第4話_そっちを見ると言えない
久瀬は空き教室の前で、鍵を持って待っていた。
「十七時まで。使ったら机戻すこと」
「委員会連絡みたいだ」
「今のは連絡だから」
戸を開けると、夕方の光が机の片側だけ照らしていた。
俺たちは二つだけ椅子を引き、向かい合って座った。
久瀬にコピーを渡す。
彼女はすぐ二ページ目を開き、一度だけ息を吸った。
「もう、間に合わない」
「そこ、男の台詞」
「あ」
始まる前に間違えた。
「今の無し」
「記念すべき一言目だったのに」
「無しです」
昼の放送なら、そのまま委員会が中止になりそうな言い方だった。
俺は笑いを飲み込んで、男の台詞を読んだ。
「もう、間に合わない」
「間に合わないの、電車だけ?」
真っ直ぐ、よく通る声だった。
言葉は全部聞こえる。けれど、返事というより、教室全体へ質問されている感じがした。
「どう?」
「聞こえた」
「それは聞こえるように読んだから。その先」
「……ちょっと、俺じゃなくて全員に聞いてるみたいだった」
「全員、いないのに?」
久瀬は空っぽの机を見た。
しばらく考え、椅子を少しだけ前へずらした。
「じゃあ、朝倉だけに言えばいいんだ」
膝の近くで紙が揺れた。
さっきより、距離が近い。
「もう一回」
俺が同じ台詞を言うと、久瀬は紙を下げた。
次の言葉より先に目が合う。
「間に合わないの……」
続きが来ない。
口が少し開いたまま、彼女は俺を見る。
俺は紙へ目を落として、行を確かめた。
「電車だけ」
「分かってる。今、言うところ」
「ごめん」
待つ。
久瀬が紙を上げた。
「ちょっと待って」
俺は机の端の時計を見た。
彼女もつられてそちらを見てから、こっちへ顔を戻す。
「もう一回だけ」
「うん」
三回目は、最後まで言えた。
けれど終わった瞬間に久瀬が息を吐いたので、俺もつられて肩の力が抜けた。
「放送と違う」
「だろうな」
「朝倉、さっきみたいに見なくていい」
「さっき、俺だけにって」
「言ったけど」
紙の角が、彼女の指の中で丸くなっていた。
笑いそうになって、少しだけ耐えた。
教室での笑い声が耳に残っている。
自分の返事を待たずに笑われたのが嫌だったくせに、俺まで途中で笑うのは違う気がした。
久瀬は俺の顔を見て、頬を膨らませた。
「今、笑いたいんでしょ」
「ちょっと」
「じゃあ男の方、やってみて。ちゃんと」
急に番が来た。
俺は背筋を伸ばした。
それだけでもう、自分の椅子じゃないみたいになる。
「もう、間に合わな――」
変な所で声が掠れた。
咳をした俺の前で、久瀬が下を向いた。
「……笑ったな」
「まだ」
「肩」
「ごめん。朝倉まで真面目に座り直すから」
今度は俺も笑った。
俺の顔を確かめてから、久瀬も声を出した。
読み合わせなのに、二人とも次の台詞へ進めない。
先に立て直したのは彼女だった。
「ねえ、これ、今も書きたい?」
台本を指す。
「……三回も直したけどな」
「それは聞いてない」
さっきまでの顔ではなかった。
最後の返事が空欄のままになっている。
そこへ今の自分で書き足すのは、まだ嫌だった。美緒に何を言わせたかったのか、見えるから。
「……今は、別の方がいい」
「じゃ、別のやろう」
「そんな簡単に」
「簡単じゃないから、朝倉に聞いてる」
久瀬が稿を閉じた。
断るつもりなら、そこで返せた。
俺は窓の外を見た。校門の近くを、黄色い傘を持った生徒が歩いている。晴れているのに、長い柄が鞄からはみ出していた。
「借りた傘、いつ返す?」
「次に会う日」
「雨が止んで、晴れてても?」
「返すよ。邪魔だし」
「もう少し悩んでくれよ」
久瀬が笑った。
「じゃあ、返したくない人もいる?」
「貸した方が、受け取らなかったら」
「何それ。困るじゃん」
「返そうとしてるのに、持って帰れって」
久瀬が両手を引っ込めた。
「持って帰って」
「返しに来たんだけど」
「今日、鞄、小さいから」
「傘は鞄に入れないだろ」
俺が言うと、彼女は少し考えた。
「じゃあ……まだ乾いてないから、もう一日」
「晴れてるぞ」
「そうだった」
自分で窓を見て、笑う。
さっきまで紙の行を探していた人が、今は続きを自分で言っていた。
「受け取りたくないんだろうな、その子」
「だったら、次、男の人、何て言う?」
久瀬が稿を裏返し、ペンを差し出した。
受け取ったのに、先を紙につけたまま止まった。
書けば、また誰かが読む。
昨日までの原稿が、すぐ隣に見えている。
久瀬は俺の手元を覗き、もう一度両手を後ろへ隠した。
「傘、返せないままじゃん」
受け取らない役は続けるつもりらしい。
「俺が書かないと、ずっと持たせておく?」
「今、そっちの人が持ってる」
「じゃあ、ちょっと待って」
さっきの声で文句を言う女の子へ、返事をさせてみたかった。
俺は紙を引き寄せた。
昨日までの稿が机の端へ寄った。
空いた所に、新しい一行を書く。
『遅い』
『五時の約束だろ』
久瀬が俺の字を覗き込んだ。
「すごい細かい」
「第一声、それ?」
「読めるから、続けて」
俺はペンを動かした。
十七時まで、あと十分あった。




