48:分からないまま終わらせるのは、気が進みません
上の部屋は、階段を二つ上がった先にあった。
中は狭い。テーブルが一つと、椅子が三つ。窓は細く、外は暗い。冬の初めに聖典を断られたときは、もっと広い部屋だった。
ヨハンナ司教は、器に手を添えて座っていた。白髪を短く切り揃えている。冬の初めと同じ姿勢だった。
彼女はちらと、俺が抱えているトモに目をやった。表情は動かさなかった。
「サガラさん」
「はい」
「またお目にかかりました」
「はい」
あのとき、俺は何も答えられずに帰った。帰り際に一つだけ訊いた。何かが起きたら、そのときは、と。
そのときに検討いたします、と返ってきた。約束ではないことは、お互いに分かっていた。
「何かが起きました」
「存じております」
コンラート司祭が、テーブルへ紙を置いた。三日ぶんの数が並んでいる。俺が読んで、彼が書いたものだ。
ヨハンナ司教は、それを端から端まで読んだ。時間をかけた。
「北の線は、動きましたか」
「動いておりません。日が暮れてから、同じところです」
答えたのはコンラート司祭だった。
「こちらは」
「百七十から、二百五十へ。中庭も廊下も埋まりました」
「毛布は」
「足りません。朝に、空いた家から集めます」
「そうですか」
それから、彼女は俺を見た。
「あなたのお話を伺います」
「街の結界を、私に読ませてください。読むだけでなく、手を入れます」
「そのうえで、直せますか」
「分かりません」
嘘はつけなかった。そのつもりもなかった。
「切替の方法があることと、五百年一度も動いていないことは、分かっています。その先を辿ったことはありません」
ヨハンナ司教は、器から手を離した。
「では、こちらの懸念を申し上げます」
「はい」
「結界は、いま辛うじて動いている状態です。全部ではなく、残っているところだけで」
「はい」
「構造をご存じない方が手を入れて、残っているところまで止まったら、どうなりますか」
部屋が静かになった。
外から、金属の音が聞こえた。遠い。壁の内側で線を張っている人たちの音だ。
「その懸念は正しいです」
理由を知らないまま設定を書き換えて、止まる。そんな事故は、元の世界で何度も見た。
「私が同じ立場でも、止めます。動いているものに、構造を知らない人間を触らせることの方が危険です」
「では」
「ですから、私が構造を知る必要があります。そのための聖典です」
ヨハンナ司教は頷いた。頷いたが、それは同意には見えなかった。
「もう一つ、伺います」
「はい」
「冬の初めに私が申し上げたことを、覚えておいでですか」
覚えていた。あのとき答えられなかったので、忘れようがない。
「聖典を開くというのは、残りも全部そうする、ということです」
「はい」
「開いて、あなたが読めて、私どもが読めなかったとします。そのとき、あれは誰のものになりますか」
冬の初めは、ここで詰まった。
答えを持っていないのではなく、答えがこちらの側にしかないことに気づいて、それで黙った。
今日は、少し違った。
「私は、これまで遺跡で五百年前に作られたものを直してきました。その仕組みも見ました」
「……存じております」
「そのことを書いてもらいました。何をどう直したか、なぜそうしたか」
「はい」
「遺跡で書いてもらったものは、遺跡でしか役に立ちません。街に持ってきても、それは手順にはなりません」
コンラート司祭が、こちらを見た。
使う者の手元にあるあいだだけ、手順書は意味がある。そう言ったのは、彼だった。
「聖典も同じです。聖典の知識は、この場所にあるから意味があります。聖典は、教会のものにしかなりません」
ヨハンナ司教は、長いあいだ何も言わなかった。
それから、紙の端を指で揃えた。
「それは、こちらが持ち出しを許さないという話とは、違いますね」
「違います」
「教会から持ち出す意味はない、と」
「はい」
俺の話は、そこまでだった。
言えることは全部言った。
トモを抱え直した。
「司教」
コンラート司祭だった。立ったまま、テーブルの横に来ていた。
法衣の襟は留まっている。いつもと同じ、隙のない姿だった。
「私が運用責任を負います」
「コンラート」
「サガラさんが結界に手を入れることについて、結界管理官として、私が責を負います。止まった場合も、私です」
ヨハンナ司教が顔を上げた。
「あなたが負えるものではありません」
「負えません。それでも、負う者がいなければ、どなたも動けません」
「二十年、あなたはそういうことをなさらなかった」
「はい」
彼は一度、襟元に手をやった。留め具を確かめて、外さなかった。
「二十年、分からないまま守ってまいりました」
「存じています」
「順番を守りました。日付を書きました。印を記しました。何のためかは、これまで分かりませんでした」
「それでよいのです」
「よいのだと、私も思っておりました」
声の高さは変わらなかった。この建物で酒を三杯飲んだ夜も、同じ高さだった。遺跡で酒を飲んだ夜も、一緒に昼飯を食べたときも、同じだった。
「分からないまま終わらせるのは、気が進みません」
ヨハンナ司教は、それから何も言わずに座っていた。
外の音が続いていた。金属と、木と、人の声。近づいてもいないし、遠ざかってもいない。持ち堪えている、ということらしかった。
誰が持ち堪えているのかは、ここからでは分からない。フィーネさんは西だと聞いたきりだ。
ヨハンナ司教が、少しだけ窓に目を向けた。それからまた、テーブルの上に視線を戻した。
「サガラさん」
「はい」
「私どもが持っておりますのは、手順だけです」
彼女は、テーブルの上の紙を見ていた。
「毎朝、同じ順に見て回ります。三年ごとに石を替えます。それが何のためかは、誰も知りません。知らないまま、五百年やってまいりました」
「はい」
「あなたは、その理由の方を読まれる」
「……分かりません。読めるかどうかは」
「分かるかどうかを伺ってはおりません」
彼女は、初めて少しだけ声を落とした。
「読もうとなさるかどうかを、伺っております」
答えは決まっていた。
「読みます」
ヨハンナ司教は立ち上がった。背筋がまっすぐに伸びていた。
「条件を申し上げます」
「はい」
「立ち会いはコンラートが。あなたお一人にはいたしません」
「はい」
「読まれたことは、その場で口に出してください。教会の者が、書き取ります」
「はい」
「聖典は、この建物から出しません」
「はい」
それから、彼女はテーブルの横へ視線を移した。
「コンラート」
「はい」
「この件は、あなたの名前で出します」
「……はい」
断るための条件ではなかった。受け入れるための条件だ。
誰が立ち会うか。何をしてよいか。どこから出してはいけないか。
半年、人を入れるたびに俺が読み上げてきたのと、決め方が同じだった。
「……ずいぶん細かいですね」
言ってから、フィーネさんが初めて遺跡に入るとき、俺に言った台詞だと思い出した。
ヨハンナ司教は、片方の口の端を上げた。
「仕事ですので」
そして、彼女は部屋を出た。
要望が通った、と思った。半年、この街では一度も通らなかった。手順書に無いと言われ、前例がないと言われ、渡す理由がないと言われた。今日、初めて通っている。
それから、次に何が要るかを考えて、足の裏が冷たくなった。
街の結界を読むには、深く辿ることになる。二度覗いて二度倒れた。四分の記録を読んだ日ですら、途中で手を離した。今夜は、手を離せるとは思えない。
フィーネさんに指を三本立てられている。三回目は無し、と言われた。
それを、破ることになる。
* * *
ヨハンナ司教が戻ってきた。
そのうしろから、ラウルさんが入ってきた。灯火の継承のときにコンラート司祭と組んでいた人だ。
ラウルさんは、両手で抱えていた物をテーブルの上へ置いた。
置いてから、手が止まった。先にそこを拭くことになっているらしい。持ち上げようとして、ヨハンナ司教に止められた。
「よいのです。もう、そういうものではありません」
布のかかった、思ったより小さいもの。
コンラート司祭が布を取った。
束ねられ、表紙がつけられたものが三つあった。一冊ではなかった。
外で、また金属の音がした。




