第23話_傘を返したその先で
母さんが、二列目に座っていた。
俺と目が合うと手を振りかけ、途中で膝へ戻す。
見なかったふりをした。
隣の紗月が少し笑って、原稿を一枚目へ戻す。
十二時十分。
二十四の椅子のうち、二十に人が座っていた。後ろには航のカメラがある。
三枝が入口の人数を数え終え、小さく頷いた。
来た。
本当に、ここまで来てくれた。
「『傘の返し方』、始めます」
紗月の案内の声が終わる。
役の女の子になる前の短い息を、俺は横で聞いた。
「遅い」
「五時の約束だろ。今、四時五十八分」
遅いのは時刻ではない。
傘を八日も返していなかった方だ。
七泊八日、という俺の言い訳へ、旅行じゃない、と返ってくる。
客席の前の方で笑いが起きた。
点検へ進む。
開いた傘の縁を紗月が見上げる。彼女の肩より向こうには、机を寄せた壁がある。書いた軒先はどこにもない。
借りた男は早く帰りたい。女の子には、返却とは別に聞きたいことがある。
「匂いは?」
「傘の返却って、こんなに厳しかった?」
笑い声が来た。
俺は勢いに乗り、次を少し早く返した。紗月の口が開くのを見て、そこで戻る。
受取証が出る。
客席に、予告放送のあと教室へ来た男子がいた。身体を少し前へ倒している。
「お名前」
「知ってるだろ」
「忘れた」
最後まで聞いた。
俺を見たままの紗月へ、次を返す。
「じゃあ誰を待ってたんだよ」
黄色い傘。
そう言う彼女は、傘の方を見なかった。
名前を書き、紙を渡す。
紗月はすぐに傘を受け取り、脇へ寄せた。
「これでいい?」
「うん。あと、お弁当のこと」
「傘の次は弁当?」
返した男が帰りかけた所で、話が戻る。
八日の間に喋ったこと。数学の間違い。それから犬の写真。
「写真、見せてくれた」
「いいの撮れたから」
「十七枚」
「数えた?」
「指、疲れた」
「一枚目でやめていいんだぞ」
後ろで笑いが続いていた。
俺は次の問いを言いかけ、途中で口を閉じた。紗月の返事の頭へ、少しかぶせてしまった。
「最後の、好きだったから」
そこにいたのか。
女の子は、ただ十七枚見せられていたのではなかった。
俺は彼女を見た。
次の短い問いだけ、今、もう一度考える。
「最後?」
「失敗してるやつ。鼻しか写ってない」
「……あれ、消すか迷ったんだよ」
「消さないでよ」
紗月が、紙から顔を上げた。
俺の次の台詞は短い。写真をしまうのをやめてから返す。
「うん。残す」
弁当のおかずを交換する約束から、女の子が昼食へ誘う。
俺は一度返事を詰まらせ、それから、一緒に食べたいと答えた。
傘はもう、彼女の手に戻っている。
最後に女の子が、あの写真の最後だけもう一度見たいと頼んだ。
二人で頭を下げた。
拍手が聞こえ、やっと肩が下がった。
客席の人が立つ。
母さんは、紗月へよかったねと言ってから、俺には、ちゃんと聞こえたよ、と言った。
「うん」
「帰り、遅くなるなら連絡ね」
「分かった」
家の話へ戻ったので、少し助かった。
航はカメラを外しながら、犬の鼻の所、とだけ笑った。
「俺、次行く。あとで送る」
「ありがとう」
三枝も文芸部へ戻る。
俺と紗月で椅子を確かめていると、さっきの男子が戸口へ戻ってきた。
「もう一回、友達連れて見てもいい?」
「うん。十三時。席があれば」
「呼んでくる」
俺は入口の案内を掛け直した。
紗月が横へ来る。先に俺の顔を見てから、稿を開いた。
「写真の所、ちょっと声かぶった」
「うん。笑ってる間に、俺が先へ行った」
「次、少し待つ?」
「待つ。紗月の返事、ちゃんと聞きたい」
彼女が頷いた。
全部最初から直さなくていい。一箇所だけ、次へ持っていく。
十三時。
男子は友達一人と来た。廊下の案内を見て入る人もいて、最後の椅子まで埋まった。
俺たちで二十四人を確かめ、満席の札を出す。
講堂の客より、ずっと近い。
一番後ろの人の顔も見えた。
二回目の受取証。
紗月は名前を忘れたと言いながら、俺から目を逸らさない。
分かっているのに、また少し腹が立つ。言わせようとしているのが分かるからだ。
犬の写真で、また笑いが起きた。
俺はその笑いが薄くなるのを待った。
紗月が、最後のが好きだったと言う。
今度は語尾まで聞こえた。
その顔を見ると、次の一言も変わった。
どれだろう、と思って彼女へ問い返す。客席へ答えを配るより先に、彼女の返事が欲しかった。
傘は、さっき紗月が壁際へ寄せたままだ。
二回目も、名前を書いた紙と一緒に、返却はもう済んでいる。
残った話は、明日の弁当だった。
「卵焼き、多めに入れてもらう」
「俺の煮物と交換?」
「うん」
「一個でいい?」
「大きさによる」
そこは譲らないらしい。
笑いが引くのを待つ。紗月の指が、空になった手の中で一度曲がった。
「でも、おかずだけ、渡しに来なくていいから」
俺は顔を上げた。
女の子が、何でもないことみたいに続けようとしている。
「明日、お弁当、一緒に食べない?」
いつも、返したら帰るつもりの声で読んでいた。
この問いのあとだけは、まだここにいたい。
「すぐ答えなくて、いい」
「ちょっと待って」
紗月は口を閉じた。
次の行を見に行かず、俺を見ている。
「……待つから」
講堂では、その返事が来る前に、俺だけ先へ進んだ。
今は聞こえた。小さくなった最後まで。
「食べたい。一緒に」
「……うん」
「卵焼き、ない日も」
「毎日は入らないよ」
「俺も、毎日煮物じゃない」
「知ってる。水曜、パンだった」
「よく覚えてるな」
紗月が笑った。
俺も少し笑いながら、次を聞いた。
「どこで食べる?」
「教室。窓のとこ」
「昼になったら、そっち行く」
「……うん。待ってる」
犬の写真を開くつもりで、俺は手元へ目を落とす。
「明日、もう一回見せて。最後のだけ」
最後の声を、途中で次へ送らなかった。
拍手が起きた。
紗月は客席を見る前に、一度だけ俺を見た。
目が細くなる。俺も頷き、二人で前を向いて頭を下げた。
顔を上げても、拍手はまだ続いていた。
紗月は原稿を閉じかけ、また客席へ目を戻す。俺も、まだ並んで立っていた。
先生に呼ばれた三組が舞台へ集まった時、俺たちは出ていく方だった。
今日は、この人たちを見送る方に立っている。
客が椅子を離れて初めて、彼女が息を吐いた。
譜面台へ置いた紙から、指がなかなか離れない。
「……終わったね」
「うん」
「途中で、終わらないでほしいって思った」
紗月は空いた客席を見ていた。
俺は最後のページを開いたまま、頷いた。
入口で、またあの男子が声をかけてきた。
「卵焼きない日も、って所、よかった」
「ありがとう」
「男の方、最初は交換の話だと思ってたよね」
俺は一度口を開いた。
あそこは、と書いた時の話をしそうになった。
男子はもう、連れてきた友達と最後の写真の話をしていた。
俺の説明を待っているわけじゃない。
「……見てくれて、ありがとう」
そう言うと、二人とも頷いた。
廊下へ出ても、まだ劇の話が聞こえていた。
俺が返事を書かなくても、あの二人は先を話している。
開いたままの台本を見て、初めて閉じるのが惜しくなった。
「紗月」
「うん」
「聞こえてる?」
「……聞こえてる」
彼女も廊下を見ていた。
やがて俺の方を向き、笑おうとして、一度口を結んだ。
「私、ここでやれてよかった」
紙を抱え直す。
その一言を聞いてから、俺もようやく笑えた。
客が出た教室には、二十四の椅子が残る。
彼女が時計を見た。十三時四十分の放送までは、まだ少しある。
「行ってきて。入口、俺が閉める」
「うん。戻ったら、一緒に片づけよう」
紗月は傘を俺へ渡した。
手を離す前に、ほんの少しだけ柄を二人で持つ。
彼女が放送室へ向かったあと、俺はカレンダーを開いた。
六月十三日、久瀬と朗読。
消さなかった予定の上へ、親指を一度置いた。




