第29話_まだその声は内緒
「飲み物、何がいい?」
紗月の父親に聞かれ、俺は返事をした。
「何でも、大丈夫です」
「じゃあ、麦茶」
「はい」
何を聞けばいいか考えていたらしい最初の質問は、それだった。
横で紗月が、少しだけ肩を下げた。
火曜の午後五時。
学校から駅を経由して、紗月の家へ来た。
六時には帰ると家にも伝えてある。今日は部活も練習も入れていないと、彼女が先に教えてくれた。
「公演、見られなくて」
「はい。紗月から聞いてました」
「動画、少し見せてもらったよ」
父親が彼女を見る。
紗月は頷き、俺の前へグラスを置いた。
今日はテーブルの反対側に母親もいて、夕飯の支度前に少しだけ席についていた。
「昔から書いてたの?」
「短いのは、中学くらいからです」
「へえ。紗月、読む方ばかりだから」
彼女の指が、グラスから離れた。
「書くのも、授業ではやるよ」
「作文?」
「うん」
「そういえば、前は放送の原稿も、何回も読んでたな。家で」
父親がスマホを手に取った。
「最初の頃の、あれ、まだあるんじゃないか」
「あるけど、今はいい」
紗月の返事が、いつもより早かった。
父親は画面をつけただけで、再生はしなかった。
「同じ声なのに、ずいぶん違うと思って」
「違うの。だから」
彼女はスマホを自分で出した。
画面をしばらく送り、止まる。
「……全部は、聞かないでね」
こちらへ向けたのは、父親の画面ではなかった。
彼女自身が保存している録音だった。
「ここだけ?」
「うん。まだ一人で放送任される前に、練習で録ったやつ」
押された再生の印を見た。
今より少し高い、息を急いで整える音がする。
『なお、なお、本日の――』
止まった。
紗月が顔を覆うほどではなく、額へ指を一本当てた。
「二回言った」
「うん」
「それ、分かってるから」
俺が何も言わないと、彼女は少しだけこちらを見た。
「続き、聞く?」
「聞きたい」
母親が立った。
夕飯作るから、ごゆっくり、と言って、台所へ向かう。
父親はまだ座っていたが、自分のスマホはテーブルへ伏せた。
次の声は、さっきより遅かった。
途中で息が続かなくなり、一箇所だけ言い直す。最後に、小さい声で、もう一回、と入っていた。
録音が終わる。
紗月は停止した画面を、すぐには閉じなかった。
「間違うと、最初からやってた」
「今も、ちょっとやるよな」
「今は、前より減った」
そうだった。
紙が裏返って笑っても、あの時は続きを読めた。
「俺、最初に書いた話、そしてがすごい多かった」
「そして?」
「何かあるたび。そして、次の日。そして、家に帰る」
紗月が顔を上げた。
「言いそう」
「読んだことないだろ」
「うん。でも、分かる」
「全部消したら、今度は何もつながらなくなった」
彼女が笑った。
父親も少し笑い、今のは聞いていい話だったのかという顔をした。
「まだ、持ってる?」
「家のパソコンにはあると思う」
「見たい」
「それは、ちょっと待って」
言ったあと、自分でも笑ってしまった。
紗月が録音を止めたのと、同じ早さだった。
父親が立ち、空いた菓子の皿を持った。
「じゃ、二人で。帰りの時間だけ教えて」
「六時には出ます」
「はい。まだいるから、玄関で」
見張るように居残られることもなく、二人になった。
紗月はスマホへ戻り、さっきとは別の録音を開いた。
「もう少し、聞いていいよ」
「どれ?」
「最後まで言えた方」
今度は彼女の指が、途中で止めなかった。
声はまだ少し速い。それでも最後のお知らせまで届いた。
俺が画面を見る前に、紗月がこちらを見た。
「これ、できた時は、すごい嬉しかった」
「今、俺も最後まで聞けた」
「うん」
彼女はようやく、スマホを伏せた。
その手がテーブルの上を少し動き、俺の手の近くへ来る。
指に触れる。
父親が隣の部屋にいるので、俺の方が手を引っ込めそうになった。
紗月は離さず、小さく笑った。
「ここでは、ちゃんとしてるね」
「してるよ。今も」
「うん。知ってる」
五時五十分になって、彼女が講座の案内を出した。
七月二十日から二十四日まで、最後の発表は二十五日。母親とは費用を話してある。
「今夜、申し込む」
「うん」
「二十五日、来られる?」
「行きたい。何時か分かったら教えて」
彼女は案内の角を揃えた。
先ほどの録音の声と、申し込むと言う今の声が、少しだけ重なった。
玄関で父親へ挨拶をした。
またどうぞと言われ、今度は少し落ち着いて返せた。
夜、紗月から短い連絡が来た。
『申し込んだ』
『楽しみにしてる』
送ると、すぐに返ってきた。
『まだ上手くなる前だよ』
『分かってる。今日も聞いた』
少し間が空いた。
次の文は、最初に見せた録音には触れていなかった。
『律の最初の話も、今度ね』
俺はパソコンの古いフォルダを開いた。
思い出したよりずっと、そして、が多かった。




