第10話_相手が違えばいいわけがない
【久瀬紗月視点】
「……待つから」
自分の部屋だと、普通に言える。
鏡を相手に、もう一度。同じ所で止まらない。
火曜日の夜。
机には金曜に使う台本と、地域の朗読講座の案内が並んでいた。講座は七月。先のことだ。申し込むかはまだ決めていない。
先のことより、今週のことを考える。
昨日、千尋にも通して聞いてもらった。
最初の点検は分かる。でも、後半の女の子は怒っているのか、帰ってほしくないのか、少し迷うと言われた。
帰ってほしくないに決まっている。
私はそう読んでいたつもりだった。
台本へ目を落とす。
朝倉の字で、男の返事の横に小さく丸がある。
書いてあるのは、私の台詞じゃない。
けれど、その丸を見ると、どうしても朝倉の方を思い出す。
先週、安西が代わりに読んだ時は言えた。
別に、安西の芝居がすごく上手かったわけじゃない。少し迷ってから、自分の言葉みたいに読んでいた。
朝倉も、そうすればいい。
……そうしたら、私は次を言えるんだろうか。
鏡の前から、一度離れた。
椅子に掛かった青い服を畳む。
土曜日、家を出るまでに三回着直した。最初の服は気合いが入りすぎた気がして、次の服は普段すぎて、最後にこれへ戻った。
褒められた袖口を、もう一度手首へ当てた。
制服へ戻った月曜日は、少しだけ損した気がした。服が違うだけであんなに見てくれるなんて、知らなかったから。
引き出しの鏡に顔が映る。
さっきまで自分の読み方を確かめていた時より、ずっと締まりのない顔をしていた。
服を引き出しへ入れる。
また台本を持つ。
「すぐ答えなくて、いい」
今度は、朝倉がそこにいるつもりで。
顔を上げる。あの人が返事をして、それから私を見る。
喉の奥が、きゅっと狭くなった。
次の台詞は知っている。
何て言うかではなく、どんな顔で言ったらいいのかが分からない。
朝倉は、私が言い終わる前に次を探すことがある。
直そうと思って、紙を見ている。
あの人が顔を上げるのを、私は待っている。
上げたら上げたで、うまく言えなくなるくせに。
ベッドへ腰を下ろし、スマホを出した。
千尋との画面を開く。
『朝倉のせいだと思う』
打ってから消した。
台本の感想にそんな返事を送っても困るだけだ。
違う言葉を、ゆっくり打つ。
『私、朝倉が好き』
指を止める。
まだ送っていない文字なのに、一度見ると、別の言い方へ戻せなくなった。
送信を押した。
布団へスマホを伏せる。
すぐに気になって、また裏返した。
『そっちの話?』
『そう』
『なるほど』
『それだけ?』
『今、原稿の校正してる。明日聞く』
千尋は本当に、明日聞くつもりなのだと思う。
画面を閉じ、しばらく膝の上の台本を見た。
朝倉が好き。
そう思ったら、安西と読む方が楽だとしても、そっちへ替えたいとは全然思わなかった。
あの人が、次の一行を探している所が見たい。
変な声になった時に、私へ笑ってほしい。
昨日、昼の放送で見つけた言い間違いを、部活の人より先に教えたくなる。
紙の端に目を落とす。
『まとめないで。待ったの、別の日だから』
まだ知り合って長くないのに、月曜と火曜と土曜は、私の中でも別の日になっていた。
ここまで考えて、私は額を押さえた。
台本の女の子に、自分を入れすぎている。
でも、だからといって他の人を思い浮かべても、もう上手くいかなかった。
机へ戻って、もう一度読む。
今度は、顔を上げる場所を決めた。長く見て次が飛ばないように、間も決める。
余白へ、二拍、と書く。
声はちゃんと届く。私がやるべきなのは、そこからだ。
読み終わってから、土曜に買った黄色い傘を見た。
部屋の隅に置くと、思ったより目立つ。
金曜は、一人では講堂へ行かない。
学校で朝倉と会って、それから二人で講堂へ行く。
明日、会ったら、ちゃんと目を見よう。
私は青い服をしまった引き出しを閉め、制服のリボンを机の端へ置いた。




