第18話_一つずつ同じもの
「ある」
硝子の前で、久瀬が言った。
まだ店の人しかいない店内に、レモンケーキが並んでいる。
「あるな」
「二つ、お願いします」
俺が続く前に注文が終わった。
土曜の十時。彼女が約束の時計の下へ来たのは、俺より三分早かった。
青い服だった。
見たいと言ったものを着てきてくれたのに、また少し緊張する。
「今日、朝倉も青なんだ」
「これ、紺」
「一緒じゃん」
「まあ、近いけど」
昨日の夜まで悩んだことは言わない。
久瀬は俺の袖と自分の袖を見て、店の袋を一つずつ持った。
川沿いのベンチへ座る。
持ってきた飲み物を置き、紙袋を開いた。
「これだよ」
「うん。いただきます」
上の白い所が、かじると小さく割れた。
久瀬が言っていたとおり、中は柔らかい。酸っぱさが来て、それから甘くなる。
「……あ、うまい」
「え、もう食べた?」
「食べるだろ」
彼女は自分の包装を開けるのに手間取っていた。
俺を見てから、菓子を見下ろす。
「最初、見たかったのに」
「もう一回食べる?」
「違う。初めて食べた時の」
演技ならできるかもしれないが、やらない方がよさそうだった。
「好きだよ、これ。思ったより酸っぱい」
「そこがいいの」
「うん。分かった」
残りを食べる。
今度はちゃんと見られていて、少し食べにくい。
久瀬もひとかじりし、目を細めた。
それを見ていたら、二つ買えたのが急に嬉しくなった。
袋を畳んだあと、商業ビルへ向かった。
エアホッケーの台を見つけると、久瀬はすぐ反対側へ回った。
「手加減、いる?」
「言う側なんだ」
「うん」
その言い方のわりに、最初の一点は自分で自分のゴールへ入れた。
俺が笑うと、彼女は空いた方の手で口元を隠した。
「今のは、練習」
「お金、入ってるぞ」
「知ってる」
次の打ち返しは、本気だった。
俺の手元を抜け、台の中で音が鳴る。
一回目は、最後の一点を俺が取った。
久瀬は得点表示を見てから、俺を見た。
「今の、どこ通った?」
「右。そっち、ちょっと空いてた」
「……ああ」
頷きながら、もう小銭を出している。
「さっきの一回に入らない?」
「入る」
「うん。じゃあ、もう一回」
二回目は、彼女の右が空かなかった。
同じ所を狙いすぎて俺の方が抜かれ、今度は久瀬の得点が先に揃った。
彼女は声を出しかけ、持ち手の上へ顔を伏せた。
肩が揺れている。
「喜んでいいぞ」
「喜んでる」
そのまま答えた。
顔を上げたら、放送で一度も聞いたことのない声で笑った。
「もう油断しない」
「今も、俺、普通に取りたかったんだけどな」
「うん。取ったの、私」
そこだけは譲らなかった。
勝つとこういう顔なのか。次に同じ台を見たら、絶対に思い出す。
「三回目は」
「昼飯食べられなくなるから、次」
俺が言うと、久瀬は一度だけ台を見て、持ち手を戻した。
その後、軽く昼を食べ、川の方へ戻った。
劇の話はまだ一度もしていない。代わりに俺が好きな映画の話をし、久瀬が見ていない結末を危うく言いかけた。
「そこから言ったら、見る意味ないじゃん」
「悪い。今のは忘れて」
「忘れる所が分かっちゃった」
笑いながら、歩く。
何も書き留めずに過ぎる時間が、惜しくなかった。
橋の手前で、彼女が川面へ顔を向けた。
「私、今日、すごい楽しみにしてた」
胸の奥が、急に落ち着かなくなる。
「朝倉は?」
「俺も」
短すぎた。
久瀬がこちらを見たので、足を止めた。
「……俺、美緒が好きだったんだ」
「うん」
驚いた声ではなかった。
けれど、彼女の手が鞄の紐へ戻るのを見て、続けた。
「嘘告の時、練習かって聞いた。違うって言われて、俺も好きだって返した。それも、笑われた」
川の音がする。
久瀬はすぐには何も言わなかった。
「ずっと、俺が何かすれば喜んでくれるのが嬉しかった。だから、またそう思うの、怖い所もあって」
用意していた話ではなかった。
彼女が返事を探す前に、そこだけで終わらせないよう口を開いた。
「でも今は、久瀬が笑う所、見たい。次の返事も、聞きたい。ケーキ食べてるのも、さっき負けて悔しがってたのも」
「……一回、勝ったよ」
「そうだったな」
久瀬が少し息を吐いた。
「私も、朝倉に楽しんでほしくて、色々考えてた」
「うん」
「でもさっき、普通に、負けたくなかった」
久瀬が自分で笑う。
俺も、勝った時の顔を思い出した。
「ケーキ買えてよかった。でも朝倉がそこで帰ってたら、一人でゲームまで行ってないよ」
「そうか」
「あと、この前。買えなかった日も、楽しかったし」
彼女が袋を小さく畳む。
もう何も入っていないのに、角を揃えて、また一回折った。
「今日だけ、うまくやれたってことじゃないから」
俺は頷いた。
彼女の手の中の袋を見てから、顔を見た。
「次は、ゲームの方は勝つ」
「それは私も勝つつもりで来るよ」
今度の返事は、早かった。
駅へ向かう途中、彼女は七月の朗読講座の話をした。
母親に費用を相談して、行くなら出せる範囲だと言われたらしい。まだ申込みは先だという。
「朝倉が書いたの以外も、読んでみたい」
「うん。聞いてみたい」
「上手くなってからね」
「今でもいいけど」
久瀬が笑って、今は駄目、と返した。
そう言われた顔まで覚えておきたかった。
帰宅して鞄を開くと、持っていかなかった台本が机にある。
すぐには開かなかった。
久瀬から届いた、今日楽しかった、という文へ返事をする。
俺も、と打ってから、次は三回目もやろう、と足した。
この人が好きだ。
送った画面を見ながら、もう別の言い方を探さなかった。




