第26話_片づけた所だけ見て
「そっちは、まだ」
部屋へ入って一歩目で、紗月に止められた。
土曜の午後一時。
俺は菓子の箱を持ったまま、扉の内側に立っている。
「座るの、こっち」
「分かった」
床のクッションを指され、そこへ行く。
机の上には本もプリントもなく、小さなテーブルの中央にコースターが二枚並んでいた。
さっき挨拶した母親の声が、階下から聞こえた。
紗月と似ていた。本人へ言うと、だから言ったでしょ、と返ってきた。
「律、お母さんと話す時、声違うね」
「そりゃ、違うだろ」
「はい、いただきます、って。すごいちゃんとしてた」
「初めて来た家だからな」
彼女も俺の隣へ座りかけ、向かいへ回った。
俺が顔を上げると、テーブルの角を少し動かす。
「そこ、狭い?」
「大丈夫」
「クッション、もう一枚いる?」
「これでいいよ」
紗月は頷き、飲み物を取りに立った。
俺も持ってきた箱をテーブルへ置く。
階段を下りる足音がして、母親の声がした。
「紗月、白いのも洗ってあるよ」
「分かってる」
「朝、出してたから」
返事が少し遅れた。
俺は部屋の入口を見ないように、渡された雑誌を開いた。
戻ってきた彼女が、俺の前へ白いカップを置く。
自分のは、取っ手に小さな絵のあるものだった。
「普段も、これ使う?」
「私? うん」
「じゃ、俺のは?」
「……家の」
それ以上聞くのをやめた。
コースターへ置いた指が、まだカップから離れなかったからだ。
「ありがとう」
「うん。冷たいよ」
一口飲む。
氷が上唇へ当たった。
紗月は俺の菓子を箱から出し、皿へ二つずつ載せた。
俺が雑誌の続きを開くと、端に貼られた付箋へ彼女の手が伸びた。
「それ、私が見たかったやつ。いっぱい貼ってあるから、邪魔なら取って」
「どれがおすすめ?」
抜きかけた一枚が、同じ所へ戻った。
彼女は隣の付箋も指した。そちらは、まだ見ていないらしい。
部屋も見ていいよと言う。でも、俺の視線が動く先を全部見ている。
棚には、見覚えのある怪物の表紙があった。
付き合った日に買った本だ。
「読み終わった?」
「うん。面白かった」
「怖かった?」
「最後の方、ちょっと。でも前半は好き」
指した棚へ近づこうとして、俺は横のクッションを持ち上げた。
ぱり、と音がした。
紗月がすぐに立つ。
クッションの下には、平たく潰れた菓子の袋があった。
「……それ、昨日の」
「うん」
「今、捨てようと思ってた」
「そうか」
彼女は袋を拾い、背中へ回しかけて、やめた。
ごみ箱へ入れる。
俺がクッションを戻すと、彼女はまだ立っていた。
「全部片づいてるみたいだった?」
「うん」
「そこだけ、見なかったことに」
「菓子、何食べてたの」
紗月がごみ箱の方を見た。
「塩の。薄いやつ」
「それ、食べたい」
「箱の、まだあるよ」
「そっちも食べる。普段のも食べてみたい」
彼女が少しだけ眉を寄せた。
それから棚の下を開け、同じ菓子の袋を出す。
「こっちが、いつもの」
「うん」
開いた袋をテーブルへ置き、俺の方へ押す。
一枚取って食べると、思ったより塩が濃かった。
「飲み物、先にあってよかった」
「そう。これ、すぐ喉渇く」
紗月も一枚食べた。
立ったままもう一枚取り、俺の隣へ座り直す。
向かいに置いたカップだけが残った。
「遠くない?」
「取って」
俺が持って渡すと、彼女は両手で受け取り、そのまま隣で飲んだ。
ようやく、自分の座る場所が決まったらしい。
雑誌を一緒に開いた。
彼女が自分の見た映画を指し、結末の話まで始めかけた。
「そこからは言わない」
「私、言ってないよ」
「今、言いそうだった」
「律もこの前、やったじゃん」
言い返せなかった。
紗月が笑い、肩が少し触れた。
帰る前、カップを台所へ持っていった。
母親は夕食の野菜を切っていた。
「もう帰る?」
「はい。お邪魔しました」
「またどうぞ。朝から片づけた甲斐があったね」
「お母さん、そこはいいから」
後ろから、紗月の声がした。
母親は笑って、分かった、と包丁へ目を戻した。
父親は今日は外出していると聞いていた。
今度は会える日に、と言われ、俺はもう一度頭を下げた。
駅まで送る、と彼女が靴を履いた。
家の中で見た足音が、今度は隣で続く。
「明日、映画行かない?」
「何見るの?」
「脱出するやつ。この前、話した」
「ああ。律が結末言いかけたのと別?」
「別。今やってる方」
彼女が頷く。
スマホで時間を確かめ、昼前の回にした。
住宅の角を曲がると、少し人通りが途切れた。
駅は、まだ先だった。
「紗月」
振り向いた彼女の手を、軽く引く。
近づくと、彼女は目を閉じる前に一度笑った。
短く、唇を重ねた。
離れたあと、彼女が俺のシャツの胸元を指で直した。
別に曲がっていたわけではなかったと思う。
「今日、もうちょっと早くてもよかった」
「何が」
「……今の」
俺が見ると、彼女は手をつないで歩き出した。
「部屋で?」
「そこまでは、言ってない」
でも、否定も最後までしなかった。
俺は明日の上映時刻を、もう一度確かめるふりをした。




