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第27話_その予告は見なくていい

 暗い廊下が映った時点で、嫌な気がした。


 映画館のスクリーンの中で、女の人が扉へ近づいていく。

 行かなくていい。そこは誰もいないことにして、別の部屋へ行けばいい。


 隣で、紗月が飲み物を持ち替えた。


 画面の女が振り返る。

 誰もいない。

 そう思った直後、顔が出た。


 俺の右手が、紗月の腕をつかんでいた。


 音はもう終わっている。

 来月公開、という文字が、やけに明るく見えた。


「……ごめん」


 小さく言って、手を離す。

 紗月は自分の腕を見てから、俺を見た。


「そこ、怖いんだ」

「急に出るの、駄目」

「出そうだったよ」

「だから嫌なんだよ」


 彼女は少し考え、口元を押さえた。

 笑い声は出さなかったが、肩が動いた。


 日曜の午前。

 俺が見たかったのは、このあと始まる脱出アクションだ。

 怖い顔から逃げる話ではない。水の入ってくる建物から出る話だ。


 次の予告が始まる。

 今度は昼間の海だったので、ようやく背もたれへ体を戻した。


 肘の所へ、柔らかいものが触れた。

 紗月が自分の腕を寄せていた。


「次、来ても大丈夫」


 そちらを見たら、彼女はスクリーンを向いていた。

 手だけは、俺の方を探してくる。


 握る。

 今度は、映像に驚いたからではなかった。


 本編が始まると、さっきの顔のことは忘れていた。

 主人公たちは非常階段へ向かい、閉じた防火扉の前で引き返す。俺が見たかった場面は、予告より少し長かった。


 紗月は声を出さず、時々手へ力を入れた。

 どういう場面でそうなるのか気になったが、上映中に顔を見るのはやめた。


 明るくなった時には、飲み物の氷がほとんど溶けていた。


「面白かった?」

「うん。律、最後、前のめりだった」

「そっちも手、強かったぞ」

「あ、そうだった?」


 外へ出ると、日曜の昼の明るさが目に入った。

 まだ午前のつもりだったのに、腹はちゃんと減っていた。


 上の階の店へ入り、向かい合って座る。

 注文を済ませると、俺はさっそく好きだった所を話した。


「あの階段の扉、最初に一回、映ってたんだよ」

「うん」

「そこが開かないから、下の配管を使うって分かる。でも水の方が先に来てて、ロープが――」


 紗月が水を飲んだ。

 俺はそこで止まった。


「喋りすぎた」

「聞いてる。ロープ、何?」

「最初に結び方教えたおじさん、絶対ほどけないって言ってただろ」

「ああ。だから、最後は切ったの?」

「そう。別の道、選んだから」


 紗月が、あそこか、と頷いた。


「切った時、嫌そうな顔してたのは覚えてる。結び方の話、忘れてた」

「俺、顔は見てなかった」


 もう一度見るなら、そこも見たい。

 水を一口飲んでから、聞いた。


「紗月は、どこがよかった?」


 彼女は少し考えた。


「途中、鞄置く所」

「あの、おじさんの?」

「うん。全部持って逃げようとして、重くて進まなくなったでしょ」


 主人公が、一度だけ荷物を持って戻る場面だった。

 そのあと二人で中身を床へ出し、本当にいるものだけをポケットへ詰める。


「すぐ捨てろって言わないの、よかった」

「結局、置くけどな」

「うん。でも、置くまで一緒にいたから」


 彼女は、ストローの袋を小さく結んだ。

 俺が一番気にしていた仕掛けとは、別の所を覚えている。


「最後、何か持ってたじゃん。あの人」

「小さい缶」

「そう。あれだけ取ったのも好き」


 俺は鞄を床へ置き直した。

 帰ったら、あの場面をもう一度思い出す気がした。


 料理が来る。

 紗月が先に手を合わせ、俺も箸を取った。


「さっきの怖いやつ、見たい?」

「予告の?」

「うん。私はちょっと気になる」

「……本編、顔いっぱい出るだろ」

「たぶん」


 即答だった。

 俺が黙ると、彼女は笑った。


「千尋に聞いてみる」

「そうしてくれ」


 助かった、と思ったあとで、少しだけ面白くなかった。

 紗月がこちらを見た。


「律も、来たい?」

「それは、まだ考えてない」

「無理しなくていいよ」

「うん。でも、別の映画はまた来たい」


 口にしたら、少し落ち着いた。

 彼女も、次の一口へ進んだ。


「それは、来よう。今日のも好きだったし」


 帰り、ポスターの前で彼女が足を止めた。

 俺は怖い顔の方を見ないように、隣の作品を指した。


「今度、うちで何か見る?」

「律の家?」

「父さんが持ってるのもあるし、短いのでも」


 紗月が俺の方へ体を向けた。


「……行きたい」

「来週の土曜、聞いてみる」

「うん。私も聞く」


 彼女はスマホへ日付を入れた。

 さっき、怖い映画を誰と見るか話していた時より、打つのが遅い。


「お母さん、私のこと分かるよね」

「文化祭で会っただろ」

「だから。見られたあとで行くの、余計に」


 俺も昨日は同じような顔をしていたのだろうか。

 そう思って、少し笑った。


「笑ってる」

「昨日の俺も、そうだったなって」

「律は、ちゃんとしてたよ」


 言われると、笑えなくなった。

 家でもちゃんとしている必要があるのか考え、机の上を思い出す。


 紗月が手を出した。

 俺はその手を取った。


「私、客だからね」

「分かってる」

「お菓子、用意して」

「それが一番か」


 彼女は頷いた。

 それから、飲み物も、と付け足した。

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