第12話_落ちた相手と続きを
美緒は俺の返事を待っていた。
昔の原稿を直してと頼む時とは、少し違う顔だった。
「今の台本なら、読めると思う。私、あそこで止まらないから」
「……そうかもな」
声を出せば返す。相手の言葉が少し変わっても、そのまま進める。
美緒にはそういう所がある。
昔は、言いやすいと笑ってくれた一行を、家へ帰ってから何度も読み返した。
でも今、その手へ渡したい稿はなかった。
「俺は、久瀬と出る」
「上手くいかなかったのに?」
「うん」
買物の帰り、久瀬が持っていた黄色い傘の柄を握り直した。
「久瀬とやったから、また書いたんだ」
「……私が読みたいって言った時も、書いてくれたじゃん」
指に力が入った。
その時のことを、無かったみたいには言えなかった。
「書いてたよ。ずっと」
美緒が何か言おうとする。
俺は傘を鞄の横へ寄せた。
「でも、この続きは久瀬に渡したい」
美緒の手が、出しかけていた自分の稿へ戻った。
束の端を一回、指で押す。
「そっか」
俺は頷いた。
久瀬へ会いに行きたかった。
「じゃあ、行く」
「……うん」
廊下の先へ歩く。
彼女の背中は見えなかった。講堂へ戻ろうかと迷い、職員室の方へ足を向ける。
曲がり角の向こうで、久瀬と目が合った。
片手に台本、もう片方に白い紙を持っている。
「あ。朝倉」
俺を見た途端、紙を台本の後ろへ入れた。
「どこ行ってた?」
「先生の所。もう帰る?」
いつもなら、次の予定が先に出てくる。
今日はその一言を言って、久瀬は口を閉じた。
「来週、どこ借りようか」
彼女の視線が、一度だけ俺の鞄へ落ちる。
「……まだ、やる?」
「やりたい」
「六月十三日、俺、空けたままだから」
「……うん」
「久瀬と、続きを作って出たい」
彼女が台本を胸へ寄せた。
後ろに隠れた紙の端が、少し折れる。
「私、誘ったのに、あんな」
「俺も、全然待てなかった」
「でも、顔を見たら、また分かんなくなって」
途中で言葉が切れた。
久瀬は一度息を吐き、白い紙を引っ張り出した。
「これ」
教室自由企画、と大きく書いてある。
代表者の欄には、もう久瀬紗月と書かれていた。
「もらってきた。月曜からだって。……最初に見たやつ」
「うん」
「落ちたけど、まだやりたい。教室でも、朝倉と」
紙を差し出す手が止まった。
「でも、さっきのあとで、また一緒にって言っていいのか分かんなくて」
俺は鞄から稿を出し、その下へ添えた。
久瀬が、俺の名前の載った一枚目を見る。
「月曜、一緒に出そう」
彼女は頷こうとして、一度だけ唇を噛んだ。
それから、今までより大きく頷く。
「今、やめるって言われたらどうしようって思った」
「言わない。本番、男の方も俺がやる」
久瀬が申込用紙へ目を戻した。
出演予定者は、片方だけ空いている。
「ここ、朝倉の名前、書いていい?」
「頼む」
彼女は鞄からペンを出した。
机代わりの台本へ用紙を重ね、一文字ずつ書く。
朝倉律。
書き終わっても、すぐにはペンを離さなかった。
俺を見てから、もう一度その欄を見る。
「……頼むよ。本当に」
いつもの早さでは返ってこなかった。
その代わり、用紙はもう台本の後ろへ戻らなかった。
窓際へ寄り、二人で申込用紙を見る。
席は二十四。講堂よりずっと少ない。座っている人の顔が、全部見えるくらいの数だ。
「誰も来なかったら、どうする?」
「呼ぼう。安西とか、三枝とか」
「呼んでくればいいみたいに」
「最初は、それでよくない?」
久瀬が少し笑った。
前を向いた時の声が、ようやくいつもの大きさへ戻る。
「じゃ、ちゃんと来てほしい人、考えよう」
俺は『傘の返し方』を開いた。
待った日をまとめないでほしい、という行の所だ。
「ここ、もう少し書きたい」
「どこ?」
「何日も会って、傘を返す以外に何を喋ってたか」
「うん。私も、そこ知りたい」
書いた紙を覗く顔が、初めて二人で読んだ日と同じだった。
でも今は、彼女が続きを待っているのを知っている。
鞄へ戻す前に、台本と申込用紙の角を揃えた。
台本の作者欄にある俺の名前と、用紙に並んだ二人の出演者名。
「月曜、昼休みでいい?」
「うん。一緒に行く」
久瀬が用紙をしまう。
俺はスマホへ、書き足す場面の一行を打った。
『この前、何の話したっけ』
見せると、久瀬が小さく読んだ。
俺は続く男の台詞を考える。
「レモンケーキ」
「……それ、私たちの話だよね」
「ああ、うん」
口から出たあとで気づいた。
久瀬が笑う。さっき舞台を下りた時には、見られなかった顔だった。
「そっちも、忘れないでよ」
「忘れてない。今、先に出てきたくらいだし」
俺はその一行をメモへ残して、六月十三日の予定をもう一度開いた。
久瀬と朗読、と打った文字は、そのままにした。
帰ったら、まず書けた所から送ろう。
今度は、自分が読んでほしい人へ。




