49:最初から分かってたんだ
中枢部屋には、テーブルが運び込まれていた。
聖典が三つ。灯りが四つ。ラウルさんが端に座って、紙と炭を構えている。教会の者が、書き取ります。ヨハンナ司教はそう言った。そのとおりの配置だった。
半年前、俺はこの部屋の隅で灯りを持って立っていた。壁一面の紋様を、当番の聖職者が決まった順に見ていくのを、後ろから眺めていた。
抱えていたトモを足元におろす。そのまま、俺の足元をうろうろし始めた。
聖典を開く前に、確かめておきたいことがあった。
壁へ手をつく。
外周防衛結界:異常
警戒値超過:継続中
継続時間:21時間48分
二十一時間。
昨夜、門の内側で読んだときは二時間五分だった。その前に教会で読んだ最長の記録は、四分だ。
一度も戻っていない。
昨夜、門の内側から見上げたとき、膜は三箇所、消えていた。
そのあと、もう一箇所消えたと聞いた。四つになる。
(消えた四つを、戻せれば――)
停止したものをまた動かす。それができれば、一番早い。
異常の先へ意識を向けた。壁の冷たさが、手のひらから肘まで来た。
稼働系統:7
脱落系統:4
供給系統:正常
四つ落ちている。聞いた数と、合っていた。
三行目で、止まった。供給系統は正常だ。
魔力は届いている。届いているのに、四つは動いていない。
供給が絶えて落ちたのなら、また流してやれば戻る。そういう話ではなかった。もう一度動かしたとしても、同じところで止まる。落ちた理由が、まだそこにあるからだ。
その理由が、俺には見えない。見えないまま手を入れて、残っている七つまで止まったら。上の部屋で、その懸念は正しいと、自分で言ったばかりだった。
(……駄目だ)
戻す段階ではない。戻す前に何をするのかを、俺は知らない。
手を離した。
離してから、テーブルの縁を掴んだ。部屋が少し傾いて、それから戻った。
コンラート司祭が駆け寄ってきた。
「サガラさん」
「大丈夫です」
「顔が」
「知っています」
前にこの部屋で数を読んだとき、この人は水を持ってきてくれた。今も持ってきてくれた。
飲んでから、聖典の一つを引き寄せた。
* * *
聖典は、束ねた紙に表紙を付けただけのものだった。字は三種類あって、途中から変わる。書いた人が代わったのだろう。角が丸くなって、綴じ直された跡が何度もある。
一つ目を開いた。
図があった。紋様の図と、その横に数と言葉が並んでいる。読める。読めるが、これは祈りの言葉ではない。
少し目を動かしてから、約束を思い出して口を開いた。
「一つ目は、記録です」
ラウルさんの炭が動き始める。
コンラート司祭は座らなかった。テーブルの横に立って、ラウルさんの手元を覗き込んでいる。
「旧市街から持ち出したもののようです。設計と、それから、壊れたときの記録です。日付が入っています」
「壊れたとき、と申しますと」
「あちらで起きた不具合が、順に書いてあります。例えば、経路に手を入れた際に発生した異常。出力経路を受け取る側に繋げてしまったために起きた事故、と書かれています」
「事故……」
視線だけ動かしてラウルさんの炭を見た。
五百年以上前の事故の内容が、書き取られている。
炭が止まるのを待って、二つ目を開いた。
こちらは図が少なく、文章が多い。新しい街を作るときの話だった。どこに壁を置いたか。なぜそこにしたか。旧市街の何を繰り返さないようにしたか。
「二つ目は、いまの街を作ったときのものです」
「……この街の」
「はい。設計の理由が書いてあります。例えば、結界の魔石は三年ごとに交換する造りにした、と。理由は、大きな魔石一つに依存した供給は、その魔石が絶えたらすべてが停止するから、です」
コンラート司祭は何も言わなかった。
顔を上げた。彼は聖典ではなく、壁の紋様の方を見ていた。
三つ目を開いた。
手順書だった。
朝の目覚めの祈りがあった。灯火の継承があった。二十年コンラート司祭がやってきたことが、そのまま順番に並んでいる。字は五百年前のもので、印の形も違う。それでも、順番が同じだった。
その先に、知らない手順が続いていた。
「あります」
声が掠れた。
「まず、警戒値を超えたまま戻らないときに、通常の運用から非常の運用へ移す手順」
「……はい」
「それから、移す前に系統が停止してしまった場合の、組み直しの手順です」
ラウルさんの炭が止まった。止まってから、また動いた。
コンラート司祭が、襟元に手をやった。
「いまは、どちらですか」
「後の方です。もう停止しています」
読んだ。
手順は六つに分かれていた。稼働系統を切り離す。脱落系統への供給を止める。予備の石を繋ぐ。非常用の切替器を入れる。内側の結界を組み立てる。切り離した系統を繋ぎ直す。
一つずつ、声に出した。ラウルさんが追いつかないので、途中で二度止まった。
二度目に止まったとき、外の音が聞こえた。金属と、人の声。まだ遠い。
読み終えて、もう一度、頭から見た。
順序に、理由が書いてある。
「続けます。なぜ先に切り離すのか。切り離す前に供給を止めると、動いている側まで巻き込むからです」
コンラート司祭が、聖典の方へ半歩寄った。
「……はい」
「なぜ石を先に繋ぐのか。組み立てる途中で足りなくなると、そこですべて止まるからです」
「なぜ、と書いてあるのですか」
「書いてあります」
「そうですか」
ラウルさんの炭は、止まらずに動いていた。コンラート司祭は、書かれていく文字を見ていた。
俺がさっき動けなかったのも、これだった。生きている側まで止めてしまう。
同じ心配が、そのまま書いてある。書いた人も、同じ懸念を持っていた。それを検討して、その先を書き残している。
俺が遺跡で作ったのは、落ちる前に切り替える方の、粗い版だった。警戒値を超えて二十数えるあいだ戻らなければ、二枚目の結界を動かす。それだけを、半年かけて自分で考えた。
落ちたあとのことは、考えたことすらなかった。あそこは落ちなかったからだ。
この人たちは、両方持っていた。最初から分かってたんだ。
「サガラさん」
「はい」
「どうかされましたか」
「いえ……続けましょう」
紙をめくる。
手順の脇に、細かい字で書き足しがあった。誰かが後から入れたものらしい。その脇に、日付と名前。
ヴェルナー。
旧市街の、最後の正式な管理者。どの家の戸口でも、この人の指示を待っていた。戻らない、と書き足されていた。
その人が、ここに書いている。
今は考えないことにした。
* * *
「切替器を見ます」
灯りはラウルさんが持った。
紋様を順に辿って、途中で足を止めた。二十三番目の隣。
腰までの高さの台。金属の枠に、握りの太い把手が二本。片方は下がっていて、もう片方は上がっている。台の脇に、見たことのない紋様。
前に見たときと、何一つ変わっていなかった。
「これですね」
「……これが」
「はい。三つ目に、この紋様の図が載っています」
手を当てた。
待機状態:正常
駆動部:応答なし
同じ二行だった。
今日は、その先を見た。
駆動部:物理破損
軸が固まっている。錆でも汚れでもない。動かないまま五百年経ったものが、動かないまま固まっている。
<デバッグ>では直せない。物理の破損は、俺の手の外にある。
顔を上げると、コンラート司祭は台の前から動いていなかった。
「コンラート司祭」
「はい」
「朝の祈りは、この手前で終わりますよね」
「……順に入っておりません」
「……動作試験は」
彼は答えなかった。
「してないんですね」
「そのための手順が、ありません」
そんな気はしていた。
分かっていたのに、腹の底が冷えた。
止めておくものは、いざというとき動くかどうか分からなくなる。だから三か月に一度、動かして確かめることにした。この冬に、自分でそう決めた。決めたのは、自分でその穴を作ったからだ。
同じ穴が、ここに五百年空いていた。手順が落ちて、試験が落ちて、設備が死んだ。
把手を握った。動かない。両手でやっても、動かない。
手を離した。掌に、金属の冷たさが残っている。
外の音が、さっきより近い。
「手順にこれを使います。でも、これが死んでます」
「代わりは」
「……作るしかないです」
「作れる人間が、この街に」
いない。街にはいない。
街から人は出ていっている。工房の炉は落ちた。ゲルトさんもクラウスさんも、たぶんもう街道の上だ。
でも遺跡になら、いる。
「呼びます」
トモは足元にいた。
ラウルさんに紙を出してもらって、口で言った。彼が書いた。
『切替器の駆動部が死んでいる。代わりを作ってほしい。急いで来られるか』
書いてもらってから、一度読み返した。
この紙にも、俺の字は無い。それでいい。あの人は、書いてある中身で判断する。
畳んで、咥えさせた。
「落とさないでください」
トモは通路を走っていった。門まで、それから街道を一時間。




