29:前例がありません
「見るだけです。手は入れません」
「見るだけ、というのは」
「触りますが、何も変えません。読むだけです」
コンラート司祭は、少し考えてから頷いた。
「立ち会わせてください。私が居ないところで倒れられると、困ります」
倒れる前提だった。
前に一度、この建物で倒れている。覚えられていた。
「……はい」
中枢部屋の壁へ手をついた。
最初に出るものは、いつもと同じだった。
外周防衛結界:正常
供給系統:正常
警戒値超過:記録あり
三行目だ。
五か月前も、ここで止まった。あのときは、そちらへ意識を向けて、部屋を出たところで床が傾いた。
今日は、同じことを、承知の上でやる。
警戒値超過記録:132,531件
直近1年:271件
非常時運用への切替:実行記録なし
十三万二千五百三十一。
五か月前は、十三万二千四百十九だった。この数字を見て、俺はここを辞めている。
引くと、百十二。
直近一年が二百七十一なら、月に二十二か二十三。五か月で百十から百十五のあいだに入る。
入っている。
増えていた。ただし、増えて当たり前の増え方だった。
毎日のようにどこかで超えて、すぐ戻る。それを五か月続ければ、百十二回になる。何も変わっていないということだ。
変わっていないものが、もう一つある。三行目だ。実行記録なし。五か月前も、なしだった。
そこから記録の方へ意識を向けた。
超過が記録される瞬間の形を、一つずつ辿る。同じ区画で、同時に処理する数が決められた値を超える。超えたところで記録が残る。しばらくすると値が戻り、記録はそのままになる。
超えて、戻る。超えて、戻る。
どれも短い。長いものでも、指を折るあいだに収まっている。
百十二回とも、同じ形だった。
(性質は、変わっていない)
それを確かめてから、切替の側へ意識を向けた。
用意はある。五か月前に見たとおりだ。通常の運用から、別の運用へ移る道が、ちゃんと作られている。
その道に、足跡がない。
一度でも通れば、通ったという記録が残る作りになっている。残っていない。
もっと奥へ入った。新しい方から古い方へ、記録を順に遡る。
三百年前。四百年前。何も無い。
道はある。作った人間は、いつか使うつもりで作った。
五百年、誰も通っていない。
そこで、視界の端が白くなった。
* * *
天井に見覚えがあった。
宿舎の、右から三つ目の部屋だ。五か月前と同じベッドに寝ている。同じ木目が同じ場所にある。
起き上がろうとして、頭の芯が重いのに気づいた。二日ぶんくらいは持っていかれた感触だった。
「起きられますか」
声の方を見た。コンラート司祭が、ベッドの脇の椅子に座っていた。法衣の襟元は留まっている。膝の上にノートが開いてある。
「……何日ですか」
「丸一日と、少しです」
「そうですか」
言ってから、頭の中で数えた。
三十九日目。昨日も、今朝も、読んでいない。
ニコは記録するが、読めない。数を読むのは俺で、読まなければ記録はできない。
三十七日ぶんの記録に、二日、穴が空いた。
抜けている日は、ありません。
棚の前で、コンラート司祭はそう言った。五百年分の記録帳を指して。
こちらは三十九日で、もう抜けた。
教会では、当番が回る。毎朝入るのは一人だが、その一人が日ごとに替わる。誰かが倒れれば、別の誰かが入る。灯火の継承で列に並んでいた七人も、いずれ回ってくる側だ。
だから五百年、抜けない。
こちらは、読めるのが俺だけだ。俺が寝ていれば、その日は無い。
できるだろうか、と考えた。
教会の壁には目盛りが刻んであった。十ごとに数が添えてあって、誰にでも読めた。
遺跡の箱には、あれが無い。
同じものを、後から付けられるだろうか。
付けられるとしても、俺には作れない。
「サガラさん」
「はい」
「遺跡の方へは、使いを出しました。心配しないように、と」
思わず、顔を見た。
「……ありがとうございます」
「それと、さっきまで守備隊のエルフィーネさんが来ていました。遺跡で、いきさつを聞いたそうです」
「フィーネさんが」
「はい。巡回があるから、と行ってしまいましたが。心配なさってましたよ」
礼を言う相手が、もういない。
五か月前も、俺はこの部屋で寝ていた。同じベッドで、同じ天井を見ていた。
あのとき考えたことを、まだ覚えている。
知っている人はいる。心配してくれる人はいない。
今は――。
「前に一度、同じ状態のあなたを見ています。あのときは、代わりの手配をして帰りました」
彼はノートを閉じて、膝の上で揃えた。
「あれは、間違いではありません。私の仕事は当番を回すことでしたから」
「はい」
「間違いではありませんでしたが、それだけでした」
* * *
水を飲んでから、話した。
数字のことを先に言った。十三万二千五百三十一。五か月で百十二増えたこと。増え方が、それまでと変わっていないこと。
「では、何も起きていないということですね」
「はい。そこは、そのとおりです」
「では――」
「五百年、一度も切り替えられていないんですよ。この数字が出るたびに、何もしないまま」
言い方が強くなった。強くなったことに、言ってから気づいた。
コンラート司祭は、閉じたノートをもう一度開いた。
「切り替える、というのは」
「通常の運用から、別の運用へ移ることです。超過が続いたときのために、そういう仕組みが用意されています。用意されていて、五百年、一度も使われていません」
「……仕組みが」
「はい。私が見ているのは結界の側だけです。人の側のことは分かりません。だから伺います」
息を継いだ。
「非常時の運用へ切り替える手順は、教会の手順書にありますか」
コンラート司祭は、すぐには答えなかった。
膝の上のノートを見て、それから顔を上げた。
「ありません」
「一つも、ですか」
「手順書にあるのは二つです。朝の目覚めの祈りと、灯火の継承。それだけです」
「聖典には」
「……分かりません」
「分からない」
「開いたことがありません。私は、写しを渡された側ですので」
五か月前に、俺は同じ場所で同じ数字を見た。
あのとき分からなかったのは、切替の手順が人の側に残っているかどうかだった。結界を見ても、人が紙に書いたものは見えない。
残っているとすれば、手順書か、聖典のどちらかだ。
今日、片方が埋まった。手順書には、無い。
もう片方は、まだ分からないままだ。
* * *
答えが返ってきたのは、翌日だった。
俺は遺跡へ戻っていて、コンラート司祭がわざわざ来た。中へどうぞと言ったが、ここで結構です、と断られた。
「上へ諮りました」
「はい」
「経緯も、数字も、そのまま伝えました。あなたが五か月前と今回で二度読んだことも」
「はい」
彼はそこで一度、言葉を切った。
「前例がありません、と」
予想はしていた。していたのに、腹の底が重くなった。
「五百年、何も起きていない。それは事実です」
「はい」
「起きていないことに対して、何をするのかが決められません。手順が無いのですから、やれと言われても、何をやればいいのか、誰にも分からないのです」
それは、そのとおりだった。
教会が首を振ったのではない。頷いたとしても、次の行が無い。
俺にも無い。切り替えろ、とは言える。どう切り替えるのかは、言えない。
「私も食い下がりました。ですが、私の言い分は、要するに、あなたがそう言っているから、です」
「……はい」
「それでは通りません。通らないのが、正しいと思います」
正しい。
正しいと言われて、返す言葉がなかった。
前にも一度、この人に正しいことを言われて黙った。あのときは、黙ったおかげで何も壊れずに済んだ。
今度は、正しいまま、何も起きない。
「サガラさん」
「はい」
「五百年、何も起きていません」
「はい」
「ですが、この先も起きない、ということにはなりません」
「なりません」
「私も、そう思っています」
彼は、そこで目を伏せた。
「思っていますが、前例がありませんので」
同じ言葉を、彼の口から二度聞いた。
一度目は上の返事として。二度目は、自分のこととして。
俺が持っていったのは、異常だけだった。
見つけることと、どうすればいいかを言えることは、別だ。
言えるものを探すなら、残っているのは聖典しかない。
コンラート司祭でさえ、開いたことがないと言った。




