45:あっちは自動じゃない
二日目の夜だった。
寝入ってすぐに、扉の外でトモが鳴いた。にゃあ、ではなかった。
「警告」
起き上がると、廊下にニコが立っていた。灯りを背にしているので、金色の目だけが見えた。
「仮管理者。外周の警戒値が、超えたまま戻りません」
「数えていますか」
「十七。十八」
上着を引っ掛けて、部屋を出た。ニコが後ろからついてくる。
通りへ出たところで、彼女が言った。
「二十。内周防衛結界を動かします」
足が止まった。
通りの先、屋根の列の向こうに、半透明の膜が立ち上がっていく。下から順に上がって、旧市街をぐるりと囲んだ。上がるあいだ、雪の上を薄い色が滑っていった。
待機にしたのは俺だが、条件で動くところを見るのは初めてだった。
試験のときは、俺が動かせと言った。今夜は、言っていない。
管理棟へ走った。広間に入って、中枢の壁へ手をつく。
外周防衛結界:正常
内周防衛結界:正常
警戒値超過:継続中
継続時間:1分
一分。
二日前、街で読んだのは四分だった。あれは長いものの記録で、しかも戻っている。
今はそれが戻らない。
継続時間:3分
継続時間:7分
数字が伸びていくのを、手を当てたまま見ていた。
外周は正常のままだ。壊れてはいない。壊れてはいないが、来ている魔物が減らない。
「仮管理者。外周の処理が追いつきません」
「追いつかない、というのは」
「一度に来た魔物が、処理できる数を超えました。超えたぶんは、そのまま通ります」
表示が一行増えていた。
外周通過:14
十四。
止まってもいないし、穴が空いたわけでもない。間に合わなかったぶんが、そのまま内側へ入ってくる。
警戒値は、危ない線そのものではない。その手前に引いてある線だ。この半年、遺跡でも何度も超えていて、入られたことは一度もない。
今夜は、入ってきている。
街なら、入り込んだものは守備隊が片づけるのだろう。ここには、それをやる人がいない。九人と、戦わない端末が二つだ。
「通ったものは、緩衝帯に入りました」
「内周は」
「正常です」
窓の外で、通りに灯りが動いた。
ヨナスさんが桶を提げて走っていく。その後ろをヤンさんとテオさん。エマさんが子供二人を連れて、工房区画の方へ歩いていた。ハンスくんが振り返って、こちらの窓を見た。最後にダグさんとリタさんがいた。
誰も叫んでいなかった。夕方に決めた順で動いている。灯りを点ける場所も、列を作る場所も、二日前に紙へ書いてある。
俺がいま管理棟にいることは、たぶん誰も気にしていない。
手のひらの下で、字が増えた。
外周防衛結界:正常
内周防衛結界:正常
外周通過:31
内周通過:0
「仮管理者。緩衝帯の魔物は、内周防衛結界で止まっています」
「……保ってる」
声が出てから、自分が言ったのだと分かった。
外周は動いていた。動いたまま、間に合わないぶんだけを通している。
内周も動いている。通ったぶんを、そこで止めている。
俺がやったのは、仕様どおりに直して、待機にしたことだけだ。それがいま、魔物を止めている。
しばらく、何もしなかった。
することが無かった。俺が何もしなくても、全部動いていた。
俺がいまできることは、数を見ることだけだった。
いつのまにか、ニコの足元にトモが来ていた。丸くなって、動かない。
* * *
リタさんが入ってきた。前掛けのままで、片手に灯りを持っている。
管理棟の中は明るい。それで彼女は灯りを消した。
「どうなってる」
「何匹かは外周を抜けました。それも内周で止まっています」
「内周ってのは、あの空き地の手前の二枚目か」
「はい」
「じゃあ、抜けてきたのは、あの空き地にいるわけか」
「はい」
「あそこ、なんで空いてるんだ」
「五百年前の設計です」
「ふうん」
彼女は窓の外を見た。何も見えない。膜は音を立てない。
「何匹きてる」
「外に何匹来ているかは、深く読めば推測できます。ただ、そこまで読むと、私は動けなくなります」
「やめとけ」
「はい。分かったところで、やることは変わりません」
「抜けたのは」
「さっきで三十一。内周が止めています」
「増えるのか」
「増えます。外に来ている数が減らないかぎり」
それから、言っておくべきことを思い出した。
「石は減ります。二枚動かしているので、二枚ぶん」
「どのくらい保つ」
頭の中で、地下にある巨大な魔石を思い出した。あれを見たときのリタさんの顔も。
「分かりません」
「そればっかりだな」
「……すみません」
言いながら、頭の別のところが動いていた。
二日前に読んだ数のことだ。街の外周は、四分で戻っていた。戻ったから記録になった。戻らなかったらどうなるのかは、あの表示に書いていない。
こっちは二十数えて、勝手に二枚目が動いた。
あっちは――。
「リタさん」
「なんだ」
「街の結界にも、同じ警戒値があります」
彼女は少しだけ目を細めた。
構わずに、俺は言葉を続ける。
「同じ荒野に面してますから、同じものが来ています。数は、あっちの方が多いくらいでした」
「じゃあ、向こうも内周を動かしてんだろ」
「動きません。あっちは自動じゃない」
「は」
「切り替えるのは人です。手順を踏んで、誰かがやることになっています」
「じゃあ、やってんだろ」
「その手順が、教会に無いんです」
「無い」
「冬の初めに訊きました。手順書に載っているのは、朝の目覚めの祈りと、灯火の継承の二つだけだそうです」
「切り替えるやつは」
「載っていません。記録の方も、五百年、一度も切り替えた跡がありません」
彼女は口を開いて、閉じた。
「今ごろ、同じ数字が出ているはずです。誰も切り替えないまま」
そして、その数字を見ることができるのは、俺だけだ。
「行きます」
リタさんは、赤茶色の髪の毛をかき回した。
「一人でか」
「魔物が来ているのは荒野の側で、街道とは反対側です」
「そっちに一匹もいないとは限らんぞ」
「はい」
「そういう話じゃない」
「はい」
それでも、止まるつもりはなかった。
彼女も止めなかった。代わりに、丸くなっていたトモを抱え上げて、俺の腕に押しつけた。
「持ってけ。声が切れたら走らせろ」
「……はい」
「何かあれば、呼べ」
「ありがとうございます」
管理棟を出る。ニコについてきてもらった。
通りを走りながら、ニコに言った。
「街から人が来たら、一時通行権限を出してください」
「照会は」
「要りません。来た人には、全員出してください」
「条件は」
「南門から居住区まで。機械室と管理区画には入れません。設備の操作もできません。期限は三十日です」
「変更の要請があった場合は」
「断ってください。私が戻るまで、条件は変わりません」
「承知しました」
自分の部屋に戻って、外套を手にする。
部屋の隅にあるフィーネさんの上着が目に入る。一瞬、動きを止めてしまった。
扉を閉めた。
外套を着ながら、ニコに訊く。
「外周を抜けたものは、どこにいますか」
「内周防衛結界への接触から推測すると、北側の緩衝帯です」
「南門の側は」
「内周防衛結界への接触はありません」
接触はない。その言葉に賭けるしかなかった。
灯りは持たなかった。持てば、こちらが見える。
内周の結界を通り抜けた。抜けた先が、空けてある土地だ。
膜の色が地面まで届いていて、きれいなままの雪が見えた。魔物はここまで来ていないらしい。
それでも、外壁に向かって走った。雪を蹴り上げて、転びそうになる。
二度、壁の方で雪が落ちる音がして、二度とも足を止めた。動かないでいるあいだ、自分の息の音が大きかった。
外壁の門をくぐるまで、たぶん二百も数えていない。もっと長かった気がした。
門の外も、雪がきれいなままだった。
守備隊も、一人もいなかった。これは、前に決めたことだった。
遺跡の外周防衛は遺跡側で持つ。だから今夜、街の側は誰もこちらへ人を割いていない。
あの日は、書式の話をしているのだと思っていた。
* * *
街道は凍っていた。
走ると滑るので、端の雪を踏んだ。トモを抱えているので両手が空かない。二日前と同じだ。
荒野の側から、音が聞こえていた。低くて、途切れなくて、遠い。何の音なのかは分からない。分からないまま、足だけ動かした。
半年ほど前、俺はこの荒野で丸腰だった。あのときは何も知らなかった。今は少し知っていて、それでも丸腰だ。
枯れた木を過ぎたところで、腕の中へ声をかけた。
「ニコ」
「はい」
「まだ聞こえますか」
「聞こえています」
二十歩進んで、もう一度呼んだ。返事はなかった。
ここから先、トモが自分で言えるのは三つだけだ。危険。警告。異常。
抱え直して、また歩き出した。
街の膜は、遠くからでも見える。
半年前、俺はその外側にいて、これを見上げていた。半透明の薄いものが空へ立ち上がっていて、触れていないのに、そこに何かがあると分かった。
今夜も、同じように見えた。
端から目で追っていくと、二箇所、途切れていた。そこだけ何も無い。
* * *
南門は閉まっていた。
壁の上に人がいて、下りてきた一人が松明をこちらへ向けた。守備隊の外套だった。
「名前を」
「相楽修です。古代遺跡から来ました。結界管理官のコンラート司祭に、話があります」
「遺跡は無事か」
「無事です」
その人は一度だけ振り返って、上へ何か言った。脇の小さな戸が開いた。
通されるとき、こちらの顔をもう一度見られた。
その人に訊いた。
「フィーネさん……エルフィーネ分隊長は、どちらに」
「西です」
それだけだった。二日前にあの紙へ書いた四つの門の、西だ。
人が走っている。荷車が通りの端に寄せてある。石を積む音がどこかでしている。叫んでいる人はいなかった。
戸を閉めようとしていたその人を、呼び止めた。
「すみません。紙と、炭はありますか」
「何に使う」
「一行だけ書いてほしいんです。私は字が書けません」
その人は詰所から紙を一枚持ってきて、炭を舐めてから構えた。俺が言い、その人が書いた。
『街に着いた。外から見て、膜が何箇所か消えている。トモを返す。休ませたら、また寄越してほしい』
折りたたんで、トモに咥えさせた。
「落とさないでください」
トモは一度こちらを見上げて、それから戸の隙間から出ていった。雪を蹴る音が、すぐに聞こえなくなった。
「その猫は」
「遺跡とやり取りできます。また来ると思います」
門の内側で、結界を見上げた。意識を向けると、文字は浮かんだ。
外周防衛結界:異常
警戒値超過:継続中
継続時間:2時間5分
非常時運用への切替:実行記録なし
遺跡の外周は、正常のままだった。処理が追いつかないぶんを通していただけだ。
ここは、異常と出ている。二時間、同じことをやり続けて、追いつかないぶんを抱えきれなくなった側から、膜が消えている。
最後の一行は、冬の初めと同じだった。二日前とも同じだ。
通常のまま、二時間五分。
左手の空で、膜がまた一段、下から消えた。




