やYouTubeで公開し、こちらのページでもお知らせします。ジョーとアイの凸凹コンビの謎解き、ハッカーたちの息詰まる攻防を、ぜひ映像でも体感してください。よろしければ、今のうちにブックマークや評価で応援していただけると励みになります!




