5:穴が空いてます
朝、硬い黒パンを齧りながら、今日直すものの順番を考えていた。
部屋の隅にはトモが座っていて、金色の目でこちらを見ている。食べているところを毎朝じっと見られるのは、そろそろ慣れてきた。何かをねだっているわけではないらしい。ゴーレムは物を食べない。ただ、見ている。
ここへ住み始めて、四日が経っていた。
布の袋は、日に日に軽くなっている。金の方は、もう残っていない。あと何日かすれば、この問題は考えないわけにいかなくなる。
考えないわけにいかなくなってから考えよう。そう決めて、俺は今日の順番の話に戻った。
毎日が、正直に言って、楽しかった。
視界に湧いてくる異常のうち、どれから手をつけてもいい。誰の許可も要らない。壊れているところを見つけて、原因を調べて、直す。それだけを、朝から晩までやっていていい。
元の世界では、こんなことは一度もなかった。触れるものには決まった手順があり、決まった時間があり、決まった承認があった。当たり前だ。他人のシステムなのだから。
(……いや、待て。ここも俺のものではないぞ)
仮の管理者だ。持ち主ではない。
そう思い直しても、手は止まらなかった。
その日は、暖房の系統に手をつけて、そして負けた。
この街の暖房は、区画ごとにまとめて面倒をみる作りだった。一部屋だけを暖める仕組みが存在しない。全部動かすか、全部止めるかの二択で、全部動かそうとすると俺の手には余った。
供給系統:容量不足
原因:依存関係不整合
触れた瞬間に、その先の広がりが分かった。ニコを起動させたときと同じ感触だ。今日ここで踏み込めば、また床に座り込むことになる。
「……今日はやめておきます」
「賢明な判断です、仮管理者」
「言い方に含みがありませんか」
「ありません」
結局、寝室の壁の中を通っている管に、一本だけ細工をした。
暖かい空気の通り道を、その部屋の分だけ開ける。系統の本体は動いていないので、これはただの応急処置だ。冬になったら間に合わない。だが今夜は、寝床のあたりだけ、少しましになる。
* * *
その夜、トモが部屋へ駆け込んできた。
「危険」
寝入りばなだった。上体を起こすと、遅れてニコが戸口に立った。
「外周防衛結界、第三系統に異常。接触を検知しています」
「接触」
「魔物です。十六。数は増えています」
毛布をはねのけて立ち上がった。
「第三系統は直したはずですけど」
「第三系統は正常です」
「正常」
「はい」
正常だが、異常が出ている。
こういう挙動には覚えがある。システムでは意外とよくあることだった。
管理棟まで走った。中枢の壁へ手をつく。
外周防衛結界:正常
第3系統:正常
第4系統:正常
全部、正常だった。
結界は動いている。五百年、一度も止まらずに動き続けて、今夜も同じように動いている。
それなのに、魔物は帰らない。
「ニコ、接触している場所を」
「弐号です。北の外壁沿い。第三系統と第四系統の境目です」
境目。
その一語で、腹の底が冷えた。
第三系統は二日前に直した。第四系統は明日直すつもりだった。結界は大きすぎて、まとめて直そうとすると倒れてしまう。だから一つずつ、順番に直していた。
もう少しだけ、意識を境目へ向ける。
境界重複:なし
(あー……)
見えてしまえば、単純な話だった。
この街の結界は、受け持ちを系統ごとに分けている。そして隣り合う系統は、境目のところで少しだけ重なるようにできていた。互いに相手の端を、ほんの少しずつ覆い合う。継ぎ目に隙間を作らないための、当たり前の作りだ。
重なる幅は、決め打ちではない。隣へ「そちらはどこから受け持ちますか」と尋ねて、返ってきた答えの少し先まで伸ばす。そういう決め方をしていた。
二日前、俺が第三系統で直したのは、その問い合わせの部分だった。長いあいだ壊れていて、隣に尋ねることができなくなっていた。尋ねられないので、第三系統はずっと決め打ちの幅で重ねていた。
直った。ちゃんと隣へ尋ねるようになった。
そして第四系統は、まだ直していない。壊れているのは同じ箇所だ。尋ねられても、答えられない。
第三系統は尋ねる。返事はない。返事が来ないので伸びる幅が決まらず、自分の受け持ちのぶんだけで止まる。
どちらも結界自体は正常。どちらも自分の仕事をやっている。ただ、片方だけを直したせいで、話が噛み合わなくなった。
結果として境目に、指を差し込めるほどの隙間が空いている。
「ニコ」
「弐号です」
「穴が空いてます」
ニコが数秒黙った。
「外周防衛結界は正常です」
「結界は正常です。境目が空いてます」
「はい、二日前から、境界の重複がなくなっています」
知ってたのか。
がっくりしたが、止まっている場合ではなかった。
やることは決まっていた。
第三系統に、隣へ尋ねるのをやめさせる。返ってきた答えを使わず、決め打ちの幅で重ねさせる。二日前まで、この結界がずっとやっていたとおりに。
手を入れたあとに何かが起きたなら、まず入れた手を戻す。順番として、それが一番早いし、一番確実だ。
(ロールバック、手順書いっぱい書いたな)
もちろん、これで直ったことにはならない。第四系統の側も直して、両方がちゃんと答えられるようにするまでが本来の仕事だ。今夜やるのは、そこまでのつなぎでしかない。
境界重複:あり
「接触、継続しています」
ニコの声が、少し早くなった気がした。たぶん気のせいだ。
「北側、十九。……接触が止まりました」
「入られてはいませんか」
「侵入の記録はありません」
息を吐いた。
膝から力が抜けて、その場に座り込む。トモが足元に来て、俺の脛に頭をぶつけた。
「ニコ」
「弐号です」
「二日前に分かっていたなら、そのときに言ってほしかったです」
「照会がありませんでした。動作も正常でした」
それはそうだ。俺は正しく直した。
ただその結果、二日前から今夜まで、この遺跡の北側には隙間が空いていた。
* * *
翌朝、門のところに人が立っていた。
「シュウさん!」
三つ編みが揺れた。フィーネさんだった。守備隊の軽装鎧のままで、たぶん巡回の途中だ。
「本当にいた。隊で『異世界人が遺跡に入った』って騒いでて、まさかと思って」
なんと答えていいか分からず、曖昧に笑った。
「それでね、夜番の報告にも上がってたの。この辺りに魔物が集まってたって」
彼女は外壁を見上げてから、こちらへ視線を戻した。
「誰も住んでない廃墟だもの、普段なら隊は出さない。出さないんだけど……昨日から中に一人いるって聞いたら、話が変わるでしょ」
「……それで、来たんですか」
「うん。魔物、大丈夫だった?」
「来ましたよ」
「……え?」
「十九匹まで数えて、そのあと帰りました」
フィーネさんは口を半分開けたまま、しばらく固まっていた。
「十九って、多いよ」
「そうなんですか」
「多い。街の壁の外でそれだけ固まったら、その日は誰も外に出さない」
数の意味は、俺には分からない。彼女が言うなら、そうなのだろう。
「それが一晩、壁に張りついてたんだよね。中にシュウさん一人で」
「一人ではないんですが」
「え?」
「……あとで紹介します」
「なにそれ、気になる。ねえ、中、見せてもらってもいい?」
少し考えた。
断る理由はない。彼女は俺を助けてくれた人で、この四日で唯一の来客だ。
ただ、考えなしに通していい場所でもなかった。ここには俺しか使い方を知らない設備がいくらでもあって、そのどれかに彼女がうっかり触れたら、困るのは彼女の方だ。
「一時的な通行の許可を出します。少し待ってください」
「うん?」
門の内側へ入って、壁の、腰の高さの平たい面に手を当てた。通れる範囲と、触れない設備と、期限を、一つずつ決めていく。
外へ戻って、彼女に伝える。
「南門から第一居住区までは通れます。設備の操作はできません。管理区画には入れません。有効期限は二十四時間です」
「……ずいぶん細かいんだね」
「必要な分だけ渡すのが一番安全なので」
「わたし、そんなに信用ない?」
「信用の話ではありません。フィーネさんが間違えたときに、フィーネさんのせいにならないようにしています」
彼女は目を丸くして、それから、ふっと笑った。
「やっぱり変な人だね」
「……これが仕事なので」
膜が、門のところだけ薄くなる。
草地を踏んで進むと、石畳の通りにニコとトモが立っていた。出迎えのつもりらしい。
「わっ……ゴーレム? 動いてる。動いてるよね?」
「施設管理端末です。識別コードは弐号」
「喋った!」
「ニコです」
「弐号です」
「猫の方はトモです」
「弐号・補助です」
俺の紹介はことごとく訂正された。
足元でトモが「にゃあ」と鳴く。フィーネさんは、その場にしゃがみ込んだ。
* * *
通りは暗いままだった。フィーネさんは、閉まる扉の前で立ち止まり、灯りの点いた部屋でもう一度立ち止まった。どちらも俺が四日で直したもので、彼女にとっては、五百年誰も見ていないものだった。
部屋に入ったところで、また足が止まる。
見ているのは部屋ではなく、壁際に置いた布の袋だった。
「シュウさん」
「はい」
「これ、全部?」
「はい」
袋の口は開いていた。干し肉が二切れと、黒パンの残りが少し。
彼女はしゃがんで中を覗き、それから顔を上げた。もう笑っていなかった。
「あと何日ぶん?」
「二日は、たぶん」
「たぶん」
「三日にできないこともないです」
言ってから、これは言わない方がよかったな、と思った。
「明日、持ってくる」
「いえ、結構です」
「結構じゃない」
「お金を払えないので」
「払わなくていい」
「それは困ります」
本当に困っていた。
仕事の対価でないものを渡されると、返し方が分からなくなる。何を返せば釣り合うのかが決まっていないものを受け取るのは、たぶん俺が一番苦手なことだ。
フィーネさんは立ち上がって、腰に手を当てた。
「じゃあ、こうしよう。わたしはここに来る。来たついでに、余った物を置いていく。シュウさんは、それを片付ける」
「……それは」
「ついでだから。ね?」
理屈になっていない。まったくなっていないのに、断る隙がなかった。
「……ありがとうございます」
「うん」
それだけ言って、彼女は門の方へ戻っていった。巡回の途中だと言っていた。
角を曲がる前に一度振り返って、大きく手を振っていく。
フィーネさんは、本当に毎日来た。




