38:これ、鍵です
ニコと一緒に第二居住区へ入った。
名前だけは前に見ている。十三ある居住区の二つ目。用途、居住。
現時点で生活に使っているのは第一居住区だけだ。それ以外の居住区はどこも五百年前のまま止まっている。
いま困っているわけじゃない。困っていないうちに、何がどれだけあるのかを調べておくと、後が楽だ。
供給は止まったままなので、灯りを提げて歩く。
通りの造りは第一と同じだった。戸を開けて、廊下を覗いて、床が抜けていないかを見る。
一軒目は床が抜けていた。窓が割れていて、雨が入ったのだろう。二軒目は、見た限りでは無事だった。
どちらの建物も、開けた扉の内側に、第一居住区では見なかったものが付いていた。
拳ほどの窪みがあって、中に魔石が一つ嵌まっている。
外からは触れない。閉めてしまえば、扉ごと内側だ。
手を当てた。
認証機構:正常
五百年経って、まだ動いている。
こちらが誰かを確かめるだけの仕組みなら、使用量は少ないのだろう。
第一居住区の建物に、これは無い。同じ都市の中で、区画ごとに考え方が違うらしい。
他にも違うところはあるかと、入り口付近を眺めてみた。
戸口の内側に、糊の跡が四角く残っていた。何か貼ってあったらしい。紙の方は無い。
三軒目の扉は、動かなかった。
押しても引いても、指一本ぶんも動かない。
扉の面に手をついた。窪みは中だ。手は届かないが、これくらいは出る。
認証機構:正常
原因:権限不足
鍵がかかっている。
ほかはみんな、鍵をかけずに出ていったのに、この家だけきちんとかけていったことになる。
扉も認証機構も壊れていない。俺が通れないだけだった。
「ニコ」
「はい」
「ここ、私では開けられませんか」
「開けられません。この建物の開放には、上位管理権限が要ります」
最初の日に、管理棟の扉は俺を通した。
あれは設備を収めた建物だ。こちらは人の家で、俺は入れない。
災害復旧のために出る権限は、機械までしか届かないようにできている。
よくできている、と思った。
「上位管理権限は、誰が持っているんですか」
「正式な管理者です」
「その人は」
「登録されておりません」
上位管理権限。
ニコを直した日、同じ言葉を聞いている。
あのときは期限が消えるだけで十分だった。上位管理権限が何を指すのかを、考えたことがない。
残りの建物を見て回った。同じような建物がほかに四軒。どれも扉は開いた。それと、第一居住区にもあった保管棟。
その日は帰った。確認しにきただけだった。開かない一軒があっても困らない。
困らないのに、気になって毎日、見にいってしまった。
* * *
三日目の夕方、フィーネさんが来た。
巡回の帰りらしく、鎧のままだった。食堂で行き先を聞いて、こちらまで歩いてきたらしい。
一時通行権限を、この区画まで広げた。三度目の広げ直しになる。
「何してるの?」
「開かないんです」
「壊れてる?」
「壊れていません。だから開かないんです」
説明しながら、扉の合わせ目を指した。埃が入り込んで、五百年ぶんの線になっている。
フィーネさんが扉に手をついて、顔を寄せた。
音がした。
その手の下で、扉が内側へ指一本ぶんだけ動いた。
「え」
「……開きましたね」
「開いた。なんで」
「動かないでください」
彼女は手をついたまま止まった。
扉のふちに手を当てる。何も出てこない。壊れていないものは、直すところがない。
それから、彼女の姿を見た。いつもの軽装鎧。金茶色の三つ編み。扉に触れている手は剣を握る人のものだ。
ふと、手首が目に留まる。
いつも着けているブレスレットがある。飾りの石が一つ。親指の先ほどの大きさで、細かい文様が彫ってある。留め具だけが新しい。替えたのだろう。
「フィーネさん。それ、いつから持っているんですか」
「これ? うちに代々あるやつ。ばあちゃんが母さんに渡して、母さんがわたしに」
「何のためのものだと」
「知らない。誰も知らない。綺麗だから着けてるだけ」
理由は残らなかった。物だけが残って、まだ動いている。
フィーネさんは扉から手を離すと、手首を目の高さまで持ち上げた。なぜか嬉しそうだった。
「え、え、これ、わたしの血に反応したとか?」
「いえ。これ、鍵です」
フィーネさんの肩が下がる。
「……鍵」
「はい」
「もうちょっとこう……ないの?」
「何がです?」
フィーネさんは口を閉じて、それからブレスレットを外した。こちらへ差し出してくる。
「はい」
「いいんですか」
「試すんでしょ」
受け取って、扉を閉めた。開いたままでは試せない。
窪みのあたりへブレスレットを当てる。内側で、かちりと音がした。
持ったまま離れる。フィーネさんが押した。動かない。
俺が戻って押すと、開いた。
「やっぱりこれです」
フィーネさんは今度はぽかんとした顔になった。
「……ほんとに鍵なんだね」
「はい」
彼女は少し考えるように首を傾けた。
それから、眉を寄せた。
「わたし、いま何の役にも立ってない」
「持っていたのはフィーネさんです」
「持ってただけだよ」
「持っていた人が、五百年ぶん誰かいたということです」
ブレスレットを返した。彼女は受け取って、指の腹で一度撫でた。
灯りを持って中へ入った。
寒い。外より寒い。五百年ぶん動いていない空気は、こういう冷え方をするらしい。
窓は割れていなかった。雨も風も入っていない。
散らかっていなかった。
それが、いちばん先に分かったことだった。
あまりに生活がそのまま残っていて、勝手に入るのはためらわれた。
フィーネさんと二人、部屋の入り口で止まって、灯りだけ入れる。
そうやって一部屋ずつ見ていった。
廊下に扉は四つあった。一番奥に階段が見える。
三つは、居間や台所、物置みたいな家族で使う場所に見えた。
器が伏せて重ねてある。炉の灰は掻き出してあって、底が見えている。
どれも、次に使う人のためというより、戻ってくることを想定しているように見えた。
残りの一つに、寝台があった。寝具は畳んである。
布が残っている。俺の部屋には、何も残っていなかった。
「この部屋の人、階段を使わなかったんだね」
フィーネさんが入り口から覗き込んで、言った。灯りを少し下げる。
「わたしも同じことするよ。上がれない人がいたら、下の部屋で寝てもらう」
階段を上がって二階を見る。廊下に、同じ形の扉が六つ並んでいた。
寝室だった。どの部屋にも寝台が一つ。寝具はその上で畳まれている。
どの部屋も同じように片付いていた。
「片付けてる」
フィーネさんが言った。灯りを高く持ち上げて、部屋の隅まで照らす。
「逃げたんじゃないんだ」
「そう見えます」
持っていかなかったものが残っていた。
重いもの。大きいもの。割れやすいもの。歩いて運ぶには向かないものばかりだ。
抱えて出た荷の中身が、残ったものの側から見えてくる。
台所の隅に桶が二つ、重ねて置いてあった。
誰かの部屋では窓の下に糸巻きが並んでいた。使いかけの一つだけ、糸が半分残っている。
別の部屋の台の上には、蓋の合わない壺が一つ。
どれも、置いていくと決めた人が、決めたなりに揃えた並びだった。
工房区画のようなものは何も無い。ここに住んでいたのは、道具を作る側の人ではなかったらしい。
階段を下りたところで気づいた。
廊下の壁に、横向きの小さな傷が並んでいた。
俺の腿の高さほどのところに一本。その少し上に一本。また少し上に一本。四本目で止まっている。
背の高さを刻んだ跡だ。四本目のあとが無い。
俺は目を逸らした。
この家にあるもののうち、いちばん見なくていいものだった気がした。
物音がしない。俺たちの足音だけが、廊下の奥まで行って跳ね返ってくる。
フィーネさんは、台所をしばらく見ていた。
動かなかった。俺も何も言わなかった。
* * *
帰りぎわに、戸口の内側で足が止まった。紙が一枚貼ってある。
糊は乾いて、端が反り返っている。字は大きい。誰にでも読めるように書かれていた。
『ヴェルナー様の指示を待つこと』
その下に、別の字で書き足してあった。細くて、急いでいる。
『ヴェルナーさんは、まだ戻らない』
同じ紙の上で、様がさんに変わっていた。
待っているあいだに、呼び方の方が近くなったらしい。
一軒目にも二軒目にも、同じ大きさの糊の跡があった。どの戸口にも貼ってあったのだろう。
「ねえ、シュウさん」
フィーネさんが紙を見たまま言った。
「うち、代々言われてるんだ。一人も見捨てるな、って」
「聞きました」
「その言い伝え、ここから出たんだと思う。うちの家系、旧市街から逃げた人たちの子孫だから」
「はい」
彼女は一度、紙から目を離した。それからまた戻した。
「この人たち、ちゃんと片付けて出てったよね」
「はい」
「順番も決めて、待つ人は待って」
「そう見えます」
「……それで、街は捨てたんだよね」
何か言おうとして、やめた。
俺が言うことではない。
人と街は別だ、とでも言えば形にはなる。ただ、この部屋でそれを言うのは違う気がした。
彼女は紙の前から動かなかった。
「わたし、これ、強い言葉だと思ってたんだ」
「はい」
「一人も見捨てるな、って。かっこいいでしょ」
「はい」
「でもさ。……置いていったからなのかもしれない」
フィーネさんは、それきり何も言わなかった。
紙は、そのままにしておいた。貼った人が貼った場所に、貼ったままでいる方がいい気がした。
扉を閉めた。フィーネさんに、ブレスレットを窪みのあたりへ当ててもらう。かちり、と鳴る。押しても、もう動かなかった。
彼女は、それを着けなおした。
* * *
フィーネさんが帰ってから、ニコに訊いてみた。
「ニコ」
「はい」
「ヴェルナーという人を知っていますか」
「住民登録にはありません。登録は、都市の放棄と同じ時刻に全件破棄されています」
「管理の側の記録には」
「あります」
「ヴェルナーの記録ですか」
「はい。最後の正式な管理者です」
「なぜ、いまは登録が無いんですか」
「上位管理権限が要ります」
扉と同じだ。壊れてもいないし、消えてもいない。あるのに、俺には出せない。
俺の権限では開かなかった扉。
その中に、その扉を開けられた人の名前が残っていた。
指示を出す側にいて、みんなが待っていて、戻らなかった人。
なぜ登録が残らなかったのかは、記録の側にある。俺には読めない。
俺は仮の管理者だ。ヴェルナーという人は、仮ではなかった。
どこかで、何かが終わっていない。分かるのはそこまでだった。




