41:お前、全部自分でやろうとしてるだろ
目が覚めたとき、廊下が静かだった。
子供の足音がしない。桶の音もしない。それで、朝の時間はもう過ぎたのだと分かった。
昨日は遅くまで眠れなかった。決まらないことを、ずっと考えていた。どれだけ考えても、決まらないものは決まらない。
食堂へ行くと、鍋はもう下ろしてあった。
エマさんが布巾を絞っていて、俺を見て、それから壁際を指した。器が一つ、湯を張った桶に浮かせてある。
「取っておきました」
「……すみません」
「いいえ」
食べながら、外の音を聞いた。
通りで子供の声がする。ハンスくんが「三十九」と数を言って、レニくんが同じ数を繰り返していた。今日の当番はハンスくんだったはずだ。地下へ下りて針を読み、数をニコに言って、もう終わっている。それでも言い足りないらしい。
食堂を見回す。水は出ている。灯りも点いている。廊下は掃いてあって、建物の空気は暖かい。
俺が寝ているあいだ、この街は普通に動いていた。
一人で住んでいたころは、俺が寝込めば何もかも止まっていた。止まっても、困るのは俺だけだった。
器を水場へ置いて食堂を出ると、廊下にヨナスさんが立っていた。
「シュウさん、起きたか」
「はい。遅くなりました」
「いや、いいんだ。急ぎじゃない」
彼は少し言いにくそうにした。
「二階の廊下、灯りがいくつか点かなくてな」
「いつからですか」
「朝いちばんだ。明るいから困ってない」
もう昼を過ぎている。
「見てもらおうと思って、待ってた」
「触ってみましたか」
「触っていいのか、分からんかった」
二人で廊下を歩いた。灯りがいくつか、確かに消えている。
手を当てた。
魔力系統:正常
魔力伝達:停止
原因:依存関係不整合
すぐには分からなかった。しばらく辿って、思い出した。
十五人が街へ戻った日に、廊下の灯りが、いくつか一緒に落ちた。あの日は暗い廊下を子供たちが走っていたので、俺は灯りを、もう人のいない部屋と同じ経路に割り当て直した。一時的な処置のつもりだった。手早く済ませて、それきりだった。
割り当て直した先が、今度は新しくハンスくんとレニくんの部屋になった。
昨日、その経路に手を入れた。それが原因だった。
<デバッグ>で見て、廊下の灯りを別の経路に割り当て直した。それで点いた。
直すのはすぐだった。思い出すまでの方が、長かった。
「悪いな、こんなことで」
「いえ。元はと言えば私のせいです」
「そうなのか」
「はい」
ヨナスさんは灯りを見上げて、それから頷いて、階段を下りていった。
半日、誰も触らなかった。
* * *
部屋へ戻って、しばらく座っていた。
難しくはなかった。原因も直し方も、すぐに分かった。
ただ、その前で手間取った。冬が来る前に自分がやった応急処置を、自分が忘れていた。
誰も触らなかったことを責める気はない。ヨナスさんは正しい。触っていいか分からないものに、勝手に触らない方がいい。
引っかかっているのは、そこではなかった。
あの灯りがなぜ消えたのかを辿れる人が、この街に俺しかいない。
数え始めたら、止まらなかった。
どの区画がどの経路から魔力を引いているか。この半年近くの間、何をどこまで変えたか。なぜそう変えたか。冬に止めてはいけない順番。内周の結界を動かす条件が、警戒値を超えて二十数えるあいだ戻らなかったとき、であること。地下の針が、どの数になったら何をすればいいのか。
ニコは記録を持っている。持っているが、訊かれないと出さない。
何をどう訊けば出てくるかを知っているのも、俺だけだ。
元の世界に、こういう数え方があった。
この人が明日いなくなったら、仕事は何日止まるか。何人抜けたら、完全に止まるか。
(バス係数、と言っていたな)
担当が明日バスに轢かれる前提で数えるから、そう呼ぶらしい。物騒な名前だ。教わったときは笑っていた。
今は笑えない。この街のバス係数は、一だ。
この世界にバスは走っていない。
それでも五百年前には、戻らなかった人が一人いる。
昨日、俺は閉じた輪を見たばかりだった。最後の一人が抜けたら、二度と増やせない作り。
同じことを、俺がやっている。
規模はまるで違う。九人と、千人だ。それでも形は同じだった。
教会は、意味を失っても手順を残した。だから五百年、結界が生きている。
俺が残したのは、変えたことの記録だけだった。どこを、どう見て、どう辿るか。手順の方は一行もない。頭の中にある。頭の中は、誰にも読めない。
怖い、というのが正しかった。
ずっと、この街のどこかが壊れることを心配してきた。
壊れるのは、一つずつだ。一つずつなら、直せる。
俺が抜けたら、一度に全部が直せなくなる。
* * *
夕方、フィーネさんが来た。鎧のままだ。
食堂のいちばん手前の椅子に座った。荷物から書類の束を出してテーブルに置いた。
エマさんが器を出したが、口をつけなかった。
「今日は、街から三つ持ってきた」
「三つ」
「ギルドから一つ、教会から一つ、隊から一つ。全部、こっちに訊いてくれって言われて」
順番に見た。どれも急ぐ話ではなかった。伝令でも届くし、二つは街の側で片づく話だった。片づけずに、こちらへ持ってきている。
「フィーネさんが来なくても、これは届きます」
「うん」
「はい」
「でも、わたしが行った方が早いから」
リタさんが食堂へ来たのは、そのすぐあとだった。前掛けに煤がついたままだ。
テーブルの上のものを見て、それからフィーネさんを見た。
「フィーネ」
「ん」
「お前、いつ寝てる」
「寝てるよ」
「いつ」
フィーネさんは答えなかった。
リタさんは椅子を引いて、逆向きに座った。
「お前、全部自分でやろうとしてるだろ」
フィーネさんが口を開いて、閉じた。
「……そんなことないよ」
「あるだろ。昔からだ」
「昔の話でしょ」
「昨日の話だ。夜中まで街に戻らなかっただろ」
「……壁沿いに一周してから帰っただけだよ」
「そこを回るのは、お前の受け持ちじゃないだろ」
「ついでだよ」
「街まで一時間あるぞ。ついでにはならん」
はじめて聞く話だった。
結界の内側は、こちらの持ち分だ。この前、あのテーブルでそう決めた。決めた側が寝ているあいだに、決めていない人が夜中に歩いていた。
フィーネさんは、自分の受け持ちでないところまで歩いている。俺は、今日の昼に数えあげたものを、誰にも渡さないまま持っている。
言われているのは彼女だ。それなのに、俺の手は器を抱えたまま止まっていた。
リタさんがこちらを見た。
「おい」
「はい」
「お前もだぞ」
「……はい」
「本当に分かってるんだろうな」
分かっている、とは言えなかった。
フィーネさんも、それきり何も言わなかった。
しばらくして立ち上がって、「明日も来るね」と言って帰っていった。
部屋へ戻って、隅に置かれたフィーネさんの私物を眺めた。
置いていった上着。髪紐が何本か。鞘を手入れしていた布。傷薬。
今日も保留のままにした。
* * *
その夜、作業場へ行った。
台の上は片付いていて、工具箱が壁際に寄せてある。
「なんだ」
「書いてほしいものがあります」
「今からか」
「はい」
リタさんは紙と炭を出して、座った。
「何を書く」
「この街で、私が変えたことを、全部です」
炭を持ったまま、彼女はこちらを見上げた。
「全部か」
「はい。何を、いつ、なぜ変えたか。それから、次に何かあったとき、どこを見るか」
「変えたやつは、ニコに記録させてるだろ」
「記録させています」
「じゃあ足りてるじゃないか」
「ニコは、訊かないと出てきません」
「訊けばいい」
「何をどう訊くかを知っている人が、要ります」
言ってから、それが全部だと思った。
ニコは正しく持っている。正しく持っていて、正しく黙っている。取り出す訊き方を知っているのが俺だけなら、記録があることと無いことの差は、ほとんど無い。
「紙なら、勝手にめくれるってことか」
「はい。それと、ニコは分からないことを書きません」
「量があるぞ」
「あります」
「何日かかる」
「分かりません」
彼女は紙を一枚めくって、上の端に線を引いた。
「一枚目はなんだ」
「二階の廊下の灯りです」
思いついたところから、書くことにした。順番を決めると、たぶん途中で嫌になる。
二枚目の半分ほどで、リタさんが手を止めた。
「これ、あたしが読んで分かるように書くのか」
「はい」
「じゃあ、分からんところは訊くぞ」
「お願いします」
「内周だ。なんで二十数えるまで待つ」
「数はいつも超えるからです。超えたまま戻らないことの方が、いつもと違うので」
「それは分かる。なんで二十だ」
「……」
「十でも三十でもいいだろ」
「……はい」
「なんで二十にした」
答えられなかった。
決めたのは俺だ。あの日、記録を並べて、短いものと長いものの差を見て、そのあたりだと思って決めた。思っただけで、根拠はない。
「後で調べます」
「そう書いとくぞ。分からん、と」
「はい。そう書いてください」
この世界の文字が書けないことを、今日ほどありがたいと思ったことはなかった。
書けていたら、俺はきっと一人で書いていた。一人で書けば誰も訊かないし、分からないことは残らない。
三枚目で、炭がまた止まった。
「第二系統、なんで北の棟の下にある」
「同じ部屋に本系統と予備を置くと、片方を壊した事故で両方が止まるからです」
「……ああ」
「これは私が決めたことではありません。五百年前の人が、そう置きました」
「じゃあ、そう書く」
紙が四枚になったところで、その日は終わりにした。
一枚目の上には、二階の廊下の灯り、と書いてある。その下に、冬の前にやった処置と、昨日それに触れたことと、今日それが出た理由が並んでいた。
四枚のうち二枚に、分からん、が入っている。
俺の頭の中では、それは説明の要らないことになっていた。要らないと思っていただけだった。




