31:直らなければ死人が出ていた
四十三日目の夕方、門の内側の雪を寄せていたヨナスさんが、外に人がいる、と知らせに来た。
行ってみると、コンラート司祭だった。法衣の上に外套を羽織って、肩から袋を提げている。
「一時通行の許可を出します。少し待ってください」
「お手数をおかけします」
門の内側へ入ると、操作盤の脇にニコが立っていた。呼んだ覚えはない。
「一時通行権限を発行します。一人です」
「承知しました」
外へ戻って、条件を伝えた。
「南門から第一居住区までです。設備の操作はできません。管理区画には入れません。期限は二十四時間です」
「順が決まっているのですか」
「範囲、操作、期限です。……決めた覚えは、ありませんが」
言ってから、気づいた。
いつも同じ順で言っている。フィーネさんのときも、避難民のときも、ダグさんたちのときも。一度も違う順で言ったことがない。
「決まっていました」
「順は、身体が覚えます」
彼の前の膜が薄くなって、通り抜けると、また戻った。
結界を抜けたところで、彼は足を止めて、上を見上げた。
「どうかしましたか」
「いえ。前に伺ったときは、中まで入りませんでしたので」
そうだった。前は門の外に立ったまま、中へどうぞと言っても入らなかった。
この門をくぐるのは、この人は初めてになる。
「ご用件は」
「これです」
彼は袋からノートを出した。使った跡がない。
「欄を作りました。次の帳面から、と申し上げましたので」
開いて見せられた頁に、縦の線が引いてあった。
字は読める。書けないだけだ。
「日付。対象。変える前。変えたあと。理由」
「はい」
「それと、誰が変えたか」
「六つですね」
「六つです」
同じだった。
あの日、ニコに言いながら数えていって、六つになった。教会の記録帳と遺跡の記録。示し合わせたわけでもない。
「うちも六つです」
「……六つ、ですか」
「日付、対象、前、あと、理由、担当者です」
「同じですね」
「同じです」
彼はもう一度、開いた頁へ目を落として、それから閉じた。
通りを歩いていくと、向こうから人が二人来た。ヤンさんとテオさんだ。煤のついた前掛けのまま、会釈して擦れ違っていく。
廊下の途中でリタさんとすれ違った。炉の部品らしいものを提げている。
「客か」
「教会の方です」
「ふうん」
それだけ言って、行ってしまった。
階段の下では、エマさんのところの子供が二人、走って下りてきて、コンラート司祭を見上げて、そのまま走っていった。
「……賑やかですね」
「はい」
食堂の入口で、彼は一度立ち止まった。
「ここですか」
「はい」
「五百年、誰も入れなかったところに、食堂ができている」
「そうです」
いつのまにか足元にトモが来ていて、外套の裾に頭を押しつけている。
「弐号・補助。業務中です」
ニコが呼んだが、トモは動かなかった。
コンラート司祭は屈んで、その背を撫でた。
* * *
人が引けてから、食堂の隅で飲んだ。
彼は袋から瓶を出した。器は棚から二つ取った。いつのまにか置かれていたもので、揃ってもいない。
注がれたのは、教会で飲んだのと同じ濃い色の酒だった。口をつけると、喉の奥が一度だけ熱くなる。
「先日は」
「はい」
「……何も申し上げられませんでした」
聖典の話だ。
あの部屋で、この人は司教の斜め後ろに立っていた。最後まで一言も喋らなかった。
俺は首を振った。
「司教のおっしゃったことは、間違っていません」
「間違っておりません。ええ」
「私は、答えられませんでした」
彼は器を空にして、自分で注いだ。二杯目からは速い。
「あなたに読まれてから、うちの若い者が、朝の祈りを覚えたがるようになりました」
「司教からも、そう伺いました」
「良いことです」
二杯目も、すぐ空になった。
「良いことです。……ええ、良いことです」
同じ言葉を三度言った。
彼は外套を脱いで椅子の背にかけ、襟元の留め具を外した。
「サガラさん」
「はい」
「私は、二十年、何を守っていたんでしょうね」
「順番を守っていました」
コンラート司祭の声の高さは変わらなかった。変わったのは、間の取り方の方だった。
教会の夜と同じだ。
「順番です。順番だけです」
「順番が残っていたから、意味が読めました」
「……それは、前に伺いました」
俺に言えるのは、起きたことだけだ。でもそれは、前にも一度言ったことだった。
それ以上何を言えばいいか分からない。
トモが椅子の脚のあいだから出てきて、彼の足元で丸くなった。
コンラート司祭は、また屈んで背を撫でた。
「……この子は、よく来ますね」
「はい。子供たちにも懐いています」
「昔からです。犬でも、馬でも、鳥でも。放っておくと寄ってきます」
「スキルですか」
「ええ。<動物親和>といいます」
初めて聞く名前だった。
この世界のスキル名は、たいてい、どの仕事に向いているかを言っている。<修復>なら職人で、<危機感知>なら守備隊だ。
<動物親和>なら、動物使いだろう。
「動物使いですか」
「なれません」
「そうなんですか」
「好かれるだけです。言うことを聞かせられるわけではありませんし、仕込み方も、群れの読み方も知りません。習っておりませんので」
彼は器を持ち上げて、中を見た。
「習えば、なれたかもしれません」
「……」
「うちは代々、教会です。物心つく前から決まっておりました」
「はい」
「一度だけ言いました。十くらいのころです。動物使いになりたい、と」
「なんと言われましたか」
「そうか、と」
それだけだったらしい。
「怒られてもおりません。話が続かなかっただけです」
彼は空になった器を、指先で回していた。
窓の外は、とうに暗い。廊下の灯りも、もう半分落としてある。
「もう遅いですが、大丈夫ですか」
「明日は当番が入っておりません」
「では、泊まっていってください。部屋なら余っています」
「余っている、というのは」
「五百年ぶんです」
彼は少し笑った。笑った顔を見るのは、二度目だった。
彼の器に三杯目を注いでから、俺は言った。
「二十年、事故を起こさず維持したんでしょう」
「……」
「一度も止めずにです。私にはできません」
コンラート司祭は、しばらく黙っていた。器を置いて、指を組んで、それから顔を上げた。
「サガラさん。あなたも同じですよ」
「何がです」
「あなたは、直しただけ、とおっしゃる」
「事実ですので」
「街で建物が崩れたとき、うちが人を選んで、こちらへ送りました」
「はい」
「あのとき、ここはそれだけの人が住める状態でしたか」
「……いいえ」
彼は器を置いた。
「直らなければ死人が出ていたんですよ」
否定しようとした。
口が動かなかった。
いつもの言い方は決まっている。不具合を直しただけです。手を動かしたのはリタさんです。直したのはヨナスさんたちです。何度も言ってきた。言えば済んだ。桶を提げたエマさんにも、フィーネさんにも、そう言った。
今日は、済まなかった。
「……スキルが」
「スキルの話をしているのではありません」
遮られた。この人に遮られたのは、初めてだった。
「私は、あなたの言い方が分かります。私も、同じ言い方をしますので」
「……はい」
「二十年、事故がありませんでした、としか言えない。何をしたか、ではなく、何が起きなかったか、でしか言えないのです」
「はい」
「起きなかったことは、数えられません」
その言葉が、まっすぐ入ってきた。
この世界の話ではなかった。俺がずっと立っていた場所の話だった。
しばらく、どちらも喋らなかった。
やがて、彼は組んでいた指をほどいた。
「……失礼しました」
「いえ」
「今のは」
「忘れてください、ですか」
「……ええ」
「前に一度、同じことを言われました」
「言いました」
「あのときは、忘れませんが誰にも言いません、とお答えしました」
「覚えております」
「今回は」
言葉を探した。探しているあいだ、彼は待っていた。
「今回は、覚えておきます」
「……それは、慰めですか」
「事実です」
彼はそれ以上、何も言わなかった。
器を空にして、椅子の背から外套を取って、膝の上で畳んだ。
* * *
暗いうちに目が覚めた。癖になっている。
地下へ下りて、箱の正面に手を当てた。三つ数える。急がない。
供給系統:正常
供給上限:160
現在:42
声に出して読んだ。ニコが繰り返す。
蓋を開けて、石を左から順に見た。八つとも正常。最後に出力を三度読んだ。四十二、四十一、四十二。
「四十四日目、記録しました」
「はい」
「本日、変更はありますか」
「あります。第一居住区の三番目の棟を直します。三日かかります」
「理由は」
「人が増えてから直すのでは、間に合わないので」
「承知しました」
階段を上がると、食堂に灯りが点いていた。
コンラート司祭が、テーブルに向かって座っていた。法衣は襟元まできっちり留めている。髪も整っている。外套は畳んで、椅子の背にかけてあった。
「おはようございます、サガラさん」
「……おはようございます」
「昨夜は、お世話になりました」
昨夜のことに触れる気配は、まったくなかった。
いつものコンラート司祭に戻っている。
忘れておこう、と思ったところで、昨夜、自分が「覚えておきます」と言ったのを思い出した。
「何を書かれているんですか」
「昨夜の分です」
「昨夜の」
「一時通行の許可を一つ出していただいたこと。こちらの記録の欄が六つで、うちと同じであったこと」
「……それは、書くことですか」
「分かりません」
彼はペンを止めずに言った。
「分かりませんが、書いておけば、三年後に誰かが読みます」
門まで送った。
外套を着て、彼は街道を歩いていった。一度も振り返らなかった。
戻る途中、廊下で水音がした。奥の部屋を覗いてみると、エマさんのところの子供が摘まみを回している。出て、止まって、扉が閉まる音がした。
いつもの音だ。
直しただけだ、と頭の中で言ってみた。
言い終わる前に、昨夜の声が割り込んできた。
――起きなかったことは、数えられません。




