46:向こうへ移せば、死にません
門から教会まで、走った。
コンラート司祭は起きていた。法衣の上から外套を羽織って、中庭に立って、北の空を見ていた。膜が、ないところだ。
「サガラさん」
「数を持ってきました」
棚のある部屋で、彼はノートを開いた。俺が言い、彼が書いた。
「継続、二時間五分。外周は異常。膜は二箇所、消えています」
「二箇所」
「先ほど、三箇所目が消えました。門の内側から見ました」
彼は書き終えて、顔を上げなかった。
「私にできることを、申し上げます」
「はい」
「朝の祈りは、日の出とともに行います。当番は決まっております」
「はい」
「それだけです」
声の高さは、当番の朝と同じだった。
冬の初めに聞いたとおりだ。手順書にあるのは二つ。朝の目覚めの祈りと、灯火の継承。彼はいま、そこに載っていることを読み上げた。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「切替の手順は」
「ございません」
「聖典は」
「司教のお許しが要ります。……今日、お願いに上がります」
「はい」
外で音がした。石がぶつかる音と、金属の音と、それから人の声。
窓の外で、灯りがいくつか動いていた。
* * *
消えた膜は、三箇所とも北側だった。
膜が消えれば、石の壁だけになる。壁を守っているのは人だ。
その人数は、二日前に夜の見張りが二人増えただけだった。書式で出せたのが、それだけだったからだ。
明け方、魔物が北の壁を越えた。数は分からない。二区画へ入られた。
守備隊は、市街地の中に線を引いた。通りに荷車を並べて、その内側を守る。夜のうちに石を積んでいたのは、そのためだったらしい。
俺は南門の詰所にいた。邪魔にならない場所を探した結果、そこしかなかった。
だからここまでは全部、人が来て話していったことだ。俺は何も見ていない。
昼前に、トモが戻ってきた。
戸の隙間から入ってきて、俺の足元で紙を落とした。落とさないでください、と言ったのに、最後は落とした。
『二十二人。全員、番号を出した。内周は動いている。地下の石が何日もつかは言えん。あの大きさは見たことがない。色も分からん』
リタさんの字だった。
二十二人。昨夜のうちに、街から歩いていった人がいる。遺跡は寝床であって砦ではなかったはずだが、いまは向こうの方が安全だ。
出がけに、来た人には全員出すように言い置いてきた。条件は二日前のまま。範囲は南門から居住区まで、設備の操作はできない、管理区画には入れない、期限つき。誰が来ても同じでいい。
俺に訊かずに出せるようにしておいたから、二十二人ぶん出た。俺は街にいて、一人も見ていない。
当たり前のことのはずなのに、しばらく紙を見ていた。
詰所の人に頼んで、返事を書いてもらった。
『受け入れは続けてほしい。条件は変えないこと。石は私が戻ってから見る』
書いてもらってから、一度読み返した。
向こうから来た紙は、リタさんの字だった。だから、あれはリタさんが書いたものだと分かる。
こっちの紙は、詰所の人の字だ。俺の字は、この世界に一つも無い。途中で誰かが拾って、別のことを書き足しても、向こうには分からない。
だから、この紙でできることを狭くしておく必要がある。条件は変えないこと、と書いたのは、そのためだ。この紙で新しいことは始められない。続けろ、としか言えないようにしてある。
「もう一行、足してください」
『新しい条件は、この紙では出さない』
畳んで、トモに咥えさせた。
「今度は落とさないでください」
* * *
昼になって、詰所に人が集まった。
テーブルが一つ運び込まれて、ディーターさんが紙の束を置いた。コンラート司祭がノートを開いた。フーゴさんは、ギルドの受付の奥にいるときと同じ座り方をしていた。
ヨハンナ司教はいなかった。きっと、聖典のそばにいるのだろう。
「北の二区画から、人を避難させました」
ディーターさんが言った。
「教会に百七十。守備隊に四十。残りは親戚の家です」
フーゴさんが、ディーターさんとコンラート司祭を順番に見た。
「収まっとるんだな」
「今日のところは。明日、線を下げれば収まりません」
線を下げる、というのは、守る範囲を狭くするということらしい。
ディーターさんは紙を一枚めくった。
「サガラさん。古代遺跡に向かった者もいると聞きました」
部屋が静かになった。
「昨夜のうちに、二十二人が入りました。もともと九人が住んでいるので、今は三十一人います」
「あと何人、入れますか」
「住むのなら、あと数人です」
「数人」
「灯りと水が来ているのは三棟だけで、そこが埋まりました。別の区画を動かせば増えますが、あちらは五百年、灯りも水も通っていません。直すのに何日かかるかは、分かりません」
ディーターさんは書かなかった。書く数が小さすぎたのだと思う。
俺は続きを言った。言った方がいいのかどうかは、分からなかった。
「内側に入れるだけなら、話が変わります」
「入れるだけ」
「はい。結界の内側に」
「灯りは」
「ありません。水も出ません。冬です」
「凍えますね」
「凍えます。ただ、魔物は入ってきません」
ディーターさんは、そこで書いた。
そのペンの動きを見ながら、俺は訊いた。
「この街には、何人いるんですか」
「二千三百です」
二千三百。それがどのくらいの人数なのか、うまく想像できなかった。
俺が黙っていると、フーゴさんが腕を組んだまま口を開いた。
「工房は動かせん。炉は運べんし、置いていけば凍る」
「はい」
「だが、人だけなら運べる」
それから、しばらく誰も喋らなかった。
ディーターさんが手を止めて、顔を上げた。
「区画ごとに送り出します。街道は守備隊が守ります。荷は置いていきます。人だけです」
「街は」
「空けます」
空けます、という言い方だった。街を捨てる、とは言わなかった。
「向こうへ移せば、死にません。ここに残れば、何人死ぬかは書けません」
条件で話す人だった。今日も、気持ちの話を一度もしていない。
そして、たぶん正しかった。人の数だけを見るなら、それが一番いい。
扉が開いて、フィーネさんが入ってきた。
鎧のままで、片方の籠手が黒く汚れている。西から回ってきたらしい。座らずに、扉のそばに立った。
ディーターさんが同じことをもう一度言った。彼女は最後まで聞いた。
「隊長」
「はい」
「それ、いつまでですか」
ディーターさんは、少し黙った。
「結界が戻るまでです」
「戻らなかったら」
「そのときは、戻りません」
フィーネさんは何も言わなかった。
俺は、五百年前のことを考えていた。
五百年前も、誰かが同じことを考えたはずだ。人数を数えて、移す場所を決めて、街を空けた。
そうやって移り住んだ人たちの子孫が、いまこの部屋にいる。
その家に伝わっているのは、一人も見捨てるな、という言葉だ。
「サガラさん」
ディーターさんが、こちらを見ていた。
「受け入れは、お願いできますか」
「……できます」
それは答えられた。人を入れることは、俺の管轄だ。あの日、そう決めた。
答えられないのは、その次だった。
この人たちが移ってしまえば、あとに残るのは、コンラート司祭が二十年通った飯屋と、フーゴさんの帳面と、リタさんの実家の炉と、毎朝、当番が同じ順で見てきた教会の紋様だ。誰も住んでいない建物になる。
五百年経てば、たぶん誰かが直しに来る。
それでいいのか、と訊かれたわけではなかった。訊かれてもいないことに、俺は答えようとしていた。




