44:これなら、書けます
夜が明ける前に、トモを抱えて出た。
街道は暗かったが、雪の上だけがうっすら明るくて、足元は見えた。門が開くのと同じころに着いた。
くぐるとき、いつものように文字が湧いた。今日は、目を逸らさなかった。
警戒値超過:記録あり
冬の初めと、同じ一行だった。
この行は、何件あっても記録あり、としか出ない。
一件でも、十三万件でも、同じ字面になる。
立ち止まったまま、手は上げなかった。ここで読むわけにはいかない。
教会に着くと、朝の祈りの前だった。取り次いでもらうと、待つほどもなくコンラート司祭が出てきた。
廊下で向かい合った。挨拶より先に、こちらの口が動いた。
「見せてください」
「何をです」
「中枢の記録です。見るだけです。手は入れません」
「見るだけ、というのは」
「触りますが、何も変えません。読むだけです」
同じやり取りを、冬の初めにもした。あのとき彼は、少し考えてから頷いた。
今日は、考えなかった。
「立ち会います」
「……はい」
「昨日の馬の件ですか」
「それも、あります」
* * *
朝の祈りが終わってから、コンラート司祭と中枢部屋へ入った。トモを床に置いて、壁へ手をついた。
最初に出るものは、いつもと同じだった。
外周防衛結界:正常
供給系統:正常
警戒値超過:記録あり
三行とも、冬の初めと同じだった。ここまでは何も変わっていない。
三行目へ意識を向けた。
警戒値超過記録:132,748件
直近1年:432件
直近3日:161件
最長継続時間:4分
非常時運用への切替:実行記録なし
十三万二千七百四十八。
冬の初めは、十三万二千五百三十一だった。引くと、二百十七。
そのうちの百六十一が、この三日で増えている。
一年で四百三十二。その三分の一より多い。
それから、もう一つ。
遺跡の結界は、直近一年が三百九十四件だった。街はずっとそれより少なくて、冬の初めで二百七十一だ。街道を守備隊が回って減らしているからだ、とフィーネさんが言っていた。
今は、街の方が、多くなっている。
記録を辿る。超えているのは、荒野に面した側ばかりだった。
長いもので、四分。
遺跡では、警戒値を超えて二十数えるあいだ戻らなければ内周を動かす、と決めた。
それよりも、ずっと長い。
「サガラさん」
「はい」
「顔が白いです」
もう一行だけ、と思った。切替の道がどこへ繋がっているのか、まだ辿ったことがない。
「危険」
トモが鳴いて、俺の脛に前足を置いた。
目を閉じて、息を吐く。これ以上は立てなくなる。
「……中断します」
手を離した。壁に背を預けて、床に座った。天井が高い。
トモが膝に乗ってきた。重い。
コンラート司祭は何も言わずに、水の入った器を持ってきて、渡してくれた。
水を一口飲んで、顔を上げた。
「数を、書き取っていただけますか」
「言ってください」
彼はノートを開いて、左の腕に乗せたまま書いた。
ゆっくりと、俺はさっき見た数を口にした。
「三日で百六十一件。長いもので、四分――二百四十数える間、戻っていません」
「……三日で」
「はい。過去一年では四百三十二件です」
「この三日で、一年ぶんの、三分の一以上ですね」
「はい。それと、超えているのは荒野の側だけです」
「もう一度、数を」
「三日で百六十一件。過去一年で四百三十二件」
彼は書いたものと引き比べてから、頷いた。毎朝、記録帳に印を記してきた人の手つきだった。
「これは、何を意味しますか」
「同じところに、同時に来ている魔物が多い、ということです。それが、増えています」
「結界は」
「正常です。壊れてはいません」
「では、問題はどこに」
「まだありません。ただ、これはいつもどおりではありません」
我ながら、通らない言い方だと思った。
まだ何も起きていない。起きていないことを、紙に書こうとしている。
* * *
守備隊の建物は、東門のそばにあった。
通された部屋にはテーブルが一つと、壁沿いに紙の束が積んである。ディーターさんは鎧を着ていない。外套は壁の釘に掛かっていて、手元にはいつものように紙があった。フィーネさんは扉のそばに立ったままだった。
トモを抱えている俺は、場違いに思えた。
コンラート司祭が、ノートを開いてテーブルへ置く。
「結界の記録です。同時に検知した魔物の数が、設計上の警戒値を超えた回数が、三日で百六十一件」
「百六十一」
「過去一年で四百三十二件でございます。それが三日で。しかも、荒野に面した側だけでございます」
ディーターさんは紙を引き寄せて、しばらく見ていた。指の染みが、字のすぐ横にある。
「この数は、どこから出ましたか」
「私が読みました」
俺が言うと、彼はこちらを見た。
「サガラさんが」
「はい。スキルです。<デバッグ>といいます」
「同じものを、うちの者が確かめられますか」
「できません」
「確かめられないもので、隊は動かせません」
声は低いままだった。責めている調子ではない。
ディーターさんは紙を一枚めくって、その下の紙も見た。
「昨日、うちの分隊長から報告が上がっています。魔物の向きが揃っている、と」
「はい」
「あれと、この数は、別の話ですか」
「同じ日から始まっています」
「昨日の報告だけであれば、偶然で片づけられます」
「はい」
「三日で百六十一件は、偶然とは書けません」
ディーターさんは、指でテーブルを一度叩いた。
「それでも、こちらでは書けません。数の出どころが要ります」
コンラート司祭が、ノートを自分の方へ引き戻した。
「結界管理官として、私が出します」
「司祭が」
「私が読んだ数として、私の名前で出します。誤りであれば、私の責任です」
この人は、その数を自分では読んでいない。読めないものに、名前を書いている。
ディーターさんは、名前が書き足されるのを見ていた。
それから、紙を束の上へ置いた。
「これなら、書けます」
息を吐く音がした。扉のそばからだった。
「今のところ、出せるのは準備までです」
コンラート司祭が頷いた。
「はい」
「夜の見張りを二人増やします。三日ぶん。街道の巡回を一つ足します。東門の資材を出します」
「非番の召集は」
「できません。書式が違います。人を集めるには、何かが起きている必要があります」
「三日で足りなければ」
「そのときは、また出します。数が続いていれば、続けて出せます」
ディーターさんは条件で話す人だった。気持ちの話を一度もしない。
それでも、昨日は書けなかったものが、今日は書けている。
建物を出て、コンラート司祭に礼を言った。
「いえ、私も気になっておりましたので」
それだけ言って、法衣の裾を捌いて去っていった。
トモを抱えなおして歩き出す前に、フィーネさんが紙を一枚持って出てきた。片面に何か書いてある。
「シュウさん、ありがとう」
「私は数を読んだだけです」
「それが要るって言ったの、わたしだよ」
「……はい」
彼女はその場で、白い方を表にして紙を壁に当てた。炭で線を引き始める。街の形らしい。門を四つ書いて、そこへ番号を振っていく。
「何をしているんですか」
「振り分け。誰がどこにいるか」
「三日ぶんですか」
「うん。三日なら、わたしが回れる」
彼女は門と門のあいだに、短い線を何本も引いた。
「わたしが東にいるときに、西で何か出たら困るでしょ。だから、先に決めておく」
「……フィーネさんが行くんですか」
「わたしが行った方が早いから」
同じ言葉を、前にも聞いている。あのときは、リタさんが横から止めた。
俺は何も言えなかった。あの日、お前もだぞ、と言われている。
* * *
遺跡へ戻ったのは、日が落ちてからだった。
作業場でリタさんに話した。彼女は最後に炭を置いて、顔を上げた。
「何日だ」
「分かりません。三日で足りなければ、また出すそうです」
「そういうことを訊いてるんじゃない」
彼女は台の上の金具を寄せて、場所を空けた。
「街から来るとしたら、何日ぶん食わせるかって話だ」
考えていなかった。数は読んだのに、人数を数えていなかった。
「……分かりません」
「じゃあ、多く見とく」
ニコを呼んで、一時通行権限を点検した。
範囲は南門から居住区まで。機械室と管理区画には入れない。設備の操作はできないが、水は出るし灯りも点く。期限は三十日で、切れる前にこちらから延ばす。避難民を受け入れたころに決めた骨を、そのまま使える。
「人数分をまとめて出せますね」
「出せます」
「何人までですか」
「上限はありません」
「では、詰まるのは番号の方ですね」
「番号と名前の対応は、守備隊が紙で保持します」
決めたのは俺だ。施設は何番が入ったかを持ち、その番号が誰かは街の側が持つ。あのときは十九人だったので、名簿は一枚で足りた。
百人が一度に来たら、門で書く人が要る。
「リタさん」
「なんだ」
「門で名前を書く人が要ります」
「あたしが書くぞ」
「守備隊の仕事です。そう決めました」
「面倒なやつだな」
「そうですね」
「じゃあ、明日フィーネに言え」
列を作る場所と、灯りを点ける場所も決めた。それも紙に書いてもらった。
管理棟へ上がって、外周へ手を当てた。
外周防衛結界:正常
内周防衛結界:待機
警戒値超過:記録あり
直近3日:44件
最長継続時間:15秒
こちらの直近一年は三百九十四件なので、三日なら三件か四件が普通だ。四十四ある。
遺跡も増えていた。ただ、長さが違う。街は四分で、ここは十五秒だ。二十数え終わる前に戻っている。
内周の条件を縮めるかどうか、しばらく考えて、やめた。
あの二十に根拠が無いことは、決めた俺が知っている。根拠のある数は、まだ出せていない。
根拠の無い数を、怖いからというだけで別の数に替えたら、根拠が無いまま、数が動き続けるだけだ。
紙には、分からん、と書いてある。まだ消せない。
部屋へ戻って、灯りを消した。
昨日は、何かおかしい、までしか言えなかった。
今日は動いた。斥候の人が向きを見て、コンラート司祭が鳥を見て、フィーネさんが報告して、俺が数を読んで、その数にコンラート司祭が名前を書いた。
四人がかりで、紙一枚。
その紙から、見張り二人と、巡回一つと、三日という期限が決まった。
何もなく終わるなら、それが一番いい。




