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第9話_傘より先に見たもの

「服、変じゃない?」


 待合せの時計を確かめるより先に、そう聞かれた。

 土曜の午後二時。駅前の柱の横に、久瀬が立っていた。


 髪を下ろしている。

 薄い青の服は袖のところが少し広くて、鞄を持つ手首がいつもより細く見えた。


「変じゃない」

「そっか」


 久瀬は頷いて、鞄の紐を持ち直した。

 俺も頷きかけて、やめる。


「その色、似合うと思う」

「……どれ」

「服の。青」

「ああ、うん。これね」


 自分の袖へ一度目を落としてから、久瀬が顔を上げた。


「そういうの、先に言って」

「変じゃないかって聞くから」

「うん。聞いたけど」


 鞄の紐を肩へ掛け直して、彼女はまだ動かなかった。

 俺も待つ。何か忘れたのかと思った頃、小さく、ありがと、と聞こえた。


「行こう」


 歩き出すのが少し早かった。

 俺は追いついて、隣へ並ぶ。


「先に傘?」

「その前に、紙留めるやつ。文具、あっちだよね」


 彼女が指したのは反対側だった。

 看板を見上げ、すぐに指を引っ込める。


「……こっちだった」

「この辺、知ってるんじゃないの」

「知ってる。普段は迷わない」


 別に迷ったとは言っていない。

 言い直す前に、久瀬が俺の一歩先を歩いた。


 店で大きめのクリップを買い、傘の売場へ向かう。

 黄色い傘は、思ったより何本もあった。


「どれだっけ」

「まだ決めてない。書いた時に見えたのが黄色だっただけ」

「へえ。じゃあ、これにしよう」


 久瀬は一番小さいものを持ち上げた。


「子ども用だぞ」

「でも、目立つ」

「返す前に壊した人の話になる」


 笑いながら戻し、今度は普通の大きさを手に取る。

 店員に声をかけて、試しに開いていい場所を教えてもらった。


 久瀬が傘を開く。

 上がった布で顔が隠れたので、俺が柄を少し上げた。


「見える?」

「見える。朝倉は?」

「入ってみる」


 彼女が半歩ずれた。

 俺も隣へ寄る。


 傘の下は、急に狭かった。

 久瀬は柄を避けるように立っていて、片方の肩が外へ出ている。


「そっち、入ってないぞ」

「朝倉は入ってる」

「久瀬も、もう少しこっち来れば」


 言ってから、自分で近づいてほしいと頼んだのだと気づいた。

 久瀬も俺を見た。けれど、離れずに一歩戻った。


 肩が触れるほどではない。

 それでも、さっきより声がすぐ横から聞こえる。


「……これ、劇ではやらないね」

「やらない」

「じゃあ、何で二人で入ってるんだろ」


 返事をしようとして、俺も何を確かめるつもりだったか見失った。

 外は晴れている。


「大きさ、見てた」

「あ。うん」


 久瀬が傘の縁を見上げた。

 俺はそちらを見なかった。近くにある髪の先が、動くたびに肩へかかる。


 久瀬が柄から手を離した。

 俺が持ったままになり、先に彼女を外へ出してから畳む。


 選んだ傘を見比べているはずだった。

 なのに今は、近くで見えた髪の方を思い出していた。


 会計は二人で半分ずつ払った。

 俺が持とうとすると、久瀬が黄色い柄を先に取る。


「朝倉はクリップ買ったでしょ」

「軽いぞ」

「私も持つもの欲しい」


 そう言われると、取り上げるのもおかしかった。


 店を出たところで、久瀬が向かい側の道を見た。

 小さな焼き菓子の店に、客が二人並んでいる。


「寄っていい?」

「うん」


 近づくほど、彼女の足が速くなった。

 硝子の前で止まり、すぐに速度を失う。


『本日のレモンケーキは売り切れました』


 小さな札を、久瀬は二回見た。


「……うそ」


 放送では聞いたことのない声だった。


「有名なの?」

「おいしい。上が、ちょっと固いの」

「へえ」

「下はしっとりしてて。レモンの、酸っぱいのが」


 そこまで言って、久瀬は口を閉じた。

 自分で食べたくなってしまったらしい。もう一度札を見る。


「別の店にもあるんじゃない?」

「ここのがいい」

「分かった」


 今の返事は、読み合わせでも聞いた覚えがあった。


「今日は買おうと思ってた。一つずつ」

「二つ?」

「うん。朝倉に、これだよって言いたかった」


 何を、と聞かなくても分かった。

 俺は店先の営業時間を見る。まだ閉店まではずいぶんある。早く来れば、また買える。


「じゃあ、次は早い時間に来よう」

「傘、もう買ったけど」

「ケーキ買いに」

「……それだけでも、来る?」


 久瀬は札から目を離し、俺の方へ向いた。


「来る。俺、今、食べたいもの増えたし」

「私が言うから?」

「うん」


 彼女が少し笑った。

 さっきまで動かなかった足が、ようやく一歩下がる。


「じゃ、午前中。選考終わったら」

「俺も時間、調べとく」

「起きられる?」

「そっちが時間決める前から疑うなよ」


 返したら、久瀬がもう一度笑った。


 帰り道、俺たちは駅へ真っ直ぐには向かわなかった。

 一本向こうの商店街を見て、知らない店で飲み物を買った。久瀬は店先のメニューだけはすぐ決める。


「台本、持ってきた?」


 歩きながら聞かれた。


「今日は持ってない」

「私も」

「傘の方だけでよかっただろ」

「うん」


 久瀬が、買ったばかりの傘を持ち替えた。

 その手は制服の袖ではなかった。


 改札の前で別れる。

 彼女は俺とは違う方向のホームへ向かった。ここは買物に来た駅で、学校からの帰り道とは違う。


 電車に乗ってから、スマホが震えた。


『次は売り切れてない時間にする』


 俺は笑って、返信した。


『調べとく』


 鞄の中で、クリップの袋が鳴った。

 今日買ったものは二つだけなのに、思い出すことはそれより多かった。

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