4:これ、住めるんじゃないか?
結論から言うと、その街は壊れていた。
全部だ。
最初の夜は、通りに入ってすぐの軒下で明かした。
灯りはない。水もない。石畳は冷たく、風は吹き抜けだった。黒パンを半分だけかじって、残りは袋へ戻した。何日もつか分からない以上、食える量で決めるわけにはいかない。
それでも荒野で寝るよりはましだった。少なくともここには、何も入ってこない。
夜が明けてから、通りを歩き始めた。
一歩進むごとに、視界の端で文字が湧いた。扉の開閉機構、異常。魔力系統、停止。給水設備、応答なし。誰かの家の扉から、道端の柱から、地面に伸びる管から、順番待ちもせずに次々と浮かんでくる。
三十歩も歩かないうちに、こめかみが痛くなった。
(見るな。見るな。全部見てたら死ぬ)
意識して目を伏せ、足元だけを見て歩いた。
技術者としては最悪の歩き方だ。異常が見えているのに、見なかったことにしている。だが今の俺は、街一つ分の不具合を一度に抱えられるほど丈夫にできていない。
湧いてくるのは止められない。辿っていいのは、手を当てたものだけにする。
そう決めたら、少しだけ歩きやすくなった。
残りは六十時間ほど。優先順位をつけろ。
まずは全体を見る。どこが生きていて、どこが死んでいるのか。それが分からないうちは、何から手をつけるかも決められない。
通りを奥へ進むと、他より背の高い建物が見えてきた。
装飾は少ないのに、造りだけが妙に頑丈だ。見栄えには金をかけず、中身を守ることにだけかけている。人を迎えるための建物ではなく、機械を収めるための建物だ。
街全体の面倒を見る何かがあるなら、こういう建物の中だろう。
扉には鍵がかかっていた。錠らしきものは見当たらないのに、押しても引いてもびくともしない。
諦めて取っ手から手を離しかけたとき、内側で何かが小さく応えた。そのまま、素直に開いた。
拒まれていたのではなく、確かめられていたらしい。昨日の門と同じだ。この街のものは、こちらが誰なのかを確かめてから返事をする。五百年、誰にも開かなかった扉が、登録された相手にはこうもあっさり開く。仮とはいえ管理者として登録されているというのは、こういうことらしい。
中は暗く、埃の匂いが濃かった。
広間の奥に、人がいた。
一瞬、本気で息が止まった。
壁際に、女性が一人、立ったまま目を閉じている。黒髪に見えて、よく見ると濃い青だった。顎の高さで切り揃えた髪が、頬の輪郭に沿って落ちている。装飾のない、けれど仕立ての良い服。作り物めいて整った顔立ちが、微動だにしない。
人ではなかった。近づいて、ようやく分かった。
指の関節に、細い線が走っている。首筋にも、手の甲にも、襟から覗く鎖骨にも、髪ほどの細さの紋様がびっしりと彫り込まれていた。人の肌が、こんなふうに整った模様で埋まっているはずがない。
その足元に、猫が丸まっていた。こちらも動かない。毛並みに見えていたものは、よく似せて作られた表面で、そこにも同じ紋様が入っていた。
ただし、こちらはずっと粗い。女性型のものが髪ほどの細さで埋め尽くされているのに対して、猫の方は指でなぞれる太さで、数もはるかに少ない。同じ場所で、かける手間だけを変えて作られたものに見えた。
施設管理補助端末:停止
物理破損:なし
(……良かった)
安堵が先に来た。
物理破損と出ていたら、俺にできることは何もない。街で見せられたあの魔道具と同じで、そこから先は職人の領分だ。
猫の方から手をつけた。小さい。小さいということは、たぶん負荷は軽い。
原因:依存関係不整合
なるほど、と思った。
こいつは、誰かの返事を待ったまま止まっている。待っている相手は五百年前から答えていない。返事が来ないので、起動の途中から先へ進めない。
昨日の門と、同じ形だ。
待ちを解いてやる。それだけでいい。
猫が、ぱちりと目を開けた。
金色の光が二つ灯り、耳が一度、ぴくりと動く。それから立ち上がって、俺の周りを一周した。
「異常」
猫が言った。
「異常」
「……どこがですか」
猫は答えず、壁際の女性型の足元へ戻って、その膝のあたりを前足で叩いた。とん、とん、と二回。
言われなくても分かってはいた。分かってはいたが、はっきり指し示されると腹が決まる。
施設管理端末:停止
物理破損:なし
原因:依存関係不整合
同じだった。ただし、規模が違う。
猫の方が手のひらに乗る道具だとすれば、こちらは建物の中枢に繋がった何かだ。触れた瞬間、その先の広さが分かってしまった。
昨日、認証機構を一日がかりで直した体で、これに触るのは正直に言って良くない判断だと思う。
思うのに、手が止まらなかった。
* * *
視界が白く飛んだ。
気づいたら床に座り込んでいた。手のひらの下に埃の感触がある。立とうとして、膝が言うことを聞かないのが分かった。
「生体反応が基準値を下回っています」
声がした。
顔を上げる。さっきまで目を閉じていた女性型が、俺を見下ろしていた。瞳は金色だった。関節に走る細い線が、同じ色で薄く灯っている。
「……知ってます」
「休息を推奨します」
「そうします。もう少ししたら」
彼女は少し黙ってから、律儀に繰り返した。
「休息を推奨します」
膝の上に猫が乗ってきた。重い。見た目のわりに、ずいぶん重い。これはたぶん、動くなという意思表示だ。
仕方なく、袋から干し肉を出してかじった。塩気が回って、頭の芯が少しだけはっきりする。
彼女は、それを黙って見ていた。食べ終わるまで動く気はないらしい。
起動して最初の仕事が倒れた人間の世話か、と思うと、なんだか申し訳なくなった。
「あなたは」
「施設管理端末です。識別コードは弐号」
「弐号」
「はい」
「……ニコと呼びます。その方が名前らしいので」
「弐号です」
「はい。ニコ」
「弐号です」
二度目の訂正を聞きながら、俺は膝の猫を見た。
「この子は」
「施設管理補助端末。識別コードは弐号・補助です」
「じゃあ、トモで」
「トモ、とは」
「お供のトモです。呼びやすいので」
ニコは数秒黙った。処理が要る内容だったらしい。
「識別コードは弐号・補助です」
「はい」
訂正はされたが、否定はされなかった。俺はそれを了承と受け取ることにした。
* * *
ニコは、俺の登録内容を確認すると言って、少しのあいだ目を伏せた。
「緊急保守権限、残り五十四時間。仮管理者として登録済み」
「はい」
「施設管理端末の裁量により、緊急保守権限を期限なしで継続します」
肩の力が抜けた。期限が消えるだけで、できることの数がまるで変わる。
「ただし、上位管理権限は付与されません」
「……というと」
「日常の運用と改修は、仮管理者の裁量で実施可能です。この施設そのものの処遇に関わる決定は、正式な管理者にのみ許可されています」
つまり、直すのは好きにやれ、この街をどうするかは決めるな、ということだ。
妥当だと思った。俺は昨日ここへ来たばかりの人間で、住民でもなければ持ち主でもない。むしろ、そこを区別せずに全部よこしてくる仕組みだったら、俺はこの遺跡を信用しなかった。
「結構です。それで充分です」
「了解しました、仮管理者」
高い窓から見える空は、もう色を失いかけていた。
街まで歩いて一時間。日の落ちた荒野を丸腰で戻る気にはなれない。目が四つある犬に、もう一度会いたくはなかった。
今夜もここで寝るしかない。決まっているのは、それだけだ。
それから数時間、俺はニコに案内してもらって、今夜を越すのに要るものだけを直していった。
照明。一区画分だけ。
給水。一系統だけ。飲めるかどうかはニコが「基準値内」と言った。信じて飲んでみた。飲めた。
それから、扉の閉まる部屋を一つ。管理棟から通りを一本入った、アパートのような建物の角部屋だ。ニコが居住区画だと言った一角にある。
最後に扉を閉めて、俺はその部屋の真ん中に立って、しばらく黙っていた。
埃はひどい。狭い。寒い。窓は割れているが、これは俺には直せない。ガラスは物理破損なので、<デバッグ>では手も足も出ない。
だが、灯りがある。水が出る。扉が閉まる。
一晩をしのぐつもりで直した。直し終えてみたら、一晩以上のものに見えた。
(……これ、住めるんじゃないか?)
街に戻っても部屋はない。宿代はもうない。仕事もない。
ここには壊れたものが山ほどあって、それを直していい許可が、期限なしで出ている。
「ニコ」
「弐号です」
「私、ここに住んでもいいですか」
ニコは、また少しだけ黙った。
「該当区画は居住用途です。問題ありません」
「にゃあ」
トモが、初めて猫らしい声を出した。




