第5話_作者欄に俺の名前
「七泊八日」
「旅行じゃない」
そこだけ、返事が妙に早かった。
久瀬は読み終えてから、紙の上で指を止めた。
「この子、相当待ってるね」
「傘をな」
「それは分かってる」
翌日の放課後。
昼に使用を頼んだ空き教室で、俺たちは新しい三ページを読んでいた。
『傘の返し方』。
家へ帰ってからつけた題名だ。美緒から直してと言われずにパソコンを開いたのは、久しぶりだった。
傘を八日借りたままの男と、毎日同じ軒先で待つ女。
返せば終わる話を、二人とも妙に長引かせる。
「傘の匂いまで確かめるの、やりすぎ?」
「ここ、私は好き」
「実際やられたら嫌だけど」
「私も嫌」
久瀬は何の迷いもなく頷いた。
自分で読みたがった女の子を、案外容赦なく扱う。
まだ下半分が空いている三枚目を、彼女がめくった。
「この後、どうするの?」
「考えてる」
「傘、返さなかったらいいんじゃない?」
「それだと、ずっと返せない人の話になる」
「困る?」
「困る。俺なら玄関でずっと怒られる」
昨日、家の傘立てを見ながら書いた。
母さんは俺が考え込んでいる横を通り、畳んでない傘を先に片づけろと言った。借りてもいない傘で、先に怒られた。
久瀬が、俺の紙の隣へ別のプリントを置く。
「これに出ない?」
文化祭の有志企画募集、とあった。
講堂の上演枠は三組。一組十分以内。来週金曜、五分以内の試演で選ぶらしい。
「久瀬、放送の仕事は」
「当日の担当は分かれてる。こっちは空いてる時間でできる」
「もう調べたのか」
「読みたい話が決まったら、聞こうと思ってた」
プリントの下には、共用教室の自由企画も載っていた。
二十四席まで、使用する時間帯を決めて申請。受付開始は二十五日。
久瀬は大きい方の枠を指した。
「一回、ここで読んでみたい」
「……俺たちで?」
「うん」
「昨日の見ただろ。俺、座り直しただけで噛んだぞ」
「私も止まった」
認めるのが早い。
そのせいで、やめておく理由が一個減った気がした。
「書くだけなら」
「男の人、まだ決まってないから、選考までは一緒にやってほしい」
久瀬が鞄から申込用紙を出す。
上手くいく保証はない。
そもそも台本だって途中だ。今日の三ページを書いただけで、人前に出していい気がするのは早すぎる。
「面白くなかったら、ちゃんと言って」
「今?」
「今も、これからも」
久瀬が稿へ目を戻した。
「受取証が出てくるまで、ちょっと長い」
「……そうか」
「そこからは好き。傘だけ返したくて来た人が、全然帰れないの」
直す場所が、頭の中で一つ決まった。
俺は受取証の出てくる所へ、小さく印をつけた。
「一週間、やってみる」
「うん」
久瀬が嬉しそうに用紙を寄せたので、俺も椅子を寄せる。
企画名。代表者。出演予定者。
書き進めたペンが、最後の欄で止まった。
「作者は?」
久瀬に聞かれた。
「俺だけど」
「ここ、空いてる」
「ああ、組の名前でもいいのかと」
昨日までの原稿にも、名前を書いていなかった。
瀬戸が企画をまとめ、美緒が読む。その中へ自分の書いたものが入ればよかった。出来が悪くても、俺の名前までは出ない。
久瀬は用紙を持っていかなかった。
「朝倉の名前で出して、いい?」
いい、と言うまで待っている。
俺は自分でペンを持ち直した。
朝倉律。普段の提出物より少しだけ大きく書いた。
「字、そこだけ大きい」
「言わなくていい」
「でも読める。こっちは」
久瀬が台本の細かい字を指した。
そこまで差はないだろ、と言いかけて、見比べたら結構あった。
放課後のうちに用紙を担当の先生へ出した。
上演用の稿は期日までに、と念を押される。まだ選ばれたわけではない。出るための候補になっただけだ。
帰りの階段で、久瀬が三枝に送る文を打っていた。
「一回、読んでもらっていい? 分からない所、教えてもらいたい」
「何人も集めなくていいぞ」
「千尋一人。文芸部の締切あるから、暇な時にって」
「じゃあ、頼む」
俺もスマホを出す。
瀬戸から、原稿の直しを明日持ってきて、という連絡が来ていた。
美緒から話を聞いていないのか、聞いても戻ると思っているのか。
今までなら、これから書けば間に合うかを先に考えた。
新しい稿の入った鞄を持ち直す。
『あの稿は使わないで。明日、担当の先生の所で話そう』
送信を終えたところで、久瀬に呼ばれた。
「明日の読み合わせ、昼と放課後どっち?」
「放課後。少し遅れるかも」
「じゃ、先に読んで待ってる。続き、書いてきて」
自分が読むのは、もう決定らしい。
俺は画面を閉じて、鞄の中の三ページを確かめた。
「分かった。書いてくる」




