20:不具合を直しただけです
暗いうちに起きるのは、もう習慣に近い。目が覚めて、すぐに廊下へ出て、三階まで上がる。体が先に動く。
水の口に手を当てる。もう十日近く、同じ時間に同じことをしている。
給水系統:正常
送出上限:120
現在:61
六十一。上限にはまだ遠い。摘まみを回すと、いつもどおり出た。
この十日、朝に文句を言われたことは一度もない。困っていない人は何も言わない。そう思っていた。
擦れ違いざまに、会釈されたり小さく礼を言われることが増えた。
戸が閉まらないと言われた。俺には直せなかったのでリタさんに頼んだ。俺がやったのはそれだけだ。だというのに、廊下で擦れ違うと頭を下げられる。
灯りが点かないと言われた。術式の挙動に小さな問題があった。ちょっと直しただけだ。それでも礼を言われた。
「あの……ありがとうございました」
「いえ」
それで終わる。二言か三言で終わる分には、扱いに困らない。
そう、思っていた。
* * *
昼前、桶を提げた人に呼び止められた。
二階の、五番の人だった。子供が二人いる家だ。朝晩、廊下を走り回る足音でそれと分かる。名前はまだ知らない。
子供を連れていない姿を見るのは初めてだった。足音も、いつもより静かだった。
風が少し湿っていた。もうすぐ雨の季節が来ると、リタさんが言っていた。雨はいずれ冷たくなって、そのうち雪になるらしい。
「あの、ちょっといいですか」
足を止めて、体を向き直した。
「はい」
「うちの子、最近ちゃんと寝るようになったんです」
「……はい」
その人は、桶の持ち手を両手で握ったまま、俺の顔を見ていなかった。
「うちの子、毎日のように夜中に喉が渇いて起きて、それで街にいたころは、下の井戸まで行かないといけなくて。夜中だし暗いしだから、結局わたしが汲みに行って。それで二人とも目が覚めちゃって」
「それは……大変でしたね」
「はい。でも今は違うから」
朝の水が出なかった話は聞いていた。夜中の話は、聞いていなかった。
その人は、ようやく顔を上げた。
「今は摘まみを回せばいいから、夜中に起きてもすぐに飲めて。それに廊下も明るいし。すぐ戻って寝てくれるんです」
「……それは、良かったです」
「ありがとうございます」
頭を下げられた。
困った。こういうとき、何と言えばいいのか。
何か気の利いたことを言うべきだと分かっている。分かっているのに、出てくるのは、いつもの言い方だけだった。
「不具合を直しただけです。それに、直したのはヨナスさんたちです」
言ってから、これでいいのかと思った。他に言い方が思いつかなかった。
現代でも、障害対応で礼を言われることはあった。たいてい「助かりました」の一言で、それ以上長引かない。誰かの生活の中身にまで踏み込んで礼を言われることは、なかった。
仕事というのは、そういうものだと思っていた。
五番の人は少し困った顔をして、それからもう一度頭を下げて、桶を提げて行ってしまった。
階段の手すりに洗濯物を干していた別の人が、こちらをちらりと見て、何も言わずに視線を戻した。
廊下の奥の部屋に行った。水の口が並んでいる。
摘まみがあって、管があって、それだけだ。
直す前と直したあとで、変わったのは数字だけのはずだった。送出上限、動いている系統の数。
その数字の先に、誰かの夜が挟まっていた。
何かを間違えたような気がした。どこを間違えたのかは、見つからなかった。
(落ち着かない)
階段を下りると、廊下に木箱が積まれていた。避難民に配る毛布か何からしい。
トモは積まれた箱の周囲を動き回って、しきりに匂いを嗅ぐ仕草をしている。
子供が二人、その箱の上によじ登ろうとして、ニコに叱られていた。
「登らないでください。荷崩れの危険があります」
子供の片方が、箱を指差した。
「ニコ、これどこに置けばいい?」
「それは――」
言いかけて、ニコが止まった。
小さく瞬きしてから、子供たちに顔を向ける。
「……識別コードは弐号です。一つは二階に、もう一つは三階に運びます」
子供はきょとんとした顔をして、それから気にする様子もなく箱を運んでいった。
ニコの方は、しばらく黙って子供の後ろ姿を見ていた。
俺はニコに近づいた。
「どうかしましたか」
「いえ。処理に時間がかかっただけです」
「そうですか」
それ以上は訊かなかった。
* * *
夕方、フィーネさんが来た。今日は木札も紙も持っていない。何も持っていない。
上着を脱いで、部屋の隅へ置いた。
「シュウさん、聞いたよ」
「何をです」
「二階の人。お礼言いに行ったって」
時々、フィーネさんは何でも知っているんじゃないかと錯覚してしまう。
なんで知っているのか、不思議に思いながら頷いた。
「言われました」
「なんて答えたの」
「不具合を直しただけです、と」
フィーネさんは、少しの間、黙っていた。
俺が何も言わないので、彼女は首を傾けた。
「それだけ?」
「直したのはヨナスさんたちです、とも言いました」
「……シュウさんにとっては、直しただけかもしれないけど」
彼女は天井を見上げた。上の階で、子供の足音がしている。それから、また俺を見た。
「あの人にとっては、夜中に子供がすぐ寝られるようになった、ってことだよ。そしたら自分もちゃんと寝られる。ちゃんと寝られたら、次の日ちゃんと起きられる。仕事にだって行ける」
「……それは」
「直っただけじゃないよ」
「いえ、でも」
話が噛み合ってないことは分かっていた。
分かっていたけど、何をどうしたら噛み合うのかは分からなかった。
処理の手順を間違えたときのような、やってしまったという感覚だけがあった。
「私は、正常な状態に戻しただけです。実際に直したのだって、ヨナスさんたちです。たいしたことはしていません」
「たいしたことなんだよ」
フィーネさんは、そこで少し笑った。困ったような笑い方だった。
「あの人にとっては、ね」
フィーネさんは、たぶん俺とは違うものを見ている。
同じ水を見て、同じくらい大事だと思っているはずなのに、見ているものが違う。
そして俺は、フィーネさんが見ているものが、分からない。
「……分かりません」
フィーネさんはちょっと困ったような顔のままだった。
「シュウさんのそういうところ、いいところでもあるんだけどね」
「そうでしょうか」
「うん。でも、もったいないって思うよ」
出てきた言葉の意味が飲み込めなかった。
「もったいない、とは」
「損してるなっていうか」
「……損得だけで判断するのは、危ないので」
フィーネさんは、また笑った。
「そういうところ」
それ以上、彼女は何も言わなかった。
桶を提げていたあの人と同じように、少しの間だけこちらを見て、それからいつものように手を振って帰っていった。
一人になってから、奥の部屋に行った。水の口に手を当てた。
給水系統:正常
正常。それだけの表示を、しばらく見ていた。
十日前は、水が出ないと言われて困っていた。今日は、水が出るようになったと礼を言われて困っている。困る理由が正反対なのに、困り方はよく似ている。
直しただけだ。それは間違っていない。
間違ってはいないのに、足りていない。この水の口と同じだ。決められたぶんはきちんと出して、それで正常だという顔をしている。
上の廊下で、また子供の足音がした。二人ぶん。行って、戻って、扉が閉まる音。
いつもの音だ。いつもどおり、腹は立たない。
耳を澄ませると、生活音が聞こえる。水音、料理の音、足音。それから、誰かの喋る声。
明日の朝も、たぶん同じ時間に目が覚める。
それはきっと、変わらない。




