25:理由が、あったんですか
中枢部屋は、記憶より広かった。四角い部屋だ。
壁一面に紋様が並んでいる。数えたことはなかったが、四十はある。
正面の壁の前に、腰の高さの箱。前に立っていたときと同じ場所に、同じように据えてある。蓋は閉まったままだ。
コンラート司祭は、箱の左隣に立った。
「順は、ここからです」
「ここから、ですか」
「外側から内側へ、と教わっています」
短い言葉を唱えて、紋様をじっと見る。それから半歩左にずれて、次の前に立つ。同じことをする。
一つにかける時間が、思っていたより長い。三つ数えても、まだ動かない。
俺は灯りを掲げたまま、その横に立っていた。前と同じだ。
前と違うのは、今日は数字を追っていることだった。
外周防衛結界:正常
出力:120
出力:118
出力:121
止まってはいない。百十八から百二十一のあたりを、細かく行き来している。
幅は狭い。狭いが、無いわけではなかった。
半歩。次の紋様。
供給系統:正常
出力:110
出力:109
出力:111
また半歩。
供給系統:正常
出力:110
出力:111
出力:109
二つ目で、十ほど落ちていた。
三つ目は、その二つ目と同じ数だった。落ちたぶんは戻らず、残りがそのまま先へ渡っている。
百二十から始まって、どこかで十ほど使われて、残った百十がまた次へ行く。そういう並びらしい。
そう推測できるのは、順番に見ていたからだ。
(大元に近い方から)
教会に住み込んでいたころ、箱から順に見ていくことには気づいていた。なぜそこからなのかは、考えずに終わりにした。他人の仕事だったからだ。
コンラート司祭が、また半歩移った。
移ってから、じっとしている時間が長い。長すぎると思っていた。
それにもきっと理由がある。
幅のあるものは、幅ごと見ないと、幅があることさえ分からない。
それを見るための時間が、この長さだ。
彼は半歩ずつ、右から左へ移っていく。
紋様の並びの途中で、足が止まった。少し長く立って、それから、いつもの言葉を唱えた。
「異常なし」
記録帳を差し出す。彼は日付を書き、名前を書き、印を置いた。
ペンを戻して、こちらを向く。
「以上です。ご覧のとおり、これだけのものです」
紋様は、まだ左へ続いていた。
「残りは、見ないのですか」
「手順に入っておりません」
早い答えだった。考えて出したのではなく、覚えている答えだ。
止まった先の、最初の一枚を見た。
外周防衛結界:正常
供給系統:正常
警戒値超過:記録あり
前にここへ立っていたとき、見なくてよい、と言われた紋様だった。
そのさらに隣に、紋様ではないものがあった。
腰までの高さの台だった。金属の枠に、握りの太い把手が二本。片方は下がっていて、もう片方は上がっている。台の脇に、見たことのない紋様が彫られていた。
「これは」
「使った記録がありません」
答えになっていなかった。
なっていないことに、彼は気づいていないようだった。何かと訊かれて、記録の話を返している。
もっとも、ここではそれが答えなのだろう。何をするものかを知っている人間が、もう誰もいない。
「五百年間」
「ええ」
台に手を当てた。
待機状態:正常
駆動部:応答なし
待機。動いていない。
動いていないものが応答しないのは、当たり前だった。
台の先にも、紋様は並んでいる。目を向けただけで、数が出た。
出力:0
次も、その次も同じだ。
何を測っているのかは分からない。動いていないことだけが分かる。
巡回はここまで来ない。来ないところが、止まっている。
「ご参考に、なりましたでしょうか」
声をかけられて、振り返った。
そうだった、ここは俺のシステムじゃない。
視界の端に出る文字から意識を逸らして、体ごと向き直る。
「コンラート司祭」
「はい」
「順番には、理由があります」
彼の表情が、変わった。
「理由」
「はい。外側から内側へというのは、大元から順に、という意味です。先に入ってくる量を見て、それから出ていく量を見ます。だから、どこでいくつ減ったかが分かります」
「……入ってくる量と、出ていく量」
「減ること自体は普通です。途中で使われているだけなので。今日は、二つ目で十だけ落ちていました」
彼は口を開きかけて、閉じた。
「間合いの方にも、理由があります。この数字は止まっていません。細かく上下しています。一度だけ読むと、その一度が高い方なのか低い方なのかが分かりません。司祭が一つの前に立っている時間は、何度か読めるだけの長さです」
コンラート司祭は、しばらく紋様の壁を見ていた。
それから、初めて聞くような声を出した。
「理由が、あったんですか」
「はい」
「そう決まっている、ではなく」
「はい」
彼は正面の箱まで戻って、いちばん最初の紋様の前に立った。
何をするでもなく、ただ立っていた。
「……二十年、間違えずにやってきました」
「はい」
「間違えないことだけが、取り柄でした」
「その取り柄が、これを残しました」
* * *
昼を過ぎてから、昨夜の部屋へ通された。
棚の記録帳を、一冊ずつ出してもらった。
新しいものは、紙も綴じ方もしっかりしている。日付、当番の名前、印。それだけだ。
三段下がると、綴じ紐が違った。印の形も違う。丸ではなく、四角に近い。
そこからさらに二段下りると、触るのに気を遣った。表紙の角が丸くなって、繊維がけばだっている。
「これは、何年前のものですか」
「二百年ほどかと」
「開けても」
「どうぞ。ただ、そっと」
開いた。
日付。名前。印。そこまでは、今の記録帳と同じだった。字はずいぶん違う。それでも読めた。
同じでないのは、その下だ。
一頁まるごと、数で埋まっている。
左の端に短い言葉が縦に並んで、その右へ、細い欄が三つずつ続いていた。どの欄にも数が入っている。同じ行の三つは近い数で、少しずつ違う。
左の並びを数えた。二十三あった。
いちばん下の一行だけ、欄が一つしかない。数も小さい。ゼロか、一か、二だ。
「この左は、紋様の名前ですか」
「……そう読めますね」
「この数は、どこから取ったものでしょうか」
「紋様に出ています」
顔を上げた。
「出ている」
「ええ。光の伸びる先に、目盛りが刻んであります」
「今も、ですか」
「今もです。毎朝、出ています」
今朝、あの壁の前に立った。灯りを掲げて、箱の左隣から、司祭が止まるところまで。
俺が見ていたのは、俺にしか見えない方だった。壁そのものは、灯りを当てるための面としか思っていなかった。
目盛りがあることに、気づきもしなかった。
数も合わない。今朝、司祭が立ったのは二十二だ。ここには二十三ある。
多い一つは、見なくてよい、と言われたあの紋様だった。欄が一つしかない、あの行だ。
「今は、書かないのですか」
「書きません。異常がなければ、異常なしと」
「見えてはいるんですね」
「……見えています」
彼は頁を覗き込んで、しばらく黙っていた。
「いつ、無くなったのですか」
「……分かりません。中の段の、どれかで」
一日に一頁。それが今は、一日に一行になっている。
数は毎朝そこに出ていて、毎朝誰かがその前に立っていて、書かれないまま消えていく。
それが二百年前は記録の対象だった。そして、紋様ごとに三つ。
(やっぱり、そうだ)
同じ紋様に対して、記録が三つ。三回読んで、三回記録する。
幅のある数字は幅があるまま記録する、ということだ。
頁をめくった。
途中の一枚で、手が止まった。
印の横に、小さく何か書き足してある。当番の欄でも日付の欄でもない、余白だ。
「これは」
「書き込みですね。ときどきあります」
字は小さく、傾いていた。急いで書いたのが分かる。
『霧の朝は数が出る』
誰だか分からない人間が、二百年前に、余白へそれだけ書いた。
欄が用意されていないから余白へ書いたのだろう。書式には無い。書式には無いのに、書いておかないと気が済まなかった。
(同業者だ)
その人は、たぶん何度か霧の朝に当番へ入って、そのたびに数が多いと思って、三度目か四度目に書いた。
二百年前の朝の話だ。二百年前の霧の話だ。
なのに、やっていることが分かる。
「こういうものは、他にもありますか」
「数えたことはありませんが、あると思います。冬の初めは静かだ、というのも見たことがあります」
「それは、いつのものですか」
「……分かりません。どこかの段の、どこかの冊です」
棚を見た。
上から下まで、隙間なく詰まっている。背の高さも厚みもばらばらで、下の段ほど傷んでいる。
今日開いたのは、まだ途中だった。その下に、三百年ぶん残っている。
この中に、二百年前の霧の朝がある。冬の初めが静かだと気づいた誰かがいる。どこの段の、どこの冊かは分からないまま、それでも捨てられずに、そこにある。
「抜けている日は、ないんですね」
「ありません」
「五百年」
「ええ」
ため息が漏れた。
「素晴らしいと思います」
自分でも意外なほど、素直に言葉になった。
コンラート司祭は、少し困った顔をした。
「意味は、分かっていないのですが」
「分からなくても残っているから、今も読めます」
* * *
遺跡へ戻ったのは、日が傾いてからだった。
まっすぐ地下へ下りて、機械室の前に立った。
持って帰ったものは三つだ。順を決めること。幅を見ること。同じ時刻に見ること。
どれも、元の世界では当たり前にやっていた。目新しいものは一つもない。
目新しくないことを五百年続けた先に、霧の朝は数が出る、があった。
あれは考えて出るものではない。数えた回数だけが出す答えだ。
「ニコ」
「はい」
「毎朝、日の出に、ここへ来ます。手伝ってください」
「承知しました。何をいたしますか」
「私が読み上げます。記録してください」
少し間があった。
「私が、記録するのですか」
「はい。他の人も参照できるように」
「……承知しました」
箱の正面に手を当てた。
供給系統:正常
供給上限:160
現在:34
声に出して読んだ。ニコが繰り返した。
それから蓋を開けて、石に左から順に手を当てた。八つとも正常。新しい石は、まだ届いていない。
順番は左から、と決めた。決めた以上は、明日も左からだ。
最後に、出力を見た。
出力:12
出力:36
出力:27
教会の壁と同じで、止まってはいない。
違うのは幅だった。あちらは百十八から百二十一で、三つ並べても指の幅ほどしか離れていない。こちらは十二と三十六だ。しかも下へ落ちる方が深い。
弱るというのは、こういうことらしい。数が下がるのではなく、下がる幅が広くなる。
これを三回読んで、足して、割る。明日も同じようにすれば、数が比べられる。
「ニコ」
「はい」
「出力は、三度読みます。三つとも記録してください」
「三つとも、ですか」
「はい。それから、足して三で割った数も」
「承知しました」
十二、三十六、二十七。足して七十五。三で割って、二十五。
厳密ではない。読んだ三つが、たまたま低い方に寄っているかもしれない。
それでも、無いよりはいい。二百年前の誰かも、たぶん同じことを思った。
「今日の分は、以上です」
「記録しました」
「日付と、それから」
「はい」
「読んだ人の名前も」
「仮管理者、でよろしいですか」
「……相楽修で」
「承知しました」
階段を上がりながら、考えた。
あちらは五百年分で、こちらは一日分。
比べるようなものではない。
それでも、明日また同じ時間に下りれば、二日分になる。




