第3話_返したのにもう一度
「この前返した台本、もう一回貸してもらっていい?」
昼休み、パンの袋を開けたところで、久瀬が来た。
返却した本をすぐ借り直す人みたいな頼み方だった。
「捨てるの、止めに来た?」
「捨てた?」
「いや」
「よかった。一回、読むの聞いてほしくて」
どこで、と聞きかけて、パンを持つ手が止まる。
「俺が?」
「うん。朝倉が書いたんでしょ」
「そうだけど」
鞄からコピーを出す。
久瀬は紙を受け取らず、俺の机の上で二ページ目を開いた。
端の折り目。
そこへ指を置く。
「ここ。女の子が、電車に乗らない所」
「乗り遅れる所な」
「乗れるのに、乗らないんじゃないの?」
書いた時は、そんなつもりじゃなかった。
電車が行ってしまうから、男の方も話さざるを得ない。そういう場面にしたかっただけだ。
「そのつもりで書いたんじゃないけど」
「うん。でも、私は乗らない」
返事が早かった。
久瀬は、出発前の電車でも見送るみたいに、紙の先を見ている。
「作者、目の前にいるんだぞ」
「あ」
顔を上げてから、もう一度その行を指した。
「でも、乗りたくなさそうなんだもん」
「頑固だな」
「この子、好きだから。帰らせたくない」
そこだけは譲らないらしい。
俺が黙ると、彼女は少しだけ声を小さくした。
「書き直してって言ってるんじゃないよ。私が読んだら、そうしたいだけ」
紙へ目を落とす。
たった二行だ。昨夜は見返しても何も思わなかった所に、今は久瀬の指が置かれている。
「俺、芝居のことは分かんないぞ」
「私も、分かんない」
さらっと返ってきた。
「放送部だろ」
「放送部は、電車を見送る女の子にならないよ」
昼の校内連絡を読む声を思い出す。
確かに、落とし物のお知らせが急に失恋したら困る。
久瀬は俺が黙ったのを見て、紙から手を離した。
「嫌なら、いいんだけど」
「嫌とは言ってない」
「じゃあ、放課後」
「早いな」
「今、嫌じゃないって言った」
引き受ける前に日程が決まりかけている。
「一回だけな」
「うん。できなくても笑わないでね」
「それは、聞いてみないと」
久瀬の眉が上がった。
言い方を間違えたかと思ったが、彼女は口元を緩めた。
「じゃ、上手くやる」
そう言った人が、パンを落としかけた俺の机を見た。
「食べて。私、放送あるから」
慌ただしく去ったあと、三枝千尋が通り際にこちらを見た。久瀬とよく一緒にいる文芸部の女子だ。
何か言いかけたが、久瀬に呼ばれ、そのまま廊下へ出ていった。
五分後、教室のスピーカーが鳴った。
『今日の委員会連絡です』
声を聞くだけで、さっきの顔が分かった。
隣の机で喋っていた時より少し低く、一つずつ言葉が届く。ざわついていた教室でも、委員会の場所がすっと聞き取れた。
できなくても笑わないで。
あの声の人が言ったと思うと、少し想像しにくい。
パンを食べ終えた頃、机へ戻ってきた航が椅子を引いた。
「何見てんの」
「台本」
「知ってる。顔近いから」
「ああ」
思ったより紙へ寄っていた。
安西航は弁当箱を片づけながら、机の上の稿へ目をやった。
美緒とあったことを、今朝少しだけ話してある。
「続けんの?」
「これは、読んでもらうだけ」
「ふうん。今日、映画の続き見せようと思ってたけど」
「悪い。明日なら」
「じゃ明日。あの場面だけ切り出した。絶対見ろよ」
恋愛の事情を聞き出すより、好きな映画の話をしたいらしい。
その方がありがたかった。
午後の授業が終わると、久瀬から連絡先を聞かれた。
部活の顧問に空き教室の使用を確かめてもらったので、場所を送るという。
追加したばかりの画面へ、すぐにメッセージが来た。
『三階の端。紙、持ってきてね』
返したものをまた貸してもらうくせに、そこは人任せだった。
『自分の分は?』
打つと、少し間を置いて返ってきた。
『持ってない。この前返した』
俺は机のコピーを見た。
それから自分の原本を鞄へ入れた。
二人分、持っていく。
聞くだけと言ったはずなのに、向かう前から準備が増えていた。




