30:あれは誰のものになりますか
四十一日目の朝、地下へ下りた。階段は、七日前より冷たかった。
箱の正面に手を当てる。三つ数える。急がない。
供給系統:正常
供給上限:160
現在:41
声に出して読んだ。ニコが繰り返す。
蓋を開ける。石が並んでいる。見るのは左から順に。八つとも正常。最後に出力を三度読んだ。四十一、四十二、四十。
「四十一日目、記録しました」
「はい」
「三十八日目と三十九日目が、空欄のままです。どういたしますか」
「そのままにしてください」
「記録として、不備になります」
「不備です。読んでいないので」
「……承知しました」
埋めようと思えば、埋められる。前後の日から見当はつく。
見当で書いた記録は、明日から信用できなくなる。読んだ数と、たぶんこうだろうという数が、同じ顔で並ぶことになるからだ。
教会の記録帳に、そういう日は無いのだろう。抜けた日が無いのだから、埋める機会そのものが来なかった。
階段を上がりながら、頭の奥がまだ重いのに気づいた。
それでも、行くところは決まっている。
* * *
教会の門で取り次ぎを頼むと、若い聖職者が奥へ入っていって、すぐに戻ってきた。
戻ってきたのはラウルさんだった。
「サガラさん。ちょうど、こちらからお呼びするところでした」
「私を」
「はい。司教がお会いになりたいと」
司教という位を、初めて聞いた。コンラート司祭より上だということしか分からない。
「コンラート司祭は」
「先に入っておられます」
通されたのは、昼間の部屋でも、棚のある部屋でもなかった。
天井が高い。窓が縦に細長くて、光が床まで届いている。長机の向こうに、法衣の人が一人座っていた。
白髪を短く切り揃えた、六十くらいの女性だった。コンラート司祭は、その斜め後ろに立っている。
「よく来てくださいました。ヨハンナと申します」
「相楽修です」
「かけてください。長く立たせるのは、倒れたばかりの方に酷でしょう」
知られていた。
座ってから、机の上を見た。何も置かれていない。書類も、ノートも、水も無い。
「十七番のことは、聞きました」
「はい」
「巡回の順のことも」
ヨハンナ司教は、指を組んだ。
「うちの朝の祈りは、点検だそうですね」
「……はい」
「見たものを、書いて残す。順に読んでいけば、どこでいくつ減ったかが分かる。長く立つのは、幅を見るため」
彼女は、俺の言ったことを、俺より短く言った。
伝わっている。形が崩れていない。
「あなたのおかげで、若い者が朝の祈りを覚えたがるようになりました。理由の付いたものは、覚えが早いようです」
「……そうですか」
「礼を申し上げます。本当に」
頭を下げられた。
こういうとき、何と言えばいいのかは、いまだに分からない。
「不具合を、その、見ただけです」
「そうでしょうね。あなたはそうおっしゃると、司祭から聞いていました」
斜め後ろで、コンラート司祭が視線を落とした。
* * *
話が済んだところで、俺の方から切り出した。
「お願いがあって参りました」
「どうぞ」
「聖典を、読ませていただけませんか」
部屋が静かになった。
窓の光が、床の同じ場所に落ちている。
ヨハンナ司教が、背筋を伸ばしたまま俺を見ている。
「理由を伺っても」
「結界に、五百年一度も使われていない機能があります。使うための手順が、教会の手順書にありません。残っているとすれば、聖典だけです」
「その話も、聞いております」
「私は、それを読みたいわけではありません。読んで、何をすればいいのかを言えるようになりたいだけです」
言ってから、同じことかもしれないと思った。
ヨハンナ司教は、しばらく指を組んだままだった。
それから、こう言った。
「あなたは、うちの祈りを点検だとおっしゃった」
「……」
「間違っているとは申しません。おそらく、正しいのでしょう。司祭も、若い者も、そう申しております」
「はい」
「聖典を開くというのは、残りも全部そうする、ということです」
そこは、否定できなかった。
俺がやることは、いつも同じだ。中を見て、なぜそうなっているかを言う。祈りだろうと手順だろうと、やることは変わらない。
「開いて、あなたが読めて、私どもが読めなかったとします」
彼女は、初めて指をほどいた。
「そのとき、あれは誰のものになりますか」
返す言葉がなかった。
答えを持っていないのではない。答えが、俺の側にしかないことに気づいた。
「私どもは、五百年、あれを開いておりません」
「はい」
「開けないのではなく、開かずに済んできたのです。読まなくても、次の者へ渡せましたので」
渡せた。
灯火の継承で、七人が列に並んでいた。何も持たず、何にも触らず、端から端まで見ていた。
あれが渡し方だ。読まずに渡せる。渡せるから、開かない。開かないから、何が書いてあるのかも分からないままになる。
「そうやって渡してきたものの中に、切替が入っていない。あなたはそう言っている」
「はい」
「ええ。そうなのでしょう。司祭もそう申しておりますし、私も、あなたの言い分が通っているとは思います」
通っている、と言われた。
さっきも、正しいと言われた。
「ですが、今日お渡しする理由が、こちらにございません」
「……理由」
「何も起きておりませんので」
言い返さなかった。
言い返せる材料がない。
なにより、ここは俺の場所ではない。聖典は俺のものではない。読ませてくれと頼んで、断られた。それだけのことだ。
「……分かりました」
「お引き取りいただけますか」
「はい」
立ち上がってから、一つだけ訊いた。
「何かが起きたら、そのときは」
「そのときに、検討いたします」
答えになっていない。
なっていないことに、この人は気づいている。気づいたうえで、そう言っている。
部屋を出るとき、コンラート司祭が扉まで送ってくれた。
彼は何も言わなかった。俺も言わなかった。
* * *
門を出たところで、フィーネさんが立っていた。
守備隊の軽装鎧のままだ。巡回の途中に見える。
「シュウさん」
「フィーネさん」
「起きてる。良かった」
「三日前に」
「知ってる。見に行ったから」
こちらが言おうとしていたことを、先に言われた。
それでも、ちゃんと言うのが筋だろうとは思った。
「その、来ていただいたと聞きました」
「うん」
「それで」
そこで詰まった。
心配してもらった。それだけのことだ。それだけのことが、二十八年生きていて、まだ苦手だ。
「ありがとうございました」
「うん」
フィーネさんは、明るく頷いた。
けれどすぐに、腰に手を当てて難しい顔になった。
「でもね」
「はい」
「二回目だからね」
指を二本立てられた。
「一回目は仕方なかったかもしれない。二回目は、分かっててやったでしょ」
「……はい」
おとなしく頷いた。
フィーネさんの知らないところで、もう何回か倒れてる、とは言えなかった。
三本目の指が、立てられる。
「次は三回目だから」
「三回目は」
「無し。無いようにして」
彼女は指を下ろして、歩き出した。
三歩ほど行って、振り返る。
「なんか、うまくいかなかった?」
「……なんで分かるんですか」
「顔」
それだけ言って、行ってしまった。
街の門をくぐって、街道へ出た。
歩きながら、五か月前を思い出していた。
中枢部屋に立って、十三万件の数字を見て、何もできずに辞めた。あのとき俺が持っていなかったのは、許可だった。
今日は、頼める相手がいた。話を聞いてもらえた。礼まで言われた。
それでも、聖典には届かなかった。
断られたことに、腹は立たなかった。あの人の言い分は通っている。誰のものになりますか、と訊かれて、俺は何も答えられなかった。
見えているのに触れない。五か月前と、同じことを考えている。
聖典が開くのは、何かが起きたあとだ。
何かが起きたあとで間に合うのかは、読まないと分からない。




