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第11話_呼ばれなかった名前

「今日は、最初から噛まないでね」

「久瀬も男の方から読まないでくれよ」

「あれは初回だけ」


 金曜の放課後。

 講堂の脇で、久瀬がクリップを留め直していた。


 学校で彼女から受け取った黄色い傘は、俺が持つ。

 原稿は文字を大きくして、立ったままでも追えるようにした。誰の字が細かいせいかは、もう言われた。


 応募したのは六組。講堂の枠は三つ。

 入口には見学可の札が出ていて、美緒も後ろの席にいた。


「昨日の最後、もう一回やる?」

「うん」


 傘を返し終えた所から、短く読む。

 久瀬が明日の昼へ誘う。女の子の返事を聞いてから、俺も一緒に食べたいと答える。


 次を探さずに読めた。

 久瀬が息を吐き、俺を見る。


「今の、よかった」

「うん。昨日もこんな感じだった」

「それで行こう」


 紙の二拍という書き込みを、彼女が指で押さえた。


「飛ばないように書いたけど、今の、何拍だったんだろ」

「数えてない」

「私も」


 久瀬は笑ってから、空いた舞台へ目を向けた。


「本番も、こっちに立ちたいな」

「じゃあ、俺は向こうから来る」

「うん。傘、忘れないでね」


 スマホをしまう前に、六月十三日の予定を開いた。

 文化祭。その下へ、久瀬と朗読、と打つ。


 今日通ったら、本当にそこで読む。


 前の組の試演が終わった。

 一人の言い間違いに、別の一人が笑いながら返して、話が進んでいた。


「次、朝倉・久瀬の組」


 傘を持ち直す。

 久瀬が先に出る。俺も続いた。


 客席を見ると、先生と実行委員、その後ろにほかの参加者がいる。

 思ったより顔が近い。


 試演開始の合図が出た。


「遅い」

「五時の約束だろ。今、四時五十八分」


 久瀬が、時刻じゃなく傘を貸した日の話だと返す。

 七泊八日、と俺が言うと、旅行じゃない、とすぐ返ってきた。


 後ろの席で笑い声がした。

 声だけじゃなく、やりとりが届いた気がした。


 点検する女の子と、謝らされる男。


「骨も平気」

「戦ってないから」

「匂いは?」

「傘の返却って、こんなに厳しかった?」


 そこでも笑ってもらえた。

 久瀬が少し口元を緩める。俺を見た。


「傘に謝って」

「すみませんでした」

「許す」

「持ち主も許してくれ」


 言い終えた時、さっきの人がまだ笑っていた。

 俺も楽しくなっていた。次の返事も、待ってくれている。


 久瀬が受取証を出す。

 久瀬が紙へ目を落として、名前を尋ねた。


「知ってるだろ」

「忘れ――」

「じゃあ誰を待ってたんだよ」


 最後の一音へ、俺の声が重なった。


 久瀬の目が一度動く。

 俺も次の行を探す。止めるより先へ行こうとして、顔を上げるのが遅れた。


 昨日、持ってこなかった。その前も。

 謝る男と、待った日をまとめないでほしい女。


 名前を書いて、傘を渡す。

 受け取った久瀬は、帰りかけた男を呼び止める。明日、お弁当を一緒に食べないかと。


 そこで顔を上げるはずだった。

 なのに、次は何だっけ、と自分の紙へ戻る。


「すぐ答えなくて、いい」

「ちょっと待って」


 言ってから、また早すぎたと分かった。

 彼女はまだ紙を見ていた。


 二拍。

 俺だけが、もう返事を終えて立っている。


「……待つから」


 久瀬の声が戻る。

 次の台詞は全部知っている。それなのに、今の返事を聞いて言う言葉に思えなくなった。


 一緒に食べたい、と答える。

 声だけが、さっきより大きく出た。


 最後の返事まで聞いて、俺たちは頭を下げた。

 制限時間の札は、まだ出ていなかった。


 拍手が聞こえる。

 袖へ戻ると、久瀬が傘を俺へ返し、稿の角を揃えた。


「最初、笑ってたね」

「うん」

「あそこは、今までで一番だったかも」

「……うん。後ろ、急いだ」

「私も、紙見てた」


 二人で同じ行を見る。

 ここだけもう一度、と思ってから、今のが選考だったと思い直した。


 全部の試演が終わり、選ばれた組の名前が読み上げられた。

 一組目は、俺たちの前に読んだ三人だった。


 次。まだ、もう一組ある。

 久瀬が原稿を持ち上げた。俺も傘の先を床から離した。


 三つ目の名前を聞く。

 それも、違った。


「以上の三組は、本番の打合せをするので残ってください」


 俺は持ち上げた傘を、また下ろした。

 さっき久瀬が立ちたいと言った舞台の脇へ、選ばれた組が集まっていく。


 俺たちは、客席を出る方だった。


 スマホを確かめると、六月十三日にはもう文字が入っていた。

 画面を閉じた。まだ消せなかった。


 あとで先生へ講評を聞きに行った。

 前半は掛け合いになっていたし、内容も分かった、と言われる。


「後半、相手が言い終わった時、もう別の所を見ていることがあったな。二人で返すというより、それぞれ順に読んでいる感じがした」


 あの時顔を上げていたら、と思う。

 次の行を急がずにいたら。


 久瀬が、ありがとうございましたと言った。

 俺も頭を下げた。


 廊下へ出たあと、彼女は傘の柄へ一度触れた。


「私、ちょっと、行ってくる」

「うん」


 どこへ、と聞く前に、久瀬は廊下の先へ歩き出した。

 途中で一度足を止め、紙を持ち替える。俺は鞄を開き、稿をしまいかけた。


「律」


 美緒が立っていた。


「見てた」

「うん」

「あの、受取証の所。相手が話す間、顔見てた方がいいと思う」


 分かっている、と言いかけた。

 けれど、できなかったのは俺だ。


「そうだな」


 美緒は、鞄から自分たちの稿を出しかけ、やめた。


「教室の枠、まだこれからだよ」

「知ってる」

「私もそっちでやるから。時間ずらせば、出られるし」


 何へ出る話か、一瞬分からなかった。

 美緒が俺の持つ黄色い傘を見た。


「律の方も、私が相手役、やろうか」

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