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40:本物は、来ないんですね

 朝の食堂で、決まったことを伝えた。

 九人のうち、その場にいたのは七人だった。リタさんは工房に籠もっていて、ダグさんは街へ出ている。

 街の住民のままでいること。遺跡の側にも名簿があること。二つは別のものとして持つこと。それから、教会が四件の記録を終わりにすること。


「四件、というのは」


 ヨナスさんが訊いた。


「エマさんと、ハンスくんとレニくん。それからヨナスさんです」

「ああ」


 彼は器を置いた。


「俺たち、まだ預かられてたのか」

「紙の上では」

「そうか」


 ヨナスさんは、それきり何も言わなかった。

 ハンスくんが「預かる、って」と訊いて、レニくんが「あずかる?」とエマさんを見上げた。

 預かるというのは、いつか返すという意味だ。今回は返す先が無くなった。だから終わりにすることになった。頭の中で言葉を並べて、言わなかった。子供たちに伝わる説明が思いつかなかった。

 エマさんが二人の背中を押して、テーブルの端へ寄せた。


 人が減ってから、エマさんが湯を運んできた。

 俺の前に置いて、それから立ったままでいた。


「あの」


 呼びかけられて、顔を上げた。


「はい」

「ここに、ずっといていいんですか」


 答えようとして、口が動かなかった。

 はい、と言えば済む。言って、たぶん今日は誰も困らない。

 困らないが、それは俺が決めていいことではなかった。


 冬を越す場所を約束した日のことを思い出した。あのときは、約束する範囲を絞ればよかった。灯りと、水と、温度と、部屋。

 今は、絞っても意味がない。ずっといていいかどうかは、灯りの話ではない。


「……確かめます」

「はい」

「今日中に。すみません」


 エマさんは少し困ったような顔をして、それから鍋の方へ戻っていった。


 * * *


 管理棟へ行った。

 通りの雪は朝のうちに片付けられていた。日は出ているのに、風だけが冷たい。

 広間に入ると、ニコが立っていた。

 ここの空気はいつも埃っぽい。


「ニコ」

「はい、仮管理者」

「先に、変更をお願いします」

「どうぞ」

「ハンスくんとレニくんの部屋を分けます。二階の、いま空いている方へ」

「割り当てを変更します。ほかにございますか」

「北の保管棟を、工房の材料置き場に回します」

「備蓄用の倉庫です」

「はい。いまは空なので、リタさんの材料を移します」

「用途を変更します」

「いまは以上です」

「承知しました」


 二つとも、口で言っただけで通った。

 元の世界なら、どちらも紙を書いて、判をいくつかもらって、早くて来週になっている。ここでは俺が言えば決まる。半年、そうしてきた。


「もう一つ、訊きたいことがあります」

「どうぞ」

「この場所を、人がずっと住む場所として使い続けること。それは、誰が決められますか」

「正式な管理者です」

「私では」

「仮管理者に決定権はありません」


 最初の日に、ニコは両方を言っていた。

 できることと、できないこと。俺があのとき気にしていたのは、できることの方だけだった。


「正式な管理者は、どうやって設定できますか」

「上位管理権限による登録が必要です」

「その上位管理権限は、誰が持っていますか」

「正式な管理者です」


 小さく息を吐いた。


「確認します。正式な管理者を登録するには、正式な管理者が要る、ということですか」

「はい」

「ほかに道はありますか」

「ありません」


 やってみないと分からない、という話ではない。分かっていた。

 それでも一度やっておかないと、諦めた理由が「たぶん駄目だから」になる。


「ニコ。正式な管理者を登録してください」

「対象は」

「私で」


 中枢の壁に手をついた。冷たかった。


   正式管理者:不在

   仮管理者:1

   原因:権限不足


 ニコが表情を変えずに口を開く。


「登録できません。上位管理権限が要ります」

「はい」


 手のひらの下は、何も変わらない。


 輪になっている。

 正式な管理者を立てられるのは、正式な管理者だけだ。一人でも残っていれば続く。残っていなければ、そこで止まる。

 最後の一人が抜けた時点で、二度と増やせない作りになっていた。


 悪い作りだとは言えなかった。

 誰でも管理者を登録できるなら、俺のような人間が五百年後に入ってきて、自分で自分を管理者にできてしまう。それを止めるための形だ。止め方としては正しい。

 正しいから、開かない。


 元の世界にも、同じ形の事故はあった。一人だけの担当が辞めて、誰も入れなくなる。作った側へ問い合わせれば、たいていは済んだ。

 今ここに、問い合わせる先の正式な管理者は、いない。


 正式な管理者と仮の管理者。

 俺は仮でしかない。だから、いつか本物が来るんだと、どこかで思っていた。


「ニコ」

「はい」

「本物は、来ないんですね」

「本物、とは」

「正式な管理者です」

「登録される見込みはありません」


 この場所は、いつか渡すものだと思っていた。

 渡す相手は、来ない。


 壁から手を離さずに、もう一つ確かめた。

 管理の側の記録。あるのは知っている。読めないのも知っている。それでも一度、触れておきたかった。


   原因:権限不足


「ニコ」

「はい」

「正式な管理者は、いつからいないのですか」

「五百二年前。都市の放棄と同じ日です」

「同じ日」

「はい」


 住民登録が全件破棄されたのも、同じ日だった。

 その日に、全部が一度に止まっている。


 ヴェルナー。最後の正式な管理者。

 なぜいなくなったのかは、この向こうにある。俺には読めない。

 想像で埋めることはしない。原因というのは、だいたい想像より地味だ。


 分かるのは、抜けたあとが空のままだということだけだった。


 * * *


 外へ出て、工房区画の方へ足が向いた。

 用があったわけではない。まっすぐ食堂へ戻ると、エマさんに答えなければならない。


 リタさんは炉の前にいた。こちらを見たが、手は止めなかった。


「なんだ」

「いえ」

「用が無いなら邪魔だぞ」

「……あります」

「なら言え」


 鋏で炉の口の中を直しながら、そう言った。


「この場所を誰の物として扱うか。私には決められません」

「知ってる。仮だろ、お前」

「知ってましたか」

「自分で言ってたぞ、前に」


 言った覚えはある。フィーネさんにも、ダグさんにも言った。

 あのときは、それで話が終わっていた。


 リタさんは、少しだけ目を細めた。


「決められる人は」

「いません」

「いない」

「はい。五百年、いません」


 リタさんが手を止めた。炉の中で、火が鋏の先の形に少しだけ寄る。


「じゃあ、当分そのままだな」

「そうなります」

「なら今日は困らん」

「……はい」

「困る日が来たら持ってこい。今日は火を見てる」


 そういう人だと知っている。

 知っているのに、来るたびに少し軽くなる。何も決まっていなくても、それは確かだった。


 * * *


 夕方、食堂へ行った。

 鍋は下ろしてあって、エマさんは布巾を畳んでいた。隅でハンスくんとレニくんが、木の欠片を並べて何か作っている。


「エマさん」

「はい」

「朝の話です」


 彼女は布巾を置いて、こちらを向いた。


 言うことは決めてきた。

 嘘をつかないこと。分かることと分からないことを、混ぜないこと。それだけだ。


「ずっといていいかどうかは、私には決められません」


 エマさんの手が止まった。


「……そう、ですか」

「決められる人が、いまいません。五百年前から、いません」

「……はい」

「ですから、出ていってもらう理由も、いまのところどこにもありません」


 言ってから、ずるい言い方だと思った。

 決められないことを、そのまま安心の材料にしている。


「私に決められるのは、灯りと、水と、温度と、部屋です。それは続けます。私がここにいるあいだは」

「シュウさんがいなくなったら」

「……分かりません」

「はい」

「それも、いま困っていることの一つです」


 エマさんは、しばらく黙っていた。

 それから、畳んだ布巾を台の端に置いた。


「訊いてよかったです」

「はい」

「訊かないと、ずっと気になってたと思うので」


 彼女は鍋を持ち上げて、水場の方へ歩いていった。

 隅では、レニくんが並べたものを一度崩して、ハンスくんがまた並べ直している。


 部屋へ戻る途中、廊下の灯りを一つ点けた。

 点けられる。直せる。増やせる。この街の中のことなら、たいていのことはできる。

 できないのは、ここが明日も同じ場所であることを、誰かに約束することだけだった。


 街の帳面には、訊く先として俺の名前が載っている。

 載った数日後に、答えられない質問が来た。訊く先というのは、そういうものらしい。


 仮の管理者。

 明日も、そう呼ばれる。


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