第30話_私の台詞がない話
紗月が黙っている。
紙が一枚、めくられた。
まだ何も言わない。
金曜の放課後、図書室の窓際で、俺は自分の書いた話を読まれていた。
今日の夜八時が、千尋に送る締切だ。
印刷した二枚の一枚目には、『最終便の忘れ物』と書いてある。
朝倉律、の方も入れた。
昨夜、最後まで書けた。
家で読み返した時は、これで出せると思った。今は、一行目から直したい気がしている。
最後の列車が出たあとで、駅長は忘れ物をした。
そう始まる話だ。
『帰りの鞄じゃないですか』
『おお』
明日から無人になる駅で、退職する駅長と若い駅員が、最後の片づけをしている。
そのあと、最終列車に置き忘れられた紙袋が届く。
中にあるのは、二人の働いていた駅の模型だった。
紗月が、同じ所を少し戻って読んだ。
口元が動いた気がしたが、声にはならなかった。
「ここ、分かりにくかった?」
つい聞くと、彼女は顔を上げた。
「まだ読んでる」
「ごめん」
「あと、ちょっと」
紙へ戻る。
俺も窓の外を見ることにした。校庭の端で、誰かがボールを追いかけていた。
しばらくして、紙が机へ揃えられる。
「駅長さん、二人いるのが好き」
「人形?」
「うん。一人座らせる所」
模型には、立つ駅員と座る駅員が一体ずつ入っている。
けれど小さなベンチへ載せても、人形がすぐ倒れてしまう。
『酔ってるみたいだな』
『駅長、押さえてください』
若い方が紙を背中へ挟むと、ようやく座る。
駅長はそのあとで、本物のベンチに自分が座った時の景色を知らないと気づく。
「最後、本人もちょっと座るでしょ」
「うん」
「あそこまで、鞄何回も忘れるのに、模型はちゃんと持ってくのも」
紗月が紙の端を指した。
俺が昨日、何度か並べ直した行だった。
よかった、と言いかけた。
その前に、彼女が一枚目へ戻った。
「でも、これ、何で分かったの?」
「どこ?」
「模型作った人。駅長さん、手紙読んだら、あの子かって言うけど」
紙には、そう書いてある。
昔この駅から通学していた男が、作ったものを渡せず、袋を置き忘れてしまった。
「この子、毎年、定期券の申込書を間違えてて」
「うん」
「それで駅長が覚えてるから」
「……それ、どこにある?」
俺も同じ紙を覗いた。
なかった。
「あ」
紗月は、分からなかった所へ爪を立てたりしなかった。
指先を置いたまま、俺を見る。
「作った人、違う人でもいいのかと思って。ここ、あとで何か起きるのかなって読んでた」
「いや、その人で合ってる」
「そっか。じゃ、もう少し前に知りたい」
説明したら済むと思って、口を開いたままになっていた。
彼女は、その説明が載っていない話を読んだのだ。
俺は紙の余白へ書いた。
駅長が覚えている書き間違い。それと、作者の名が確認できる制作展の案内。
「ここ、帰って直す」
「うん」
紗月はもう一度、最後のページを見た。
駅長は鞄を肩へかけ、模型を両手で持つ。
若い駅員が、持ちましょうかと聞く。
駅長は鞄だけ頼む。模型は、離さない。
「これ、家でも読んでいい?」
「直したら、送る」
「うん。最後の所、もう一回読みたい」
彼女が紙を揃えた。
返してくれる手から受け取る。
「読んでくれて、ありがと」
「次のも、書いたら見せて。先に喋らないでね」
「分かった」
言われてから、少し笑ってしまった。
紗月も口元を緩めた。
家へ帰り、印をつけた所を直した。
手紙の書き間違いと、昔の申込書の話を並べる。作者の名前も、箱に挟まれた案内で確認できるようにした。
声を出さずに読み返す。
今度は、自分の頭にだけある話を探した。
七時になる前に送った。
少しして、千尋から受け取ったという返事が来る。
提出できた、と紗月へ連絡すると、電話がかかってきた。
「終わった?」
「うん。送った」
「じゃあ、ちょっといい?」
スマホを持ったまま、椅子へ座り直した。
「七月二十五日の午後、空けてほしい」
「発表の日だよな」
「うん。終わったあと。今度、私が行く所、考えていい?」
窓の外は、まだ明るかった。
彼女が自分で選んだ講座の、その先までの予定だった。
「いい。楽しみにしてる」
「まだ、何するか言ってないよ」
「紗月が考えるんだろ」
電話の向こうで、小さな音がした。
何かを置いたのかと思ったが、彼女は何も言わない。
「……うん。ちゃんと考える」
「もう、ちょっと考えてた?」
「ちょっと」
それ以上は聞かなかった。
先に何でも知っておく必要は、なかった。
「あと、明日、勉強しない?」
「図書館?」
「うん。試験、来週だし」
「行く。十時でいい?」
「いいよ」
通話を終え、問題集を棚から出した。
間に挟んだプリントが、床へ落ちる。
拾おうとした時、もう一度スマホが鳴った。
『席、隣ね』
明日やる範囲を聞かれるのかと思っていた。
俺は笑って、先に着いたら取っておく、と返した。
机には、台詞を読まない彼女の指の跡がついた原稿がある。
片づける前に、最後のページをもう一度開いた。




