第8話_俺の代わりなら言えるんだ
「……待つから」
久瀬が言って、紙へ目を落とした。
俺は次の台詞を読もうとして、止まる。
まだこちらの顔を見ていたのか、もう次を待っていたのか。
分からなくて、結局紙の方を先に見た。
「今の、遅かった?」
「いや。俺が早かったかも」
金曜の放課後、借りている空き教室で、同じ所を二回読んでいた。
最後まで書いた『傘の返し方』は、傘を返したあと、女の子が明日の昼食へ誘う話になった。
久瀬は結末を読んだ時、「返した」と小さく言った。
俺が思っていたよりずっと、傘の持ち主を気にしていたらしい。
けれど、読むと途中で止まる。
俺は鉛筆で、二人の原稿の同じ箇所へ丸をつけた。
「ここ、書き方が分かりにくいのかな」
「朝倉、すぐ直そうとするね」
「俺が直せるの、そこくらいだから」
その時、戸口から航が顔を出した。
「十分だけなら、来た」
「助かる」
「俺、四時半に記録班の説明あるから」
昨日の昼休み、映画の続きを見せてもらったついでに、少しだけ聞きに来てくれないかと頼んでいた。
航は机の上へ目を向ける。
「進んでんの?」
「ちょっと止まってる」
時計は四時二十分を指していた。
原稿へ目を戻す。丸をつけた男の一行を、言い換えてみたかった。
「書いてる間、一回だけ代わりに読んでくれない?」
「俺? 普通に読むぞ」
「俺も普通にしか読めない」
航が紙を持って、俺のいた位置へ立つ。
久瀬は少し椅子を引き直した。
「すぐ答えなくて、いい」
さっきまで詰まっていた所だった。
航は途中でこちらの顔を見たが、俺が頷くと次へ進んだ。
「ちょっと待って」
「……待つから」
久瀬の声が、その返事だけ、少し小さくなった。
けれど言葉は切れない。続きを読める間があった。
鉛筆が止まる。
「食べたい。一緒に」
「うん」
「まだ、帰らないの」
「あなたが、そこにいるから」
男の問いを受けて、女の方が言い直したくなるような声。
ああ、ここではこんな風に返るんだと思った。
俺が書いた順番で、ちゃんと会話になっていた。
「これでいい?」
航が俺を見る。
「うん。ありがとう」
久瀬も原稿から顔を上げた。
さっきまで俺へ聞いていた、遅かった、とは言わない。
十行ほど進んだところで、航のスマホが震えた。
「悪い、行くわ」
「助かった」
「これ、男が八日も傘返さなかったのが悪くない?」
「それは、そう」
久瀬がすぐに答えた。
航は満足したらしく、紙を俺へ渡して出ていった。
俺は自分の場所へ戻った。
丸をつけた所は、何も直していない。
「同じ所から、やる?」
「うん」
久瀬が紙の端を持ち直す。
さっきと同じ一行を言う。
「すぐ答えなくて、いい」
「ちょっと待って」
俺が顔を上げると、久瀬の唇が動いた。
一度閉じて、もう一度開く。
「……待つ、から」
声が、紙の裏へ落ちた。
俺も次の行を言いそびれた。
しばらくして、久瀬が顔を上げる。
「何」
「いや」
原稿に書いた丸を見る。
「今、安西相手だと言えたよな」
「言えた」
「俺だと、そこ、空く」
「うん」
否定されなかった。
久瀬も時計を見ていない。俺の方だけ見て、また下を向いた。
「目が合うと、次、どこ読むんだっけってなる」
「安西も見てたぞ」
「それは……見てたね」
そこで止まるから、こっちまで紙の置き場に困る。
俺だけなのか。
そう思うと、変に嬉しくなる自分がいて、急いで原稿へ目を戻した。
「読むの、安西の方が楽なら」
「朝倉がいい」
言い終わる前に返ってきた。
「今は、朝倉とやりたい。……だって、書いてる時にどう思ってたか、聞けるし」
最後だけ、言う速さが増えた。
俺はあまり納得していないのに、頷いてしまった。
書いている時にはなかった間が、紙の上に増えている。
そこを、消したくはなかった。
「明日、空いてる?」
久瀬が顔を上げた。
「傘、買いに行かない? 選考に使うやつ。紙留めるのも、ついでに」
「午後なら」
「じゃ、二時で」
久瀬はスマホへ時刻を入れた。
俺は鉛筆の丸へ、消しゴムを当てかけてやめた。
「朝倉。待合せ、どこ?」
「送る」
練習の予定を書いた手で、今度は休日の行き先を打った。




