24:教えてください
夜のうちに、初めて雪が降ったらしい。
街道の窪みに白いものが残っていて、踏むと薄い氷の割れる音がした。息が白い。
街まで歩いて、門をくぐって、まっすぐ教会へ向かった。
この道は、辞めた日に反対向きに歩いている。あのときは何も持っていなかった。今日も持っていない。
石段の下で一度止まった。言うことは決めてある。決めてあるのに、頭の中で順番を確かめていた。
取り次ぎを頼むと、若い聖職者が奥へ入っていった。
待つあいだ、廊下の突き当たりを見ていた。あの先が宿舎だ。右の三つ目の扉で、俺は丸一日半寝込んでいた。
コンラート司祭が裾を捌いて歩いてきた。
「サガラさん」
法衣は襟元まで留まっている。髪も整っている。前に会ったときのような、目の下の窪みはなかった。
「お元気そうで。何か、ご用でしょうか」
「教えてください」
「は」
「教会の点検のやり方を、教えてください」
頭を下げた。
下げてから、順番を間違えたことに気づいた。何の話かを先に言うべきだった。
「あ、えっと……これは」
「……順を追って伺っても」
「はい。すみません」
通されたのは、面接をした部屋だった。机の位置まで同じだ。あのとき俺は椅子に座って、ハズレと言われました、と答えていた。
「遺跡に、人が住んでいます。今は九人です」
「聞いています。冬を越す方が出たとも」
「はい。それで、設備を保たせないといけなくなりました」
コンラート司祭は、書類を脇へ寄せた。
「先日、灯りがちらつきました。原因は魔石でした。八つとも弱っていて、出す量が揺れていました」
「交換されましたか」
「これからです。ただ」
そこが本題だった。
「次にいつ替えればいいのかが、分かりません」
コンラート司祭が、少し目を細めた。
「石の色は」
「職人が、八つとも薄いと言いました」
「濃さの見方は、教わりましたか」
「いえ」
「なるほど」
その相槌が、思っていたより早かった。
「私に分からないのは、何を、どれくらいの間隔で見ればいいのかです。見方も、記録の残し方も。この世界のものがどれくらい保つのかを、私は知りません」
「……ずいぶん、細かいところを訊かれる」
「知らないと、対応できません」
「前もそうでした。水は足りていますか、と」
覚えられていた。
覚えられているとは、思っていなかった。
「サガラさん。ひとつ伺っても」
「はい」
「なぜ、うちなのですか」
当然の問いだった。
少し考えてから口を開く。
「街には職人がいます。魔道具を作る人も、水路を引く人も。私の周りにもいます」
「ええ」
「その人たちは、作り方と直し方を知っています。ですが、五百年保たせた記録を持っているのは、ここだけです」
コンラート司祭は、しばらく黙っていた。
「記録、というのは」
「毎朝、日の出に、当番の方が中枢部屋へ入ります。決まった順に紋様を見て、異常なしと唱えて、記録帳に印を記す」
「……ええ」
「あれは、点検です」
机の上で、彼の指が止まった。
「点検、と」
「はい。順に見て、結果を残して、次の日にまた同じ順で見る。私が元いた場所でやっていたことと、同じ形をしています」
「あれは、祈りです」
「祈りだと思います。ただ、やっていることが点検です」
言ってから、まずかったかと思った。
五百年続けてきたものを、外から来た人間が別の名前で呼び直したことになる。
コンラート司祭は、脇へ寄せた書類の束を、角できちんと揃え直した。
「……お答えします。ただ、長くなります」
「はい」
「今日の務めが終わってからで、構いませんか」
「いくらでも待ちます」
* * *
日が落ちてから、呼ばれた。
通されたのは、昼間の部屋ではなかった。狭い。机と椅子、壁際に古いソファが一つ。あとは壁一面の棚で、記録帳が詰まっている。背の高さも厚みもばらばらで、下の段ほど傷んでいた。
コンラート司祭は、昼間と同じ格好で座っていた。襟元まで留めたままだ。机には瓶と器が二つ出ている。
ソファを勧められて、そこに座った。
彼が瓶の栓を抜くと、酒の匂いがした。
「飲まれますか」
「いただきます」
注がれたのは、濃い色の酒だった。口をつけると、喉の奥が一度だけ熱くなる。思っていたより強い。
彼は自分の器を持ち上げて、一口だけ飲んだ。
「遺跡は、どんな具合ですか」
「食堂ができました」
「食堂」
「二階の奥の部屋です。誰かがテーブルを運んできて、誰かが椅子を直して、気づいたらそうなっていました」
彼の器が、口の手前で止まった。
「……そういうものが、できるんですね」
「はい」
「あそこは、五百年空いていたと聞いていましたが」
「今は九人います」
彼は器を置いて、少しだけ笑った。笑った顔を見るのは初めてだった。
「こちらは、来月が灯火の継承です」
「灯火の継承」
「魔石の交換です。三年に一度の」
聞き返すのが、一拍遅れた。
「……三年に一度、ですか」
「ええ。そう決まっています」
ニコが言っていた。仕様にあります、三年ごとです、と。
同じ数字だった。遺跡では五百年守られなかった周期が、こちらでは守られていた。
「準備が要ります。二人一組で行いますし、祈り手もおります。その割り振りから始めます。若手は初めての者が二人いますから、手順を通しで確かめさせないといけない」
「大変ですね」
「毎回そうです。三年に一度なので、前をよく覚えている者が少ない」
彼は器を空にして、自分で注いだ。二杯目からは速かった。
俺の器は、まだ半分も減っていない。
二杯目を空けると、彼は立ち上がって、法衣の上着を脱ぎ、椅子の背にかけた。
「サガラさん」
「はい」
「昼間のあれですが」
「はい」
「点検、とおっしゃいましたね」
「……はい」
彼はまた座った。しばらく何も言わなかった。
やがて、身を乗り出した。
「二十年やっています」
「はい」
「意味は、分かっていません」
声の高さは変わらなかった。変わったのは、間の取り方の方だった。
「順番も、間合いも、唱える言葉も、全部教わったとおりにやります。一つも間違えません。間違えないことが仕事ですから」
「はい」
「なぜその順番なのかは、教わっていません。若いころに一度訊きました。そう決まっている、と言われました。訊いた相手も、教わったとおりにやっている人でしたから」
三杯目を注ぎ、襟元の留め具を外して、彼は椅子の背にもたれた。
「二十年ですよ。毎朝だ」
「はい」
「休んだのは、母が死んだ日と、寝込んだ二日だけです。二十年、意味の分からんことを、一日も抜かさずに」
言葉はそこで、止まった。
彼は器の中を見て、それから天井を見て、また器を見た。
「……失礼しました」
「いえ」
「今のは」
「はい」
「忘れてください」
「忘れませんが、誰にも言いません」
コンラート司祭が、こちらを見た。
「……それは」
「意味が分からないまま二十年続けたから、結界が動いています」
「それは、慰めですか」
「事実です」
慰めなら、もっとうまい言い方があるはずだった。俺に言えるのは、起きたことだけだ。
「手順が残っていなければ、私が読み解くものも残っていません。順番が変わっていたら、意味も一緒に消えています。残っているのは、誰かが毎朝、意味が分からなくても同じ順でやり続けたからです」
彼は何も言わなかった。器を持ち上げて、中身を飲み干した。
それから、棚の方を見た。
「記録帳は、五百年分あります」
「五百年」
「印の形は変わっています。字も変わっています。それでも、抜けている日はありません」
「見せていただけますか」
彼は棚を見たまま、少し間を置いた。
「……ええ」
その返事を聞いたところまでは、覚えている。
* * *
目が覚めたのは、日の出前だった。
ソファで寝ていた。外套が掛かっていた。自分で掛けた覚えはなかった。
机の上には何も出ていない。瓶も器も片付いていた。
コンラート司祭は、法衣の襟元まできっちり留めていた。髪も整っている。
「おはようございます、サガラさん。本日はよろしくお願いいたします」
「……おはようございます」
「では、参りましょう。順序からご説明します」
昨夜のことに触れる気配は、まったくなかった。
言ったとおりに、何も言わないことにした。
中枢部屋へ入ると、コンラート司祭は灯りと記録帳を俺に差し出した。
「本日の当番は私です。持っていただけますか」
「はい」
受け取って、灯りを掲げた。
壁一面の紋様が、前と同じように浮かび上がる。
外周防衛結界:正常
一行だけ読んで、そこで止めた。
この先に何があるかは知っている。知っているが、今日は見に来たのではない。それに、ここは俺の場所ではない。
俺が立っているのは、前と同じ位置だ。手に持っているものも同じだった。
違うのは、今日は訊いていいということだけだった。




