26:今は手を入れないでください
三十四日目だった。
日の出前に地下へ下りる。段を下るごとに冷える。ここには温度制御が入っていない。
箱の正面に手を当てる。三つ数える。急がない。
供給系統:正常
供給上限:160
現在:41
声に出して読んだ。ニコが繰り返す。
蓋を開けて、石に左から順に手を当てた。八つとも正常。
石は入れ替わっている。リタさんが街で八つ仕入れてきて、ダグさんと二人で交換した。俺は横で数を読んでいただけだ。
出力:40
出力:42
出力:41
足して百二十三。三で割って四十一。
入れ替えた日から、幅が変わった。前は十二から三十六まで開いていたものが、今は四十から四十二に収まっている。
教会の壁と同じ幅になった、ということだ。
「三十四日目、記録しました」
「ありがとうございます」
三十四日分ある。
紙に書いても棚の一段分にも届かない。それでも、無かったものが三十四ある。
作業場へ寄ると、リタさんは炭を持ったまま図を睨んでいた。
身体強化の魔道具の話は、十日ほど前に片がついている。説明を三度やり直して、四度目に通じた。通じたと分かったのは、彼女が途中で炭を持って、自分で線を引き始めたからだ。
説明が上手くなったわけではない。同じことを四回、違う言い方で言っただけだ。ただ、四回目に何を言えば通じるかは、三回外さないと分からなかった。
リタさんが顔を上げないまま、口を開いた。
「今日、街だろ」
「はい。夕方には戻ります」
「見てこいよ、しっかり」
「はい、行ってきます」
* * *
教会は朝から人が動いていた。
廊下を若い聖職者が二人で歩いていく。台を運んでいる者がいる。誰かが誰かの名を呼んでいる。
灯火の継承。三年に一度、魔石を換える日だ。
コンラート司祭は中枢部屋にいた。法衣は襟元まで留まっている。ただ、朝の点検のときとは目の配り方が違った。
「おはようございます、サガラさん。今日は落ち着かず、申し訳ありません」
「いえ。見せていただけるだけで」
「昼を過ぎたら始めます。それまでは、お好きにご覧ください」
彼が出ていってから、壁の前に立った。
正面の箱の隣から、順に見ていく。灯りは自分で掲げた。合わせる相手がいないので、自分の速さで進める。
目盛りを見た。
ひと月前は、あることにも気づかなかったものだ。細かい刻みが縦に並んでいて、十ごとに数が添えてある。光がどこまで伸びたかを、その数で読む。
光の先は、止まっていなかった。刻み二つ三つのあいだを、細かく行き来している。
外周防衛結界:正常
出力:120
出力:121
出力:119
<デバッグ>で見える数字も、同じだけ動いていた。同じ幅で、同じあたりを。
壁と俺は、同じものを見ている。
あの人が一つの前で動かずにいた理由が、初めて目で見えた。揺れているものの居場所を決めるには、しばらく見ているしかない。
半歩。次も同じ。その次も。
十七番目で、止まった。
供給系統:正常
出力:40
出力:39
出力:41
光の先は、四十六の刻みのあたりを行き来していた。
幅は同じだ。動き方も同じ。位置だけが違う。
もう一度、両方を読み比べた。俺に見えている数は三十九から四十一。光が指しているのは四十五から四十七。
六、離れている。
紋様に手を当てて、奥を辿った。
表示術式:異常
原因:魔力経路異常
系統そのものではない。系統は正常だ。
狂っているのは、それを目盛りへ写している側だった。実際より六ほど高く出る。
辿れる。細い経路の一本が、自分の数を二回足している。一回だけに直せば、目盛りは正しい数を指す。たぶん、すぐ直せる。
手は出さなかった。
ここは俺のシステムではない。
かわりに、いつからかを知りたくなった。
一度きりの数字に意味がないことは、知っている。今日ずれているのは分かった。分からないのは、それが今日からなのか、去年からなのか、という方だ。
棚のある部屋の扉は開いていた。
下の段から、二百年前の冊を出して、頁をめくる。左の端に紋様の名前が並んでいる。上から十七番目。
隣に並んだ三つを読んだ。
四十六。四十五。四十七。
次の頁も、その次も、四十六のあたりだった。
もう一段下から、もっと古いものを出した。字はさらに崩れている。それでも数は読める。
四十六。四十六。四十五。
二百年前も、その前も、十七番は四十六を指していた。
今朝、俺が読んだ本当の数は四十だ。
ずれは今日からではない。少なくとも二百年、同じだけずれている。
二百年。
毎朝、誰かがこの前に立って、四十六を見て、異常なしと唱えて、印を記してきた。
少なくとも二百年、誰も気づかなかった。
* * *
コンラート司祭を見つけたのは、昼前だった。
中庭で、若手二人に何かを指示している。俺に気づいて、話を切り上げて寄ってきた。
「お待たせしました。何か」
「十七番目の紋様に不調があります。原因は分かっています。私なら直せます」
彼の顔から、忙しさが一度抜けた。
「不調、というのは」
「目盛りが、実際より高く出ています。六ほどです。系統は正常です。狂っているのは、目盛りへ写す方だけです」
「六」
「はい。表示だけの話です。結界そのものには影響がありません」
言いながら、これは伝わっているだろうかと思った。
彼は顎に手を当てて、少しのあいだ黙った。それから、はっきりと言った。
「今は手を入れないでください」
「……原因は分かっています」
「はい。それでも今日は駄目です」
思っていたより強い言い方だった。
「理由を訊いても」
「今日は灯火の継承の日です」
「はい」
「儀式は、手順のとおりに進みます。順番も、数も」
「はい」
「手順書に、数が書いてあります。十七番がいくつまで来たら次へ、と」
彼は、そこで一度言葉を切った。
「今から新しい目盛りの数字を確認する時間はありません。手順書を見直す時間もありません」
時間がない。今日は直さない。
そうやってあとでいい、と置かれたものが、あとで一番面倒になる。元の世界で、いやというほど見た。
口が先に動いた。
「記録を見ました。二百年前も、十七番は四十六です」
「そうですか」
「二百年、ずれたままです。それで何も起きていないのは、たまたまです」
言ってから、言い過ぎたと思った。
ここは、俺のシステムじゃない。俺が何か言うべき場所じゃない。
コンラート司祭は、怒らなかった。怒らずに、まっすぐこちらを見た。
「その数が、いつからのものかご存じですか」
「……いえ」
「聖典にあります。書き写したものが、代々の手順書に」
「聖典」
「ええ。私が決めた数ではありません。誰が決めたのかも、分かりません」
二百年ではなかった。
目盛りが四十六を指すことを前提に、五百年前に数が決められている。
いや、順が逆だ。あの人たちは目盛りを見て、四十六まで来たら次へ、と決めた。その四十六が本当は四十なのかどうかを、気にしていない。
気にする必要がなかった。四十六で回るなら、四十六が本当はいくつかは、どうでもいい。
目盛りと手順書は、対になっている。
片方だけ直せば、対が壊れる。
今まで何も起きなかったこととは、別の話だった。
返す言葉がなかった。
俺が見ていたのは、十七番の紋様一つだった。彼が見ていたのは、今日この建物で動く全部だった。
それに、この苦さには覚えがあった。
遺跡へ来たばかりの夜だ。片方の系統だけを直して、隣と噛み合わなくなって、境目に隙間が空いた。北の外壁に十九匹の魔物が張りついた。
元の世界でだって似たような経験はある。何度も、繰り返してきた。
「明日以降でしたら、お願いしたいくらいです。直していただけるなら、手順書の数も書き換えます。二人で、確かめながら」
「……はい」
「今日でなければ、いつでも」
彼は一礼して、若手の方へ戻っていった。
中庭に一人になってから、しばらく立っていた。
今日、何も起こらずに済んだのは、俺の判断が良かったからではない。ここが他人の場所だったからだ。
遺跡だったら、たぶん先に手が動いていた。
* * *
昼を過ぎて、鐘が鳴った。
廊下に人が並び始める。布を掛けた台が運ばれていく。中は見えない。
俺は壁際に立って、通り過ぎるのを見ていた。法衣の者が何人か、中枢部屋へ入っていく。
最後に、コンラート司祭が来た。もう一人、若い聖職者が続いている。二人で一組だと言っていた。
彼は扉の前で振り返って、俺に短く頷いた。
「どうぞ。ただ、声は出さないでください」
中へ入った。




