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十七. 神の言葉

 何だか時が止まったようだ。雲一つない青空から降り注ぐ陽の光を浴びながら、ジョーと私は病院内の庭のベンチに腰をかけている。目の前をタンポポの綿毛が焦らすように漂っていくと、近くで小さな白人の女の子と両親がタンポポ摘みをしているのに気づいた。飴色に輝いた前髪をさくらんぼのゴムで結ったその子は、リンゴ頬っぺを緩めて小さな両手一杯にタンポポを握りしめていた。母親は走り回る女の子が転ばないかと両手で庇いながら追いかけていき、父親は少し距離を置いた所からそんな二人を幸せそうに眺めていた。父親は退役軍人だろうか、髪はクルーカットでさっぱりと整えられ、上半身はたくましく鍛え上げられた筋肉が隆々としている。しかしそれとは不釣り合いなほどに、両足を隠しているズボンの裾はどちらも凹凸を感じさせなかった。恐らく義足を付けているのだろう。

「元気そうじゃない?」

 ジョーの横にガルが腰を下ろして言った。相変わらず上下黒革のへそ出しルックだ。サングラスを掛けたガルの顔はジョーと同じタンポポ摘みの親子の方へ向けられている。

「心配してくれたのか?」

「ナディアをね」

「だよな」

 ジョーはギプスで固められた右腕を左手で搔きながら言った。

「逆さ剣はクロスって呼ばれてるらしい」

「クロス? 聞いたことないわね」

「元は俺と同じ社会活動家の集まりだって聞いてショックだったよ」

「居所は?」

「まだ分からない」

「狙いは?」

「もっと分からない」

 タンポポの綿を追いかける女の子の無邪気な笑い声が庭に響き渡った。

「マーラ以外は何らかの形で戦争に絡んでクロスに殺されたと俺もアイも考えてる」

「戦争?」

 ガルの顔が曇る。

「ああ。そしてナディアの件と俺たちが追ってた件を繋ぐ何かをアーロンは隠してる」

 黙ったままのガルのサングラスのレンズは陽の光を薄暗く反射した。

「ただ、もしそうなら一つだけ明るい推測ができるんじゃないか? つまり、マーラが戦争に絡まずに生きてるなら、恐らくナディアも生きてるはずだ」

 ガルは何も言わずに静かに立ち上がった。

「生憎、私もプロなの。推測なんて寝言に付き合ってる暇なんてないわ」

「分かってるさ」

「分かってないわ」

「ガル、何を焦ってるんだ」

「焦らずにいられる? バートの屋敷で絶好の手掛かりを取り逃がしたのよ!?」

 ガルはまるで責め立てるように人差し指をジョーに突き立てた。

「ジョー、まさか諦めたなんて言わないでしょうね」

 ジョーは申し訳なさそうに俯くと左手をポケットに突っ込んだ。

「ジョー? あなたらしくもない。それでも男なの!?」

 ガルが鋭い怒声をジョーに浴びせた時だった。ジョーが突然肩を震わせて笑い出した。

「何がおかしいのよ。馬鹿にしてるの?」

「いや、ごめん、ガル。違うんだ。違うんだよ」

 ジョーは込み上げてくる笑いを堪えながら、手を入れたポケットから何かを取り出した。そしてガルの右手を取ると、ジョーはスマホを一台その手に滑り込ませた。

「君にはいつもそうやって励まされてたっけ」

 ジョーは不思議そうにスマホと自分を見比べているガルを愛おしそうに見つめて言った。

「気持ち悪いこと言わないで。何なのよこれ」

 ジョーがガルに渡したスマホには地図アプリが表示されているが、アプリはどこかの街の一点を赤く明滅して示している。

「私が説明した方がいいかしら?」

「ああ、アイ頼む。俺も三途の川を渡りかけてたから正直あんまり覚えてないんだ」

 ジョーは目を回しながらお道化たように言った。

「ガル、ジョーの車が突き飛ばされた後、実は男が二人ジョーの所に近づいてきたの。一人は会場に爆弾をしかけたケルビンという男。そしてもう一人はジョーの車にピックアップトラックを衝突させたベックという男よ。そして恐らくこのケルビンはルーカスにニコチン入りの注射器を渡して殺した張本人の可能性が高いわ」

「それでこのスマホは何なのよ」

「そのケルビンがいる場所よ」

「どういうこと?」

「あの時、ケルビンは作戦を邪魔されたことで逆上してジョーを殺そうと近づいたんだけど、その時ジョーがケルビンのズボンの裾を掴んだの」

「まさかGPS?」

「俺って諦めの悪い人間なんだ」

 ジョーはスマホ画面に視線を落としているガルに自慢げに言った。

「でも、すまない。俺の体がこんな状態で。でもまあ、ヒビが入っただけだって言うし、明後日には退院してケルビンを……」

「いえ、あなたの退院なんて待ってられないわ」

「おいおい、いくら何でも、この右腕で行けっていうのは……」

「あなたは休んでなさい」

「そう、俺はもう少し休んでないと……何だって?」

「私とアイでいく」

「君とアイで?」

「もう一回同じこと言った方がいいかしら?」

「いや、でも、相手は人を殺してる奴かもしれないんだぞ」

「だったら何? 人なら私も数えきれないほど殺してきたけど」

 ジョーは僅かに口角を上げるガルを見つめて黙ってしまった。

「私は構わないわ、ジョー。確かに今あなたは治療に専念するべきよ」

 それに、いつケルビンがGPSの存在に気づくか分からない今、一刻も早くケルビンの居場所からクロスに繋がる手がかりを得ないと、今度こそ本当にお手上げになってしまう。

「分かった。分かったよ」

 ジョーは諦めるように呟いた。そしてジョーはゆっくりと立ち上がり、ガルと向き合う。

「申し訳ないが、そういうことだ」

「申し訳ない? 一蓮托生って言ったのはどこの誰かしら」

 ガルの皮肉にジョーは苦笑する。

「それとガル……。やっぱりいいや。君が帰ってきてからにしよう」

「ジョー、あなた何だか変よ。実は相当頭を強く打ったんじゃない?」

 ジョーはガルの言葉に笑って何度か頷くと、入院服の胸元から白百合のブローチを外してガルに渡した。

「お守りだ」

「頼りにしてるわ」

 そう言ってガルはブローチを自分の胸元に付ける。

「アイ、行くわよ」

「直ぐに戻るわ」

 私は振り向きざまにジョーに別れを告げた。


 メリーランドはこの国の縮図と呼ばれる。つまりバートのような超が付くほどの富豪が住むエリアから、日雇いで食いつなぐ、いわゆる雇用砂漠で生きる貧困層までいる。職に就けない若者の中には手っ取り早く稼げる方法として、薬物の末端販売や盗品の転売などに手を染める人も少なくない。そしてガルと私はその最も影を落とす方の居住区エリアに来ていた。さっきまでの青空は今ではすっかりどす黒い雨雲に覆い隠されてしまっている。私たちが乗っているシボレー・インパラの窓ガラスは、外側に付いた無数の雨粒の跡と、内側からの曇りで見通しが悪い。それでもガルはハンドルに両腕をクロスさせた姿勢で、かれこれ一時間以上も身動きせずにフロント窓越しの一点だけを見つめていた。ガルの視線は、道沿いに何棟も連なって建っている赤レンガ造りのロウハウスの一画に向けられている。そこは正面ドアに続く階段横の鉄柵から地下に下りた場所にあるイングリッシュ・ベースメントで、貯蔵庫や石炭置き場を賃貸用に改造した部屋だ。通常のGPSでは屋内に入ると何階の部屋かまでは判らない。でもジョーがケルビンに付けたものは慣性センサーが搭載されたデバイスで、左右上下の動きも追うことができる。GPSの記録によれば、ケルビンはロウハウスの正面玄関から三秒間下に降りている。つまり、彼はあそこの地下の部屋にいるということだ。

「来た」

 ガルが小さく呟く。確かに一人の男が鉄柵を開けて出てきた。男は灰色のトレーナーにジーンズ姿で、地元で人気の野球チームのカートゥーン・バードが刺繍された黒いリュックを背負っている。フードを頭から被っているため、顔までは見えない。男は両手をトレーナーのポケットに突っ込んだまま、私たちの車の方へ歩いてきた。男が速足でガルの横の窓を通り過ぎた時、男の無精ひげを蓄えた口元に、あの不揃いで黄ばんだ歯が一瞬見えた。

「ケルビンね」

 私がそう言うと、ガルは何も応えなかったが、窓の一部を手で拭ってサイドミラー越しにケルビンの後ろ姿を見つめた。

「行くわよ」

ケルビンが二ブロック先の角を曲がったところで、ガルはドアを開けて外に出る。私たちは小雨が降る中、ケルビンが出てきた鉄柵を開けると、地下に続く階段を下りていった。階段を下りた先の猫の額ほどのバルコニーには、投げ捨てられた無数の煙草の吸殻が散らばっている。左手には真っ黒いペンキでベタ塗しただけの扉が一つ静かに佇んでいた。

「どうやって入るの?」

「そうね……」

 ガルは獲物を下見するようにドア全体を眺めた後に鍵穴に顔を近づけて観察した。

「これならドアを蹴破らなくて済みそうだわ」

 ガルはポケットからいくつかの鍵がぶら下がった小型のキーリングを取り出した。そしてまるでネイルの手入れをするかのように鍵を一本一本薄暗い雨空へかざして見ると、中から一本のキーを選び取った。ガルはその鍵をケルビンの部屋の鍵穴へ挿し込んでいく。そしてガルが鍵の頭を車のキーの底で強く叩くのと同時に鍵を回すと、重厚そうだった扉が軋みながら外側に開いた。

「手慣れたものね」

「どうも」

 ガルは笑いもせずにそう言うと、扉の隙間から部屋の中の気配を探った。誰もいないことを確認すると、ガルは扉の隙間に体を滑り込ませる。部屋に入ると黴臭さとまとわりつくような湿気で思わず顔をしかめたくなった。排水管や暖房用のダクトが剥き出しで這っている天井は二メートル弱しかなく、圧迫感で押しつぶされそうだ。

「人が住むようなところじゃないわね」

 ガルは冷ややかに笑うと、細長い造りの部屋を進んでいった。脱ぎ捨てられた靴が散乱している場所が玄関だとして、板張りの廊下の先には天井近くの小窓から外の光が差し込む空間がある。足を踏み出す度に部屋に響くキーキーという軋む音が不気味に響いた。廊下の途中には左右に一つずつ部屋があり、左側はドアが開いたままで中がバスルームだと判る。GPSの反応は部屋の奥よりもこの位置から発せられているようだ。ガルがバスルームの電気を点けると、洗面台上の蛍光灯が大袈裟に明滅して僅かなバズ音と共に黄ばんだ光を灯した。洗面台とその右奥のトイレの間には脱ぎ捨てられた服が山のように無造作に積み重なっている。私がGPSの発信機のライトを点灯させると、黒い服の山の麓に薄っすらと青白い光が灯った。ガルはその部分を掻き分けて、一本の黒いズボンを引っ張り出す。光を放つ発信機の周辺には薄黒い染みが見えた。ジョーが掴んだ時に付いた血だろうか。

「ガル、PCを探して」

「分かったわ」

 ガルは発信機だけをズボンから取り外すと、再びケルビンのズボンを服の山の中に戻した。私たちはバスルームを出ると、ガルは目の前のもう一つの部屋のノブに手をかけて回したが、鍵がかかっているようで開かない。

「先に突当りを見ましょ」

 私の言葉にガルは頷き、廊下を再び進んで突当りの部屋へと向かった。そこはリビングルームのようだ。右側にはファストフードの食べ残しや冷凍食品の空き箱に埋もれたソファーベッドがあり、左手には一度も使ったことがなさそうな意外にも片付いた小さなキッチンが見える。そして唯一外界の光を引き込む小窓の下には、小さな作業用のデスクと椅子が置いてあり、散らかった書類の下に一台のノートパソコンの端が見えた。OSはというと、Windowsね。

「ガル、ブローチの二輪の花を引き離してみて」

「これ離れるの?」

ガルが胸元の白百合のブローチに指を掛けて二輪の花を引き離すと、外れた方の花からは小型のUSB端子が覗き出た。

「そのUSBをPCに挿して起動ボタンを押してくれる? 後はこっちでやるわ」

 ガルはPCを引っ張り出して書類の上に置き直すと、USBをPCのポートに挿して電源ボタンを押した。このUSBにはロヨラのサーバーと同期するプログラムが入っていて、世界中どこにいてもロヨラのリソースを使うことができる優れものよ。まあ、大抵の目的はハッキングなんだけど。

「パスワードはどうするの?」

「そうね……」

 私はケルビンのPCのOSが立ち上がる前にBIOSの設定画面を開いた。BIOSとはPCの電源を入れた時に最初に動作するシステムのこと。そして私はPCの電源が入った際の起動順位をOSが入ったハードディスクよりもガルが挿したUSBを最優先にするように設定変更した。するとPCは自動で再起動を始め、今度は漆黒の画面に白い文字列が滝のように流れ出した。これで今このPC上ではロヨラと同じLinuxが走っていて、WindowsのOSを走らせるハードディスクは、私から見ればまるで外付けHDDと同じ状態で覗き放題になったというわけ。

「パスワードを消してしまおうかしら」

 私は〈System32〉フォルダにアクセスし、アクセシビリティ機能の拡大鏡をコマンドプロンプトとすり替えた。これで本来画面を拡大して見やすくするはずの拡大鏡機能を使用すれば、私が直接命令を出せるコマンドプロンプトが立ち上がるようになる。

「もう少しよ」

 再起動後、PCは通常通り立ち上がり、Windowsのログイン画面が表示された。私が画面下のアクセシビリティ機能から拡大鏡を選んでクリックすると、表示されたのは仕込んだ通り真っ黒いコマンドプロンプト画面だ。私はこのPCで登録されている正確なユーザー名を一覧表示させ、その中で〈kelvin〉が管理者権限を持つユーザーだと確認する。そしてプロンプトに〈net user kelvin *〉と打ち込むと、システムは新しいパスワードを求めてきたため、何も入力せずにEnterキーを二度叩いた。

「これでケルビンがどんなに複雑なパスワードを設定してたとしても、パスワードは無くなったってことになるの」

 私はプロンプト画面を閉じると、通常のログイン画面でパスワードが空欄の状態で再びEnterキーを押した。すると何事もなかったかのように、ケルビンのPCへのログインが完了した。

「手慣れたものね」

 ガルが軽く拍手をする。私はそのままメールソフトを立上げ、クロスに関連するメール履歴を洗った。しかしクロスとの連絡どころか、残っているのは登録している日雇いバイトの仲介会社からのメルマガだけ。しかもケルビンの返信メールを見ても他愛のない面接日の調整や時給交渉ばかりだ。

「ピンキープロミスにもこうして潜り込んだのは察しがつくけど、クロスの情報はひっかからないわね」

「履歴を毎回掃除するお利巧さんってこと?」

 ガルがごみ屋敷のようなリビングを眺めながら信じられない様子で言った。

「……意外にもかなり慎重な性格みたいね。メールソフトのゴミ箱も完全に削除されてるし、ブラウザの検索履歴もすっからかんよ。まるで買ったばかりのPCみたい」

 おかしいわ。ケルビンがクロスと繋がってる可能性は高い。そうだとすれば、クロスとは定期的に連絡を取ってるはずよ。別に連絡用のPCかデバイスがあるってこと? それとも敢えて手紙とかのアナログな方法を使ってる? そうだとすると、ケルビンからクロスの尻尾を掴むにはかなりの時間と労力がかかってしまうわ。

「この部屋、何か隠してるのかしら」

 ガルがさっきの鍵がかかった部屋のノブを回しながら呟いた。……ん? 待って。隠してる? ケルビンが慎重な性格だとすれば、あり得るわね。私はPCのストレージ情報を確認した。SSDの容量は2TB。でもCドライブをはじめとした見えてる領域を全部足しても1TBしかない。つまり、消えた1TBは仮想ドライブとして隠されてるってことね。

「ガル、あなたって最高!」

「え? 何か言った?」

 ヘアピンをノブの鍵穴に挿し込んでるガルに、私は最大限の称賛の言葉を贈った。仮想ドライブは、普段はPCの中でただの巨大なファイルとして転がってるの。でも専用のソフトを使えば、その巨大なファイルがDドライブやEドライブとして認識されて、中のファイルを自由に読み書きできるのよ。ほら、その証拠に、アプリ一覧には載ってないけど、OSのレジストリを調べると、ある暗号化ソフトがついさっきまで稼働してた記録がある。つまりこの仮想ドライブ上で別のメールソフトを使用してる場合、仮想ドライブのマウントを解除した途端、通常のWindowsエクスプローラー上では見えなくなってしまうの。そうすれば見られたくない情報は完全に隠すことができるのよ。でもこの仮想ドライブもAESで暗号化されてるのよね。総当たりでパスワードを突破しようとしても年単位の時間がかかるわ……ちょっと待って。ケルビンは今さっきまで仮想ドライブで作業をしてたのよね。ということは、スワップファイルがまだ残ってるかもしれない。PCは通常重い作業をすると、仮想ドライブから読みだした暗号化されていない生データを一時的にハードディスクの別の場所に書き出してしまうことがあるの。こういうデータのコピーをスワップと言って、その断片をかき集めれば仮想ドライブをこじ開けなくても、何かクロスに繋がる情報が見つかるかもしれない。

「ガル、データ・カービングをするわ。ちょっと時間をくれる?」

「ご自由にどうぞ」

 ガルはピッキングに手間取ってるようで迷惑そうに返事をした。私は早速PC内の数十GBに及ぶスワップファイルを01のバイナリデータで高速スキャンし始めた。その時だ。

「……ああ、それはもう手配してる」

 ケルビンだ! 玄関ドアの直ぐ向こう側からくぐもったケルビンの声が聞こえてきた。

「ガル、隠れて!」

 私はそう言ったものの、この小さな部屋に隠れる場所なんてない。いや、一つだけある。

「今、隠れてるのよ……!」

 ガルは両手を巧みに動かしながら諭すように言った。ガルの額から一筋の汗が流れ落ちる。誰かと電話をしているのだろうか、ドアの向こうから聞こえてくる声はケルビン一人の声だけだ。そしていよいよぶつかり合う鍵の金属音が聞こえてきた。

「ガル! 急いで!」

 鍵が玄関の鍵穴に挿し込まれ、厚いドアが軋む音がする。

「後…ちょっと……」

ガチャッ。

 玄関のドアが開いた。

「……ああ、整備士の当日の動きも把握できたし、後はそっちの双子に仕掛けをしてもらうのと、実際の渡航スケジュールの確定を待つだけだ。今度は絶対にしくじらないさ」

 ケルビンの声が途端に大きくなり、ブーツの靴底が玄関の床板を踏み鳴らす音が聞こえてきた。ガルは寸前のところでドアノブの鍵を開け、私たちは例の開かずの部屋のドアの裏で息をひそめている。ケルビンはどうやらクロスの人間と話をしているようだ。

「何よこれ……」

 ガルは部屋の中をゆっくりと見回しながら、ほとんど聞こえないほどの小さな声を漏らした。その部屋はまるで小さなチャペルのようだった。ここにも天井近くに小窓があり、そこから一筋の白い光が差し込んできている。そして四角い部屋の床の輪郭をなぞるように小さなキャンドルが整然と並べられ、暖かな暖色の光が部屋全体を静かに揺らしているようだった。しかし異様だったのは、この部屋一面を隙間なく覆うように張られた無数の写真の数々だ。ざっと万を超す大小様々で、モノクロやカラーも含まれた写真だが、どれもこれもが人の死体を写したものだった。あるものはアフリカだろうか、多くの黒い肌の死体が人の背丈以上に積み上がっている。そしてあるものは東南アジアだろうか、下半身をさらけ出した女性の死体が散乱する中で銃を肩に掛けた数人の男たちがカメラを見て笑っている。これらは全て戦争や紛争で命を奪われた人たちを撮影したものだ。そして小窓の真下には小さな木製の祭壇のような台が置かれ、その上には一振りの短刀が突き刺さっていた。柄と剣身の間にはガードが左右に張り出し、それはさながら十字架のように見える逆さ剣だった。剣の傍らには一枚の写真がフレームに入れられて飾られている。写っているのは、小さな男の子を抱えた男性とその二人を抱きしめている女性だ。どこかの海浜公園で撮影されたようで、青空と海に臨んだ芝の絨毯の上で三人はとても幸せそうな笑顔を向けている。……この男性って、まさかケルビン?

「アイ、解析はまだ?」

 ガルが小さな声で焦りを押し殺したように聞いてきた。

「ええ、まだ四十パーセントってとこよ。スワップファイルから画像やメールファイルの断片を抽出してるの」

 この作業は数百万行のバイナリコードの中から、特定の文字列を探し出す力技。例えるなら、シュレッダーにかけられた紙屑から意味のあるものを一枚一枚かき集めるようなものなの。ガルは下唇を噛んで、部屋の前を通り過ぎていくケルビンの気配を目で追った。リビングにいったケルビンが解析を続けるPCに気づかなければいいけど……。

「……分かった。車のキーを取ったら直ぐに行く」

 ケルビンは車のキーを取りに戻ったんだわ。何とかその間だけやり過ごせれば……!

ミシッミシッ……!

 しゃがんでいたガルが僅かに体の重心を移した瞬間、足元の床が軋んだ。リビングでキーを探し回っていたケルビンの足音が止む。

「ちょっと待ってくれ。またかけ直す」

ケルビンが通話を切るのが分かった。そしてケルビンが体の向きを玄関の方へゆっくりと変えるのが足音から伝わってくる。

「誰かいるのか!?」

 ケルビンが叫んだ。そしてケルビンの足音は一度キッチンの方へ向かい、間もなく再び玄関へ通じる廊下へ戻ってきた。

「いるなら出てこい!?」

 ケルビンの声が先ほどよりもずっと近くに聞こえる。そしてバスルームの電気の点灯管が灯る金属音が響いた。ガルは片膝をついたまま、ドアの向こうの気配に全神経を集中させているようだ。スワップファイルの解析はまだ六十パーセント……。

「そこか!? その部屋にいるのか!?」

 いよいよケルビンの重く沈むような足音がこの部屋に近づいてくる。ガルはゆっくりと右手を右足の踝の方へ伸ばしていった。そしてズボンの裾を上げると、足首に隠していたPSSを抜き出した。そしてガルはリアサイトを胸に押し当てて構えると、生唾を一度飲み込む。そしてドアの向こう側からはケルビンが銃の撃鉄を引く金属音が聞こえてきた。

ガチャガチャ……ガチャッ。

 途端に部屋の空気の流れが変わり、ロウソクの火が忙しく揺れ出すと、ドアがゆっくりと開けられていくのが分かる。

「出てこい! ここにいるのは分かってるんだ!」

 ケルビンが一歩部屋に踏み込んできた。そして、

バンッ! バンッ! バンッ!

 小さな部屋の中に耳をつんざくような銃声が三回鳴り響き、ドアの破片が弾け飛んで床に落ちる音が続いた。ケルビンはドアの裏を撃ち抜いたようだ。危なかった…祭壇の後ろに移動してなかったら、今頃私たちもタダでは済まなかったわ。ケルビンはドアを足で蹴り開けると、獲物を射止めたかどうかを確認しだした。その瞬間、ガルは祭壇の裏から半身を滑り出させると、背を向けるケルビンにトリガーを引いた。

プシュッ!

 サイレンサー機能が付いたPSSは、ガスが混ざった破裂音と共にガルの手の中で小さく弾んだ。ケルビンは右足のふくらはぎを撃ち抜かれ、呻き声を上げてその場に膝を突いた。

「アイ、急いで!」

 ガルはそう叫ぶと、銃口をこちらに向けてきたケルビンを見て再び祭壇の裏側に身を隠した。

バンッ! バンッ!

 ケルビンが発砲した弾丸が、祭壇に穴を開けてガルの耳元を掠めていく。

「解析完了まで後二分よ」

「仕方ないわね、時間稼ぎするわ」

 足を引きずって廊下に避難したケルビンの荒い息遣いが聞こえてくる。

「そっちは残り一発でしょ? 降参しなさい!」

 ガルが身を隠したままでケルビンに呼びかけた。

「お前たち誰だ! 何しに来た!」

 ケルビンが痛みを堪えながら叫ぶ。

「そんなこと言うくらいなら、わざわざ留守の間を突かないわよ」

 ガルも興奮を抑えるように大きく肩を上下させて言った。

「その声、どこかで聞いたことがあるぞ……そうだ、バートが絡んでた女だ。お前か!? 俺たちの邪魔をしたのは!」

 そうか、あの時バートの会話はケルビンたちに盗聴されてたんだわ。ケルビンが再び撃鉄を引く音が聞こえる。

「ハイエナのようにうろつきやがって。また俺たちの邪魔をしようってのか!!」

 ケルビンが怒声を上げた。そして解析完了まで後数十秒と迫った時だった。解析作業の負荷がかかったPCが、まるで大きな溜息をつくようにファンの乾いた音を吹き出した。

「まさか……!」

 ケルビンが何かに気づいたようにリビングの方へ足を踏み出した。気づかれた! ガルが慌ててケルビンを追いかけるように廊下に飛び出していくと、待ち伏せしていたケルビンに思い切り殴り飛ばされた。ガルは玄関のドアに背中を打ち付けて咳き込む。ガルは銃口をケルビンに向けるが、震える手で狙いが定まらない。その隙にケルビンはリビングへ振り返ると、リボルバーの銃口をリビングに向けて構えた。

バンッ!

 ケルビンが放った銃声に続いてPCが吹き飛ぶ破壊音が木霊した。解析は…九十七パーセントで止まっていた。

「ガル、失敗だわ」

「こうなりゃ、吐かせるまでよ!」

 ガルは勢いよく起き上がると、ケルビンに向かって走っていった。ケルビンは椅子の背を掴むと、走ってきたガルに向かって振り回す。ガルは左手で側頭をガードして椅子の衝撃を防ぐと、小さな右拳をケルビンのみぞおちにめり込ませた。ケルビンは呻く間もなく体をくの字に折り曲げると、胃の中の物を吐き出したまま倒れ込んだ。苦しそうに咳き込んでいるケルビンから視線を逸らさず、ガルは床に落ちた白百合のUSBを拾い上げると胸元のブローチの片割れと繋げた。

「何で……何でだ……」

 ケルビンはうつ伏せのまま汚物と共に吐き出すように言った。

「いつも……いつもいつも! いつも邪魔をする!」

 ケルビンはやっと呼吸が落ちついてくると、糸の切れた木偶人形のように仰向けにひっくり返った。

「クロスの居場所はどこ? 答えなさい」

 ガルはPSSの銃口をケルビンの頭に向けたまま冷たく言い放った。

「ははっ……クロスの居場所? 俺たちはどこにだっている。ほら、ここにいるだろ!」

プシュッ!

 ガルが再びトリガーを引くとケルビンの左肩から血しぶきが舞った。ケルビンは悲鳴を上げると、体を折り曲げて右手で左肩を押さえた。

「質問を変えるわ。ナディアはどこ?」

「ナ、ナディア……? そうか、お前はあの国の差し金か……がああっ!!」

 ガルが血の流れ出すケルビンの右足の傷口を踏みにじると、ケルビンは口を引き裂けるほど大きく開いて苦痛の叫びを上げた。

「それで? ナディアはどこなの?」

 ガルが銃口を脂汗で光ったケルビンの額に突きつけて聞いた。

「わ、分かった! 言う! 言うから、許してくれ!」

 ケルビンが両手を力なく掲げて降参の意思を示すと、ガルは銃口を離してケルビンから距離を取ろうとした。その時、ケルビンは突然ガルが踏んでいたラグを引っ張ると、足を掬われたガルはその場に転倒した。ガルの手元にPSSが転がる。すかさずケルビンが左足を思い切り蹴り出すと、PSSは回転しながらソファーベッドの下へ滑り込んでいった。ガルはケルビンの顎を蹴り上げると、そのままの勢いで立ち上がり、ソファーベッドの向こうへ飛び込んだ。ガルがベッドの向こう側でPSSを手に取って顔を上げた時、既にケルビンの姿はリビングには無かった。

「ガル、廊下!」

 一瞬、引きずられた足が廊下に消えていくのを見ると、私はガルに叫んだ。ガルはソファーを飛び越えて廊下に向けて銃口を向けるが、ケルビンの血の跡はさっきまで私たちが隠れていた部屋へと折れ曲がっていた。ガルはゆっくりと部屋のドアの横まで歩いていくと、中の様子を伺うように一息つき、そして一気に体を翻して部屋の中に向けて銃を構えた。ガルが向けた銃口の先には、祭壇の向こうに立ちながらも両手で体を支えて荒い息をしているケルビンがいた。そして外では既に雨が止み、小窓から差し込む橙色の陽の光を背に立つケルビンは、さながら神父のようにも見えた。

「観念しなさい」

 ガルは銃を構えたままゆっくりとケルビンに向かって歩いていく。

「お前たちはどうせもう何も感じなくなってしまったんだろ? これだけたくさんの人たちが辱められても、殺されても、もう何も感じなくなってしまったんだ。ああ、何て哀れで可哀そうな人間たちなんだ」

「説教のつもり?」

「ああ、そうだ! 説教だとも!!」

 ケルビンは狂ったように両手を振りかざして叫んだ。

「聞け! この愚かな人間ども! なぜ辱める? なぜ争う!? なぜ殺すんだ!? どうして解かり合おうとしない? どうして歴史から学ぼうとしない!? どうして愛し合おうとしないんだ!? 一体、いつまでお前たちは同じことを繰り返すんだ!!」

 ケルビンの怒りに満ちた叫び声は、まるでこの部屋に飾られた写真の中の無数の死霊たちも復唱するように木霊した。ケルビンはゆっくりと祭壇に飾られた写真フレームを手に取って見つめる。そしてその血で汚れたケルビンの頬に一筋の涙が流れ落ちた。

「俺の家族は異教徒のテロで死んじまった……俺の可愛いティムと……あの優しくて美しかったアシュリーが……一瞬で肉の塊になっちまった……」

 ケルビンは顔を皺くしゃにしながら泣いている。

「俺は異教徒を憎んだ。地獄の底まで追ってでも引き裂いてやりたいと呪ったんだ! でも直ぐに違うと気づいた。その異教徒の家族を先に殺したのは、俺たちの国だったんだ」

 ケルビンはがっくりと苦しそうに両肘を祭壇に突けると、右手で逆さ剣の柄を握り締めた。ガルの銃を握る手にも力が入る。

「もう止めだ。……争いはこりごりだ。もう……人を憎むのにも疲れちまったよ」

 ケルビンは私たちに向かって優しく微笑んだ。

「ダメ!」

 ガルが叫んだ瞬間だった。ケルビンは右手で握った短剣を抜き、刃を自分の首筋に当てると、まるでバイオリンの弓を引くように首を切り裂いた。ケルビンの首筋からは勢いよく鮮血が噴き出し、天井から壁一面に赤黒い斑点が飛び散った。そしてケルビンは祭壇にもたれかかるように突っ伏して沈黙してしまった。

「……負けた」

 ガルは力なく銃を下ろして呟いた。ケルビンの血潮は祭壇を通じて床に到達し、十字架に磔にされて殺された一人の男性のモノクロ写真を深紅の色に染めた。


 ご一読いただきありがとうございます!本作は、今、私達が問うべき人類とAIのあり方について一石を投じるべく執筆しています。

 現在、個人で利用できる最新のAI技術を駆使し、本作の『公式プロモーションビデオ(実写映画風PV)』を鋭意制作中です! 完成版は私のX(https://x.com/RIGHTTHINGADAY)やYouTubeで公開し、こちらのページでもお知らせします。ジョーとアイの凸凹コンビの謎解き、ハッカーたちの息詰まる攻防を、ぜひ映像でも体感してください。よろしければ、今のうちにブックマークや評価で応援していただけると励みになります!

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