42:お前がいなくても
朝のうちに支度をした。
街まで一時間。用は一つで、日のあるうちに帰ってこられる。
「ニコ」
「はい、仮管理者」
「今日、街へ出ます。教会に行ってきます」
「承知しました」
「留守のあいだですが、もし何かあったら――」
「記録して、お戻りを待ちます」
昨日の灯りと同じだ、と思った。
待たれる。半日でも、一日でも、俺が戻るまで。
「待たなくていいものは、待たないでください」
「判断の基準を」
すぐには答えられなかった。
どこまでが待たなくていいもので、どこからが待つものなのか。考えたことがない。考えなくても、俺が全部見ていたからだ。
「……止まったものが暮らしに関わるなら、すぐに。関わらないなら、記録して待ってください」
「暮らしに関わる、の定義を」
「灯り。水。温度。扉。それ以外は待ってください」
「承知しました」
線は引けた。引けたが、粗い。粗いままでも、渡すしかない。
少し考えて、付け加えた。
「動いているものが止まったら、リタさんに言ってください」
「リタさんに」
「はい。私が戻るより早いので」
「承知しました」
それでも、落ち着かなかった。
街まで一時間。往復で二時間。そのあいだ、俺は遺跡の様子を見れないし、遺跡から何か届くこともない。
「ニコ。留守のあいだ、連絡を取る手段はありますか」
「補助端末を経由すれば、私の声を出せます」
「……初めて聞きました」
「照会がありませんでした」
足元を見ると、トモがいた。抱えると重い。見た目のわりに、いつも重い。
「では、連れて出ます」
「補助端末は、施設の外でも動作します」
「声は」
「届く範囲であれば、そこから出せます」
「範囲は」
「試したことがありません」
五百年前も、外へ持ち出す用事が無かったのだろう。
作業場を覗いて、出かけると言った。
「ああ、行ってこい」
リタさんは炭で線を引きながら、顔も上げなかった。
誰も引き留めなかったし、心配もされなかった。しばらく前なら、出る前に見て回るものがいくつもあった。今日は、見なくていい。
* * *
街道は踏み固められていた。夜に凍った表面が、冬の薄い日でまだ溶けきっていない。
トモを抱えていると両手が空かない。転べばトモごと転ぶ。歩幅を狭くした。
しばらく行ってから、腕の中のトモに声をかけた。
「ニコ」
「はい」
トモの口が開いて、ニコの声が出た。口はそれきり動かない。喋っているようには見えなかった。
「聞こえますか」
「聞こえています」
少し歩いて、また呼んだ。返事があった。
道が下りにかかる手前に、枯れた木が一本ある。そこを過ぎたところで、三度目の返事が無かった。
二十歩ほど戻ると、また出た。
「ここまでですね」
「はい」
覚えておく。ここから先は、トモが自分で走ることになる。片道一時間。速くはないが、無いよりはいい。
教会に着くと、朝の祈りが終わったところだった。
中庭にいたコンラート司祭は、俺を見ると襟元に手をやって、それから腕の中のトモに目を向けた。
棚のある部屋へ通された。机と椅子とソファ、記録帳の詰まった壁。座るのは久しぶりだった。
トモは膝の上で、おとなしく丸くなった。
それをひと撫でしてから、切り出した。
「紙を書き始めました」
「紙」
「この半年で、私が何をどう変えたか。次に何かあったとき、どこを見るか」
彼は少し黙って、それから頷いた。
「よいことです」
「それで、お願いがあって来ました。写しを一部、こちらに置かせていただけませんか」
「理由を伺っても」
「あそこで分かっているのが、私一人なので。私が抜けたら、一度に無くなります。ここに置いてあれば、紙だけは残ります」
コンラート司祭は座り直して、しばらく棚の方を見ていた。
「お預かりはできます。ただ、たぶん、意味がありません」
「……意味」
「うちにも、旧市街から来た書き物がございます」
「はい」
「五百年、棚にあります。字は残っております。何のための手順かは、残りませんでした」
訊き返さなかった。今日はその話をしに来たのではない。
コンラート司祭は、視線をこちらに戻した。
「同じ五百年で、朝の祈りは残りました」
「……」
「残ったのは、書いてあったからではありません。毎朝、同じ順で人が動いていたからです。使う者の手元にあるあいだだけ、手順書は意味があります」
「そう……ですね」
俺は、置く先を間違えていた。
外に置くのではなく、読む人の側に置くしかない。
「では――」
俺の言葉を遮るように、コンラート司祭が、指を一本立てた。
「ただ、一つだけ、うちのやり方で使えるものがあります」
「……なんでしょうか」
「毎日読ませることです。意味が分からなくても、読ませる」
「分からなくても、ですか」
「はい。分かる者が現れるまで、形だけでも残ります」
礼を言って、立ち上がった。
教会を出たところで、守備隊の巡回とすれ違った。フィーネさんがいた。
こちらに気づいて、片手を上げて、そのまま行った。
* * *
日が傾く前に戻った。
抱えていたトモを下ろすと、管理棟の方へ走っていった。
通りは静かで、食堂から鍋の音がしている。いつもと同じ様子に見えた。
部屋へ荷を置きに行った。
「戻ったか」
振り返ると、リタさんが戸口にいた。紙の束を抱えている。
「食堂、四日前から夕方だけ寒くなってた」
「夕方だけ、ですか」
「そうだ。もう寒くない」
「直したんですか」
「いや」
彼女は部屋へ入ってきて、机に紙を広げた。炭を一本、指に挟んだままだ。
「出た時刻を書いた。三日ぶんだ。全部、日が落ちてからだった」
「はい」
「昨日は出なくて、一昨日は出た。違いを探した」
「何が違いましたか」
「鍋だ。エマさんが二つ使う日と、一つの日がある」
俺は黙って聞いていた。
四日前から夕方の食堂が寒かったことを、知らなかった。
「最初は温度の仕掛けが悪いと思った。だが朝も昼も何ともない」
「壊れているなら、朝から寒いはずですね」
「そうだ。だから仕掛けじゃない」
「はい」
「鍋が二つの日に、灯りを半分消してみた。寒くならなかった」
「はい」
「灯りを全部点けて、鍋を一つにした。それも寒くならなかった」
「両方揃ったときだけ、寒くなる」
「そうだ」
彼女はもう一枚出した。ゆうべ俺が口述した紙だった。居住区の供給の割り当てを、この半年でどこへどう振ったか。
「あんたの紙の、四枚目だ。冬の前に、食堂の灯りを煮炊きと同じ線へ足してる」
「……はい。経路が切れたので」
「切れたやつを直したのはあたしだ。あたしは、それがどこの線かは気にしてなかった」
二人でやった仕事だった。二人ともその場にいて、二人とも忘れていた。
「そのときは足りてた。四日前までは」
「四日前に、何かありましたか」
「鍋が二つになった。弟子どもが遅く戻るんで、エマさんが二つに分けて作ってる」
「……なるほど」
「灯りと煮炊きと温度が、同じ線で一度に動く。夕方は、煮炊きが増える。それで足りない」
「はい」
そこで、彼女は炭を置いた。
「そこまでだ」
「そこまで」
「原因は分かった。だが、どの線が空いてるかは、あたしには見えない。だから、そこで止めた」
紙を持って、二人で地下へ下りた。箱に手を当てる。
供給系統:正常
供給上限:160
現在:42
リタさんは針と紙を見比べていた。
針はいつも四十前後だ。区画単位では大きく余っている。
箱から建物へ入る経路のうち、一本を辿った。
魔力伝達:容量不足
建物の中で経路が分かれて、食堂の灯りと、煮炊きと、温度が、同じ一本に乗っている。
リタさんが直した経路は、そのまま空いている。
どこも壊れていない。
彼女の言うとおりだった。
別の経路へ繋ぎ替えれば済む。ただ、いまは食堂が使われている。灯りを止めれば、夕食の途中で暗くなる。
朝にやることにした。
「リタさん」
「なんだ」
「今日、分かったことがあります。トモは外へ出られます。街道の途中までなら、ニコの声も届きます」
「途中まで、ってのは何だ。距離か」
「たぶん距離です。枯れ木のところで切れて、二十歩ほど戻ったら、また出ました」
「何度やった」
「二度です」
「二度じゃ分からんぞ」
(確かに、そうだ)
二度なら、たまたまでも起きる。
「次に行くとき、何度か試して書いとけ」
「そうします」
「で、それが何になる」
「切れた先も、トモは自分で走ります。次からは、私を呼べます」
「呼んでどうする。あんたが歩いて帰るあいだに、三枚は書ける」
彼女は紙を揃えて、俺の方へ差し出した。
「お前がいなくても、ここまでは調べられるようになった」
返す言葉が出てこなかった。
嬉しい、で合っている気がする。合っているのに、少し手持ち無沙汰だった。
俺がいなくても、ここまでは進む。進んだ先で止まっていたのは、どの経路が空いているか、という一点だけだった。
「あたしにできるようになった、って話じゃないぞ」
「……はい」
「順番が分かっただけだ。順番なら、ほかのやつにも教えられる」
粗悪品が出回ったときと同じだ、と言いかけて、やめた。
自分にしか作れないものを手放した人が、今度は自分が見つけた順番を、最初から抱えないと言っている。
* * *
翌朝、人が入る前に、リタさんと二人で、食堂の灯りを別の経路へ回した。すぐ済んだ。
変えたことと、なぜ変えたかを、その場でリタさんに書いてもらった。紙がまた増えた。
「シュウさん」
鍋を運んできたエマさんが、こちらを見ている。
「今夜は、鍋二つでもいいですか」
「はい。もう寒くなりません」
「良かった」
食堂のテーブルの端に、紙の束が置いてあった。
ハンスくんが上から順に見ている。読めない字の方がまだ多いはずだが、一枚目の、線を引いたところで指が止まっていた。
「これ、なんの紙?」
「二階の廊下の灯りの話です」
「なんで、灯りの話?」
「灯りが壊れたので、直しました。なぜ壊れたかが、そこに書いてあります」
「ふうん」
毎日読ませること、とコンラート司祭は言った。意味が分からなくても読ませる。
昨日の夜にリタさんへ話して、当番の紙と一緒に、朝に一枚ずつ読むことになった。読む人は日替わりで、今日はヨナスさんの番だ。それ以外はまだ決まってない。
ヨナスさんが束から一枚取って、ハンスくんの隣で読み上げた。二度読み間違えて、二度とも言い直した。
次に何かあったときは、たぶん誰かが時刻を書く。
書いたものを、誰かが読む。読んだ人が、また別の誰かに読ませる。
五百年もたせるのに必要なのは、そういうことらしい。




