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第13話_男役の久瀬はよく喋る

「傘、返します」


 久瀬が腕を伸ばしてくる。

 あまりにも迷いがなかったので、俺は危うく受け取りかけた。


「……待って」

「何」

「壊れてないか、確認」

「平気。開いた」


 早い。書いてある女の台詞へ戻る前に、もう傘が来る。


「それだと終わるだろ」

「朝倉、ずっと終わらせたがってたじゃん」


 久瀬は男役の紙を下ろした。

 俺が昨日まで言っていたことだった。


 月曜の放課後。

 昼休みに教室企画の申込みを済ませ、今はいつもの空き教室にいる。


 使えるのは三階の共用教室。六月十三日、十二時十分と十三時からの二回。

 一回十分以内、二十四席。先生に確認された時、久瀬は俺の方を見た。


 もう名前は書いてある。

 俺も頷き、二人で用紙を渡した。


 その帰りに、俺から役を替えて読もうと言った。

 考えた台詞なのに自分で詰まるのなら、反対から聞けば何か分かるかもしれない。そう思っただけだったのに。


「もう一回。今度、そこ飛ばすなよ」

「はい」


 久瀬が傘を引っ込める。

 俺は女の子の台詞を見る。高い声にはしない。さっき一度やって、彼女にやめてと言われた。


「ここ、名前を」

「書いた」

「……書いてない」

「あ、まだだった」


 久瀬が笑った。

 俺の男役も、こうだったのかもしれない。返事をもらう前に次へ行くから、残された方はまだ話している。


 今度は少し先から始める。


「すぐ答えなくて、いい」


 言って、待つ。

 借りた人の台詞なら知っている。なのに久瀬が顔を上げた時、いつ言われるのか分からなかった。


「明日、俺と食べたいの?」


 そんな台詞はない。


「え」

「お弁当。俺とがいい?」

「……うん」


 自分の紙へ戻ってしまった。

 どこにも続きはない。久瀬は紙を見ず、こっちを見ていた。


「今、見てほしかった」

「俺も、そう思った」


 紙のどこにも、今の返事はなかった。

 相手がまだこっちを見ているうちに、顔を戻したかった。


 久瀬は傘を膝へ置いた。


「私も、何拍とか決めてたからなあ」

「飛ばすよりいいと思ったんだろ」

「うん。でも今、朝倉がすぐ答えなくても、待てた」


 久瀬が、俺の持つ女役の原稿を覗き込む。

 余白の二拍をしばらく見てから、鉛筆で細い線を引いた。紙が破けるほど消したりはしなかった。


「もう一回、こっちでやる?」

「その前に、今の男、返す気ありすぎ」

「借りた物は返すよ」

「芝居なんだから、もう少し名残を」

「朝倉の女の子、受け取る気なさすぎ」


 俺は自分の読んだ箇所を見た。


「……それは、書いたの俺だから」

「今度はちゃんと困って」


「じゃ、もう返して」


 俺が女の台詞を勝手に変えると、久瀬はすぐに傘を差し出した。


「はい」

「帰るのは、まだ」


 差し出した手が止まった。

 久瀬が俺を見る。


「……何するの」

「喋る」

「傘、返しに来たんだけど」

「返していいって言っただろ」


 言ってから、笑いそうになった。

 こっちの子は、遠回しに頼むのが面倒になったらしい。


 久瀬は少し黙って、傘を膝へ下ろした。


「それ言えたら、受取証まで用意しないよ」

「だな。俺の女の子、話終わらせた」

「ちょっと好きだけど」


 原稿へ目を落としていた彼女が、小さく言った。


「帰るのはまだ、って、もう一回」

「聞こえなかった?」

「聞こえた。もう一回聞きたいの」


 俺は急に、紙を持つ手の置き場に困った。

 書いたのは今の俺だ。役の言葉なのも、分かっている。


「……帰るのは、まだ」


 久瀬が頷く。

 今度は返事をせず、こっちを見て少し笑った。


 俺は男の原稿を取り戻した。

 自分の役に戻る前から、声を出すのが難しくなっていた。


 元の役で読む。

 彼女が顔を上げるまで、紙から目を離したまま待ってみた。台詞は分かっている。待っても、なくなりはしない。


「すぐ答えなくて、いい」


 その声を聞いてから、男の返事を言う。

 久瀬の指が原稿の端を握った。


「……待つから」


 声は少し頼りなかった。

 けれど、前の言葉と切れていなかった。


 次を返す前に、俺の方が笑いそうになった。久瀬も口元を押さえ、紙へ半分顔を隠す。


「今は、止めなくてよかったのに」

「分かってる。もう一回、そこから」


 十回全部ができるようになったわけじゃない。

 それでも一回は、昨日までと違う返事をもらえた。


 帰る前に、土日に書き足した紙を渡した。

 傘を貸していた八日間、二人が何を話していたか。まだ短い場面が二つだけだ。


 久瀬は立ったまま読み、二枚目へ進もうとした。


「歩きながら見るなよ」

「まだ歩いてない」

「帰る準備をしろ」

「ここだけ」


 そう言ってから、彼女は紙を鞄へ入れた。

 俺が台詞を読む時より、少し長く待たされた。


「明日、千尋に写真頼んでる。告知の」

「俺も写るのか」

「出演者、二人しかいないよ」


 出した用紙のことを、今さら思い出す。

 書く以外の方も、本番まで俺だった。


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