第24話_帰る前にもう少し
「結局、たこ焼き食べてない」
紗月が言った。
空になった模擬店の机が、廊下の端へ運ばれていく。
「さっき、何か食べたんじゃないの」
「焼きそば。たこ焼きは別」
「もう終わったぞ」
「分かってる」
悔しそうな顔を見て、少し笑った。
彼女は俺を見てから、自分でも笑った。
放送を終えた紗月と合流して、椅子も机も元へ戻した。
借りた備品を返し、航と三枝へ礼を言いに行った。文芸部の展示には、三枝の書いた紹介札もあった。
全部終わった頃には、窓からの光が低くなっていた。
学校を出る。
俺の鞄には原稿とクリップ、手には畳んだ黄色い傘。紗月は借りていた鍵を返したので、手が空いている。
校門を曲がると、その手が俺の方へ来た。
受け取って、いつもの駅とは違う道へ入る。
「寄り道、こっちでいい?」
「うん。今日は、私が道決めていい?」
「いいよ」
彼女について、住宅の少ない川沿いへ回った。
先週とは違う、学校に近い道だ。向こうの橋では自転車が続けて通り、下の遊歩道には散歩の人がまばらにいる。
「最初の方、母さん見えた?」
「見えた。律と似てるね」
「どこ」
「笑う前、口をこうする所」
真似されても自分では分からない。
やってみると、違う、と笑われた。
「紗月は、お母さんと似てるの?」
「言われる。声、電話だとたまに間違えられる」
「聞いてみたいな」
「私が二人いるわけじゃないよ」
「そこまでは思ってない」
でも、その声で家ではどう喋るのかは気になった。
舞台で聞けなかった顔が、まだいくらでもある。
歩きながら、今日見られなかった企画の話をした。
時間が合わなかった映画。売り切れた模擬店。紗月の放送の担当中、廊下のスピーカーの下で俺が立ち止まったこと。
「聞いてたんだ」
「うん。知ってる人の声だから」
「彼女の声でしょ」
さらっと言われ、返事が遅れた。
紗月はつないだ手を少し引き、俺の顔を確かめる。
「違う?」
「そう。彼女の声」
言い直すと、今度は彼女の方が前を向いた。
歩く速さが、ゆっくりになる。
橋の下を通り、川へ下りる階段の手前で止まった。
ここから駅へ向かえば、まだ明るいうちに電車へ乗れる。
「帰る?」
「……もう少し、いい?」
俺が聞くと、紗月は頷いた。
すぐに次の場所を探さず、その場へ残る。
「私も、まだ一緒にいたい」
川を見ていた顔が、こっちへ向いた。
俺は傘を持った方の手を下げ、彼女と向き合う。
何か言うべきかと思った。
さっきまではあんなに話していたのに、今は言葉を足すほど遠くなりそうだった。
「紗月、キスしたい」
つないでいた指が、少し強くなる。
彼女は俺を見た。
目を逸らさず、一度唇を結ぶ。
「……うん。私も」
俺は周りを見た。
橋を渡る人からは少し離れた、木の陰だった。紗月も同じ方を一度見て、それから俺へ戻る。
半歩、近づく。
彼女も、自分から同じだけ来た。
触れる前に、鼻がぶつかりそうになった。
俺が少し顔を傾けると、彼女の息が頬へかかった。
唇が触れた。
思っていたより短かった。
離れても、紗月はすぐには遠くへ戻らなかった。
俺の制服の袖を、空いた手がつまんでいる。
自分でつかんだことに気づいたみたいに指を緩めて、それでもそのままにした。
「……近いね」
「そりゃ、近づいたから」
「分かってる」
さっき、たこ焼きの話で聞いたのと同じ言い方だった。
俺が笑うと、彼女もようやく笑った。額が当たりそうになり、今度は二人とも少し離れる。
つないでいた手は離さなかった。
「律、今、何考えてる?」
「駅まで、もう少しかかる道ないかなって」
「……あるよ」
紗月が、川の先を指した。
大きく遠回りするわけではない。もう一つ向こうの横断歩道まで行ってから戻ればいい。
歩き出す前に、家へ遅くなると連絡を入れた。
紗月も同じように画面へ触り、終わると俺を待った。
「明日、会える?」
「会いたい。何する?」
「それは明日決める」
彼女が笑う。
今日の台詞も写真もない、明日の約束だった。
傘を持ち直す。
もう片方の手を握り直すと、紗月の指も返ってきた。
俺たちは夕方の道を、今度は少し近いまま歩いた。




