6:完成術式だ、中身を見るものじゃない
フィーネさんは、本当に毎日来た。
巡回の帰りに寄って、干し肉やら硬いチーズやらを置いていく。
毛布も彼女が置いていったものだった。何も言っていないのに、二日目に背負ってきた。
置いていくだけならまだいいのだが、そのついでに上着を脱いで、水を飲んで、そのまま忘れて帰る。俺が寝起きしている部屋の、扉に近い側の隅には、彼女の上着と、空になった水筒と、なぜか鞘の手入れ用の油が溜まり始めていた。
通行の許可の方は、初日に出したものが二十四時間で切れた。二日目も三日目も門の前で出し直していたら、四日目に「毎朝これやるの?」と呆れられた。
それで、期限だけひと月へ延ばした。範囲は変えていない。南門から第一居住区まで。設備の操作はできず、管理区画には入れない。
期限を延ばすのと、通れる場所を増やすのは、別の話だ。
六日目の昼、フィーネさんの私物をどうするかで、ニコに詰められていた。
「一時通行の許可で入った方の物が、居住区画に残っています」
「はい」
「規定違反です」
「……はい」
「撤去しますか」
答えられなかった。
人の物だ。しかも、女性の物だ。積み直すだけでも、どこかで線を越える気がする。
ニコが、唐突に顔を上げた。
「入口結界が、通行の要求を拒絶しました」
「人ですか」
「人です。女性。工具を携行しています」
「工具」
「はい。要求は継続中です。これで二十三件目になります」
「二十三件目」
「一件目で報告すべきでしたか」
「そうしてください。……その人、いま何をしてるんですか」
「結界を叩いています」
叩いている。
結界を。
* * *
門まで行くと、本当に叩いていた。
結界の向こう側に、女の人がひとり立っている。俺と同じくらいの歳に見えた。赤茶色の癖っ毛が短く跳ねていて、額に押し上げたゴーグルがずり落ちかけている。革のエプロンに、金具の詰まったベルト。指と前腕に、古い火傷の痕がいくつも走っていた。
その手が、細い金属の棒で結界の表面を叩いている。こつ、こつ、と間隔を測るように。
「おい」
こちらに気づくなり、彼女は棒の先を俺へ向けた。
「これ、どうなってんだ」
「……こんにちは」
「音が返ってこない。硬いものを叩いた音でも、柔らかいものを叩いた音でもない。何を叩いてるんだ、あたしは」
挨拶は返ってこなかった。
街道の方から足音が近づいてきて、フィーネさんが走り込んできた。息が上がっている。
「リタ! 待ってって言ったでしょ!」
「待ってたら日が暮れる」
「一人で来ちゃだめだって言ったの!」
二人は顔見知りらしい。というより、この距離の詰め方は、たぶん昔からの知り合いだ。
その人はフィーネさんを一瞥してから、俺へ視線を戻した。
「あんたか。フィーネの剣を直したの」
「はい」
「リタだ。街の工房の」
「相楽修です」
「シュウな。で、どこを直した」
名乗りから本題まで、間が無かった。
「柄の中の、術式です」
「柄の中身ならあたしが組んだ。魔力を刃へ通すやつと、強さを決めるやつ。二つ入ってる」
「はい。その二つです」
「あれは触れない」
「え?」
「完成術式だ。中身を見るものじゃない」
「その中を見ました」
「……中?」
名乗りのあいだも俺へ向いたままだった棒の先が、そこでようやく下りた。
リタさんの目つきが変わった。鋼みたいな色の目が、俺の顔から手元へ、それから足元へ動いて、また顔へ戻ってくる。値踏みされているのではない。測られている、という感じだった。
「あたしは十三から工房にいる」
「はい」
「あの剣も、うちで打った。柄の中身も、あたしが組んだ」
「はい」
「そのあたしが見て、直せないと言った。故障じゃないからだ。壊れてないものは<修復>じゃどうにもならない」
「そうだと思います」
「……だったらお前は、何を直した」
良い質問だった。
こういう訊き方をする人は、現代でもそう多くない。壊れていないものを直したと言われたときに、嘘だと決めつけるのでも、すごいと持ち上げるのでもなく、では何をしたのかと訊く。
「壊れているものは、何もありませんでした」
「だろうな」
「あの二つは、それぞれの中で、魔力の経路を掴む順番が決まっていなかったんです」
「……順番」
「普段は起きません。フィーネさんが自分に強化をかけた瞬間だけ、二つが同時に掴みにいく。片方が離すのを待っていない。だから一瞬だけ抜ける」
「それを、どうした」
「片方が掴んでいるあいだ、もう片方が待つように書き換えました」
「書き換え……いや、待て」
リタさんが片手を上げて、俺の言葉を止めた。それから、自分のこめかみを二本の指で押さえる。
「順番、って言ったな。さっき」
「はい」
「あれの中に、順番なんてものがあるのか」
あります、と答えかけて、ためらった。
この人にとっては、無いのだ。柄の中の二つは、それぞれが完成した術式で、その内側は開けるものではない。開けるものではないから、開けた人間がいない。開けた人間がいないから、中に何があるかを語る言葉が、この世界には無い。
俺が見ているのは、たぶん、この人が「底」だと思っている場所の、さらに下だ。
「……あります」
結局、それしか答えられなかった。
リタさんは長いこと黙っていた。ゴーグルを額から鼻の上まで下ろして、また額へ押し上げる。
「見せろ」
「何を?」
「お前が見ているものをだ」
そこで、初めて困った。
「見せられません」
「は?」
「これは私にしか見えていないので」
我ながら、ずるい言い方に聞こえた。もったいぶって隠しているように取られても文句は言えない。
だが、リタさんの反応は違った。
「じゃあ喋れ」
「え」
「見えてるんだろ。だったら口で言えるはずだ。あたしが分かるまで、何度でも言え」
フィーネさんが横で吹き出した。
「リタ、それ、初対面の人に言うこと?」
「初対面だから言ってる。二度目からは言わない」
意味が分からなかったが、たぶん本人の中では筋が通っているのだろう。
フィーネさんが俺の袖を引いて、リタさんから少し離れたところまで連れていった。
「あの子、ああなると止まらないから。困ったら追い返していいからね」
「……大丈夫です。たぶん、こちらも似たようなものなので」
「うん。それは、なんとなく分かってた」
彼女は笑って、それから鎧の留め具を直した。
「わたし、まだ巡回の途中だから戻るね」
「はい。ありがとうございます」
「リタ、無茶させちゃだめだよ!」
「聞こえてる」
フィーネさんは街道の方へ駆けていった。
あの人は、いつもこうやって、自分の持ち場のあいだに人の心配を挟んでくる。
* * *
中へ入れるまでに、もうひと悶着あった。
「南門から第一居住区まで。設備の操作はできません。管理区画には入れません。有効期限は二十四時間です」
「工具は」
「持ち込みは構いません。ただ、こちらの設備には触らないでください」
「触るなと言われて触らずにいられる人間が、この仕事をやってると思うか」
「思いません」
「正直だな」
「……なので、触りたくなったら先に言ってください。一緒に見ます」
リタさんは少しのあいだ考えて、それから鼻を鳴らした。
「いいだろう」
膜が薄くなる。彼女は迷いなく足を踏み入れて、草地を横切った。石畳に乗ったところで足が止まった。足元をじっと見る。それから壁を見て、地面に伸びる管を見た。
「……五百年、ここが」
「はい」
「触っていいものと、悪いものを、全部教えろ」
「順番に言います」
その日、リタさんが帰ったのは日が落ちてからだった。
帰り際、彼女は門のところで振り返って、明日は何時から始めるのかと訊いた。
俺は少し考えて、日の出でいいですかと答えた。
「早いな」
「早い方が長く見られるので」
「……気が合うじゃないか」
悪くない気分だった。
ここへ住み着いて六日で、初めて、技術の話が通じる相手ができた。




