35:停止したら洒落にならない
翌朝、食堂でニコを捕まえた。
「ニコ」
「はい」
「管理棟まで付き合ってください」
「承知しました。作業の内容は」
「外周防衛結界を、読みます」
少し間があった。
「立ち会いますか」
「立ち会ってください。私が倒れると、面倒なので」
「承知しました」
管理棟の広間は、埃の匂いがした。
中枢の壁へ手をつく。
外周防衛結界:正常
街の結界では、二度覗いて二度倒れた。
こちらの結界も、それと同じくらい大きい。
(……行くぞ)
正常と出ているその先へ、意識を向けた。
警戒値超過:記録あり
あるに決まっている。同じ荒野に面して、同じ魔物を相手にしているのだから。
警戒値超過記録:196,880件
直近1年:394件
十九万六千八百八十。去年一年だけで、三百九十四。
五百で割った。三百九十三と少し。
毎年同じくらい発生しているということだ。
教会で読んだ数は、十三万二千五百三十一だった。直近一年が二百七十一。
こちらの方が多い。年に百二十ほど多い。
超過の記録を、一つずつ辿った。超えて、戻る。超えて、戻る。
どれも短い。指を折るあいだに収まっている。教会で見たものと、同じ形だった。
別のところへ意識を向けた。
第一から第四まで、四つで外壁を分けている。まだ一人だったころに直したものだ。
その下に、もう一行あった。
内周防衛結界:停止
内周。
読んだところで、視界の端が滲んだ。
「仮管理者。生体反応が基準値を下回っています」
「……はい」
「中断を」
「します」
手を離した。
離すと決めてから実際に離すまでに、少し時間がかかった。もう一行だけ、と思ったぶんの時間だ。
壁に背を預けて座り込む。天井が高い。
前に、フィーネさんに指を三本立てられている。三回目は無し、と言われた。
約束は守った。守ったのに、負けたような気分だった。
* * *
翌日、フィーネさんが巡回の帰りに寄った。
彼女は外套を脱いで、椅子の背にかけた。
「シュウさん、顔がひどいよ」
「昨日、少し無理をしました」
「少し」
「……少しです。倒れませんでした」
彼女は器を置いて、こちらを見た。何か言うかと思ったが、言わなかった。
「フィーネさん。外を一緒に回ってもらえませんか」
「外って、壁の外?」
「結界の内側です。壁沿いに、ぐるっと」
「いいけど、なんで」
「数の意味が、私には分からないので」
フィーネさんの一時通行権限を発行し直した。移動範囲は外周――外壁と結界の間。
外へ出ると、風が首から入った。
通りの雪は片付けられ、踏み固められていたが、壁を越えると手つかずで、足首まで埋まった。
外壁は高い。上の方は崩れかけていて、隙間から冬の空が見える。崩れた石は壁の下に落ちて、雪をかぶった山になっている。
その外側に、半透明の膜が立っている。雪の白の上だと、かえって薄く見えた。
二人で、その間を歩く。
「昨日、結界の記録を読みました」
「読めるんだ」
「五百年ぶん、残っていました。去年一年で、魔物が多かったのが三百九十四回です」
「……よく分かんない。それ、多いの?」
「街の壁は、二百七十一でした」
「え」
「こちらの方が、年に百二十ほど多いです」
フィーネさんは足を止めた。膜を見上げて、それから外壁の上の方を見た。
「そりゃそうだよ」
「そうですか」
「街の外はね、隊が回ってるの。朝と夕方と、夜も一組。近づいてきたやつは、壁に着く前に減らしてる」
「……ああ」
「ここは誰も回ってない。五百年ずっと」
街の数が少ないのは、壁が強いからではなかった。
着く前に減らしている人がいるからだ。
「よく知ってますね」
「回る側だもん、わたし。報告書に書くのはそっちの数じゃないけどね」
「報告書、ですか」
「斬った数は書けるの。近づく前に散らしたのは書けない。何も起きてないから」
返す言葉が出てこなかった。
雪を踏む音が二人ぶん、しばらく続いた。
「昇級の話ね、また流れたんだ」
「……そうですか」
「怒ってるわけじゃないの。斬った数で決まるのは、そりゃそうだと思うし」
「はい」
「わたしのスキル、<危機感知>だから。近くで誰かが危ないときに分かるだけ。それだけなの」
「はい」
「それだけだと、書くことがないんだよね」
三百九十四と、二百七十一。この差の理由が、いま隣を歩いている。
「フィーネさん」
「うん」
「さっきの百二十は、隊が減らしている分です」
「……そんなふうに数えたこと、ないけど」
「五百年ぶん積むと、六万になります」
フィーネさんが足を止めた。
「六万」
「はい。どこにも書かれていない六万回です」
「……わたしだけじゃないよ」
「はい。五百年、ずっと誰かが回っていた分です」
フィーネさんが、また歩き出した。
「記録に残るのは、間に合わなかった分だけです。間に合った分は、何も起きないので残りません」
「うん」
起きなかったことは、数えられない。
コンラート司祭に言われた言葉だ。覚えておきます、と答えた。
「異常を早く見つけられることが、一番効くんです」
「……え?」
「斬った数より、散らした数の方が多いはずです。数えられていないだけで」
フィーネさんは、しばらく何も言わなかった。
膜の方を向いたまま、一度だけ鼻をすすった。
「寒いね」
「はい」
「……うん。寒い」
角を二つ曲がって、壁沿いを半分ほど来た。
石の壁の方は、下まで崩れているところが四つあった。どれも、落ちた石を越えれば通れる。
膜はどこまでも一枚だった。同じ厚さで、同じ高さで、ぐるりと。
昨日の最後の一行を思い出した。内周防衛結界、停止。
目の前のこの一枚が停止したら、その内側にあるのは外壁だ。でも、壁は崩れている。
(人が増えた以上、停止したら洒落にならない)
* * *
翌日はまた管理棟へ行った。途中になった一行がある。
「ニコ。内周防衛結界とは、何ですか」
「外周の内側にある、二枚目です。外周を突破されても、内側で止めます」
「動いていた記録は」
「記録はすべて五百二年前に破棄されています」
外が突破されても、内側で止める。
俺が昨日ようやく思いついたところに、五百年前の誰かはとっくに立っていた。慣れてきた。
「制御盤はどこですか」
「管理棟にあります」
五百年動かしていないのだから、石は死んでいるだろう。また八つ買うことになる。
そう思って、リタさんを呼んだ。
呼ぶ前に、彼女の通れる建物に管理棟を足しておいた。
制御盤は、管理棟の地下にあった。外周用と内周用の二つが並んでいる。
開けてみて、手が止まった。
どちらにも、石を嵌める窪みが無い。太い経路が二本、揃って床の下へ伸びている。
ニコを振り返る。
「石はどこですか」
「この下です」
梯子を下りた先は、天井の低い、広い部屋だった。
真ん中に、石が一つ据えてある。拳ほどの、あの石ではない。大人が隠れられるくらいの塊が、床から生えるように置かれていた。灯りを近づけると、鈍い光が奥の方まで入っていく。
リタさんは、しばらく黙っていた。
やがて「は」と息を吐き出した。
「……こんなもん、見たことがない」
「作れますか」
「作れん。切り出せる場所も知らん。たぶん、誰も知らない」
手を当てた。
供給系統:正常
接続口:3
管理棟:正常
外周防衛結界:正常
内周防衛結界:停止
二つ。外と内だ。
管理棟と結界二枚が、この石ひとつから出ている。
五百年替えずに済んだ理由が、目の前にあった。同じ石が、面倒な事実でもあった。
結界が二枚あっても、ここが尽きれば二枚とも停止する。
元の世界には、この形に名前がついていた。単一障害点。
街の結界は、三年ごとに替えられる。手間が要るかわりに、替えがきく。
こちらは五百年、手間が要らなかった。かわりに、替えがきかない。
どちらが優れているという話ではなかった。同じものを用意できなかった人たちが、用意できないなりに考えた形が、あちらだ。
外周と内周、二枚とも常に動かしておけば、魔物が増えても何もしなくていい。その代わり、この石が二枚ぶん減る。
減った分は戻らない。買えないし、作れない。
* * *
内周防衛結界を直すのに、三日かかった。
場所はニコに訊いた。紋様は外壁の内側を一周している。壁沿いではない。あいだに、区画ひとつぶんの幅が空けてあった。
何もない草地だ。外が破られても、魔物はまずそこへ入る。人の寝ている区画までは、距離がある。
雪で埋まった紋様を、ヤンさんとテオさんが掻き出す。俺が順に手を当てていく。
一日目も二日目も、夕方になる前に頭の芯が重くなった。
「ニコ。今日はここまでにします」
「承知しました」
「明日、続きをやります。中断と、記録しておいてください」
「承知しました」
誰も困っていない。だから、やめられる。
やめられるうちは、やめておく。
三日目の夕方に、内周は動かせる状態になった。
「ニコ。内周を、待機にします」
「待機」
「停止したまま置いて、必要なときにだけ動かします。条件を言います」
「承知しました」
「外周の警戒値を超えたら――」
言いかけて、止めた。
超えるだけなら、去年三百九十四回あった。それで動かすなら、ほとんど毎日動かすことになる。
昨日辿った形を思い出す。超えて、戻る。どれも短い。
一つだけ、長いものがあった。五か月前の夜。超えたまま、朝まで戻らなかった記録。あの夜、北の境目には隙間が空いていた。俺が片方だけ直したせいだ。
「言い直します。警戒値を超えて、二十数えるあいだ戻らなければ、内周を動かしてください」
「数ではなく、続いた長さで判断するのですか」
「はい。数はいつも超えます。超えたまま戻らないことの方が、いつもと違うところなので」
「承知しました」
「動かしたら記録して、私かリタさんに知らせてください。停止は、人が判断します」
「承知しました。投入の試験は」
訊かれるとは思っていなかった。
「……三か月に一度で」
「承知しました。理由を記録に残しますか」
「残してください」
さっそく、その日のうちに試験をやった。
驚かせても仕方がないので、先に声をかけた。夕方、通りの突き当たりに全員で並ぶ。ハンスくんが前に出て、エマさんに襟をつかまれている。
「動かします。ニコ、お願いします」
「承知しました」
突き当たり、空き地との境に、二枚目の膜が立ち上がった。
その向こう、区画ひとつぶんを挟んだ先に、外の一枚が立っている。
「二つある!」
ハンスくんが言った。レニくんが指を差して、ふたつ、と言った。
リタさんは腕を組んで、膜の縁を下から上まで眺めている。
* * *
その夜、門まで歩いた。門を出て、結界に手を当てる。
内側の一枚は、今は動いていない。動いてないだけで、ないわけではない。
外周防衛結界:正常
内周防衛結界:待機
正常と、待機。
二行になった。
結界の膜越しに街の方を見た。遠くに灯りの列が見える。
あちらは人がいて、隊が回っていて、三年ごとに石が替わる。記録の数も、こちらより百二十少ない。
あちらは大丈夫だ。
そう思って、背を向けた。




