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43:いつもと違う

 朝の食堂で、レニくんが紙を持って立っていた。

 顔より高いところに掲げているので、こちらからは紙と指しか見えない。ハンスくんが横から行を追って一字ずつ言い、レニくんがそれを繰り返した。読んでいるのは水場の紙だった。三日前に桶の置き場所を変えたときのものだ。なぜ変えたかが書いてある下の段は、二人とも飛ばした。

 器を配りかけたまま、エマさんが二人の方を見ている。


「あれ、意味は分かってないと思いますけど」

「分からなくていいそうです」

「そうなんですか」

「はい。分かる人が出てくるまで、形だけ残ればいいので」


 エマさんは、よく分からない、という顔をして、それから鍋の方へ戻っていった。

 俺も自信があるわけではない。借りた言葉だ。でも、二十年それをやってきた人のものだ。


「ニコ」

「はい、仮管理者」

「今日、街へ出ます。夕方までに戻ります」

「承知しました。暮らしに関わるものが止まった場合は、リタさんへ報告します」


 先に言われた。

 十日前に決めたときは、粗い決め方だと思っていた。灯りと水と温度と扉、それ以外は待つ。何かあればリタさんに報告する。

 粗いまま渡したものが、もうこの街の決まりになっている。


「はい。お願いします」


 足元にトモがいた。抱え上げると、やはり見た目より重い。

 作業場を覗くと、リタさんは台の上に金具を並べているところだった。


「街へ行ってきます」

「トモ、連れてくのか」

「はい。もう一度、距離を確認します」

「何度やる」

「四度は」

「二度よりましだ」


 顔は上げなかった。


 * * *


 街道の雪は、この前来たときより減っていた。

 枯れた木の手前で、腕の中へ声をかけた。ニコの返事があった。木を過ぎて十歩で切れた。戻ると出た。もう一度進んで、今度は八歩で切れた。

 四度やって、切れた場所は木からいちばん近いところで六歩、遠いところで十二歩だった。同じところではない。何で変化が出るのかは、分からない。

 少し戻って、ニコに四つの数を伝えて、覚えていてもらう。

 紙と炭を持って出ればよかった。そうすれば、自分で書いておくことができた。


 門は、膜の切れ目にある。

 切れ目をくぐるあいだ、膜はすぐ横にある。いつものように、視界の端に文字が湧く。外周防衛結界、正常。魔力伝達、正常。それから数の並んだ行が出かかったところで、目を逸らす。

 手を当てれば読める。この結界を覗いたのは二度で、二度とも倒れた。

 一度目は当番の朝で、教会の宿舎で寝込んだ。二度目はこの冬の初めで、丸一日と少し起きられなかった。あのあとフィーネさんに指を三本立てられて、三回目は無し、と言われている。


 教会では、待たずに通された。棚のある部屋も、椅子も前と同じだった。座ると、トモは膝の上で丸くなった。

 コンラート司祭は机を挟んで座り、こちらが口を開くのを待っている。

 先日の礼を言ってから、報告に移った。


「読ませています」

「毎朝ですか」

「毎朝です。読む人は日替わりで」

「読み違えますか」

「します。今朝は子供が読みました。上の子が言ったのを繰り返しただけです」


 コンラート司祭は、机に置いた手を組み直した。


「それでよいのです」

「そうですか」

「うちの若い者も、最初はそうです。何年か経つと、体に染み込みます」


 言ってから、彼は少し口の端を上げた。

 紙が九枚になったこと、そのうち三枚に、分からん、と書いてあることを伝えた。彼は分からんの方に興味を示した。


「残しておいてください」

「分からないままでもですか」

「分からないと書いてあれば、誰かが調べます。書いていなければ、誰も調べません」


 それから彼は、窓の方を見た。


「サガラさん、昼はまだですか」

「……まだです」

「では、付き合っていただけますか」


 連れていかれたのは、教会から二本入った通りの、軒の低い店だった。

 中は暗い。テーブルが四つあって、真ん中に火鉢が置いてある。椅子はどれも、なんとなく火鉢の側へ寄っていた。

 奥に竈があり、店の人がその前にしゃがんでいる。

 店の人はコンラート司祭を見ると、注文も聞かずに奥へ引っ込んだ。


「よく来られるんですか」

「二十年です」

「二十年ですか」

「十五で教会に入った年からです。先輩に連れてこられました」


 出てきたのは豆と根菜と干し肉を煮たものと、黒パンだった。パンは俺が買っているものより硬い。

 コンラート司祭の法衣の襟元は留まったままだった。この人が襟を緩めるところは何度か見ているが、あれは夜と酒のときだけで、昼は最後まで隙がない。それでも、水を飲む器の持ち方は、酒のときと同じだった。


 スプーンを持ち上げて豆を口に運ぶ。

 よく煮てあって、素朴な味だった。


「うまいですね」

「値段相応には。何より安くて、量があります」

「……はい」

「二十年、同じ味です」


 彼は黒パンを半分に割って、片方を器の縁へ置いた。


「近ごろは、量の方がこたえますが」

「残しても構わないのでは」

「残しません。二十年、残したことがないので」


 隣のテーブルでは、荷運びらしい二人が、積み方で言い合っていた。片方がスプーンでテーブルに線を引いて、もう片方がそれを指で消した。

 この街で食事をするのは久しぶりだった。あのころは、あと何日ここにいられるかを数えながら食べていた。


 会計は彼が持った。

 俺は、出しかけた財布を懐にしまいながら、彼を見た。


「では、次は私が出します」

「次があるように言いますね」


 言われてから気づいた。これは、次の約束だ。

 なんと答えればいいか分からなくなって、小さく頷いた。


「……はい、そうですね」


 外に出ると、荷馬車が一台停まっていて、馬が一頭繋いであった。

 コンラート司祭は、そちらへ二歩寄って、止まった。

 馬は顔を上げてこちらを見て、それから顔を戻した。それだけだった。


「妙ですね」

「何がです」

「この子は、私が寄れば来ます。だいたい、どの馬も来ます」

「今日は来ませんね」

「今日もです」


 今日も、と言った。

 俺は馬を見て、またコンラート司祭を見た。


「いつからですか」

「三日――いや、四日かもしれません。そういえば、鳩もその頃です」

「鳩、ですか」

「はい。うちの伝書鳥が、朝に下りてこなくなりました」

「餌はやっているんですか」

「やっています。それでも、屋根の上から下りてこない。皆、同じ方を向いています」

「同じ方、というのは」

「荒野の側です」


 馬の耳が動いた。この馬も、荒野の方を向いていた。

 俺は腕の中のトモを見た。この子は寄ってくる。さっき教会の廊下でも、彼の足のあいだを抜けていった。だがこれは施設の端末で、腹も減らないし、怖がりもしない。数には入らない。


「ほかにもありますか」

「犬が、荒野に向かって吠えています。ですが、いつもとどう違うかと言われると……」

「三日か四日前から、動物が、荒野の方を気にしている」

「……そう、なりますね」


 彼は少し眉を寄せて、首を振った。


「妙ですね、としか申し上げられません」

「報告はされましたか」

「何と書けばよいのか、分かりません。鳥が下りてこない、だけでは……」


 * * *


 日が落ちてから、フィーネさんが来た。

 鎧のままで、いちばん手前の椅子に座った。エマさんが何も言わずに器を出した。フィーネさんは半分ほど食べて、スプーンを置いた。


「三日前に、斥候から報告が上がったの。魔物の動きがいつもと違う、って」

「はい」

「数は少ないんだって。いつもの道で、三匹しか見なかったって」

「少ないのが、問題ですか」

「そうじゃなくて、その三匹がばらばらの場所にいて、向きだけ揃ってたの。荒野を背にして、こっち側へ向かってくる」

「いつもは、どう歩くんですか」

「うろうろしてる。餌を探して、寄って、散って。向きなんてないよ」


 彼女は器の縁を指で撫でた。


「一昨日、非番に見に行った」

「一人でですか」

「二人だよ。報告を上げた斥候の人と」

「……はい」

「わたしにも、いつもと違って見えた。それだけ」


 それだけ、と言うときの言い方が、いつもと同じだった。自分の見たものを、実際より小さく言う。


「ディーターさんには」

「隊長には今朝、報告はした」

「どうでしたか」

「通らなかった」


 彼女は少し笑った。


「数が多かったならともかく、少なかったことは書けない、って」

「はい」

「それと、書く数字がない、とも言われた」

「数字」

「斬った数なら書けるの。向きが揃ってた、は書けない。何も起きてないから」


 彼女は器を少し押しやった。


「隊長が悪いんじゃないよ。書く欄がないだけ」

「……はい」


 俺は今日聞いた話を頭の中で並べた。

 伝書鳥が下りなくなったのが三日か四日前。斥候の報告が三日前。犬が荒野へ吠えている。馬が荒野の方を向いている。魔物が、向きだけ揃えて荒野を離れている。

 別々の人が、別々のものを見て、同じ日を指している。


「フィーネさん。それ、コンラート司祭も言っていました」

「え?」

「街の動物が、荒野の方を気にしているそうです。三日か四日前からだと」

「……ちょっと待って。それ、隊に言った?」

「言えません。私が見たのは馬が一頭です。あの人も、妙です、としか言えないと言っていました」


 彼女は口を開いて、閉じた。


 斥候の人は、向きが揃っていたことしか言えない。コンラート司祭は、鳥が下りないことしか言えない。フィーネさんはその二つを持っているが、書く欄がない。

 俺が見たのは、寄ってこなかった馬が一頭だけだ。


「シュウさん」

「はい」

「数字があれば、通ると思う?」

「……分かりません。でも、無いよりは」


 言ってから、一つ思い出した。

 今朝、門で目を逸らしたあの行だ。同じところで同時に処理した数が、設計上の警戒値を超えた記録。冬の初めに読んだときは、十三万件あった。直近の一年だけで、二百七十一件。

 あの数が今どうなっているかを見れば、たぶん、書く数字ができる。


 ――次は三回目だから。


 フィーネさんはあのとき、そう言った。三回目は無し、と。

 見たら三回目になるかもしれない。


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