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20/51

20:不具合を直しただけです

 暗いうちに起きるのは、もう習慣に近い。目が覚めて、すぐに廊下へ出て、三階まで上がる。体が先に動く。

 水の口に手を当てる。もう十日近く、同じ時間に同じことをしている。


   給水系統:正常

   送出上限:120

   現在:61


 六十一。上限にはまだ遠い。摘まみを回すと、いつもどおり出た。

 この十日、朝に文句を言われたことは一度もない。困っていない人は何も言わない。そう思っていた。


 擦れ違いざまに、会釈されたり小さく礼を言われることが増えた。

 戸が閉まらないと言われた。俺には直せなかったのでリタさんに頼んだ。俺がやったのはそれだけだ。だというのに、廊下で擦れ違うと頭を下げられる。

 灯りが点かないと言われた。術式の挙動に小さな問題があった。ちょっと直しただけだ。それでも礼を言われた。


「あの……ありがとうございました」

「いえ」


 それで終わる。二言か三言で終わる分には、扱いに困らない。

 そう、思っていた。


 * * *


 昼前、桶を提げた人に呼び止められた。

 二階の、五番の人だった。子供が二人いる家だ。朝晩、廊下を走り回る足音でそれと分かる。名前はまだ知らない。

 子供を連れていない姿を見るのは初めてだった。足音も、いつもより静かだった。

 風が少し湿っていた。もうすぐ雨の季節が来ると、リタさんが言っていた。雨はいずれ冷たくなって、そのうち雪になるらしい。


「あの、ちょっといいですか」


 足を止めて、体を向き直した。


「はい」

「うちの子、最近ちゃんと寝るようになったんです」

「……はい」


 その人は、桶の持ち手を両手で握ったまま、俺の顔を見ていなかった。


「うちの子、毎日のように夜中に喉が渇いて起きて、それで街にいたころは、下の井戸まで行かないといけなくて。夜中だし暗いしだから、結局わたしが汲みに行って。それで二人とも目が覚めちゃって」

「それは……大変でしたね」

「はい。でも今は違うから」


 朝の水が出なかった話は聞いていた。夜中の話は、聞いていなかった。

 その人は、ようやく顔を上げた。


「今は摘まみを回せばいいから、夜中に起きてもすぐに飲めて。それに廊下も明るいし。すぐ戻って寝てくれるんです」

「……それは、良かったです」

「ありがとうございます」


 頭を下げられた。

 困った。こういうとき、何と言えばいいのか。

 何か気の利いたことを言うべきだと分かっている。分かっているのに、出てくるのは、いつもの言い方だけだった。


「不具合を直しただけです。それに、直したのはヨナスさんたちです」


 言ってから、これでいいのかと思った。他に言い方が思いつかなかった。

 現代でも、障害対応で礼を言われることはあった。たいてい「助かりました」の一言で、それ以上長引かない。誰かの生活の中身にまで踏み込んで礼を言われることは、なかった。

 仕事というのは、そういうものだと思っていた。

 五番の人は少し困った顔をして、それからもう一度頭を下げて、桶を提げて行ってしまった。

 階段の手すりに洗濯物を干していた別の人が、こちらをちらりと見て、何も言わずに視線を戻した。


 廊下の奥の部屋に行った。水の口が並んでいる。

 摘まみがあって、管があって、それだけだ。

 直す前と直したあとで、変わったのは数字だけのはずだった。送出上限、動いている系統の数。

 その数字の先に、誰かの夜が挟まっていた。

 何かを間違えたような気がした。どこを間違えたのかは、見つからなかった。


(落ち着かない)


 階段を下りると、廊下に木箱が積まれていた。避難民に配る毛布か何からしい。

 トモは積まれた箱の周囲を動き回って、しきりに匂いを嗅ぐ仕草をしている。


 子供が二人、その箱の上によじ登ろうとして、ニコに叱られていた。


「登らないでください。荷崩れの危険があります」


 子供の片方が、箱を指差した。


「ニコ、これどこに置けばいい?」

「それは――」


 言いかけて、ニコが止まった。

 小さく瞬きしてから、子供たちに顔を向ける。


「……識別コードは弐号です。一つは二階に、もう一つは三階に運びます」


 子供はきょとんとした顔をして、それから気にする様子もなく箱を運んでいった。

 ニコの方は、しばらく黙って子供の後ろ姿を見ていた。

 俺はニコに近づいた。


「どうかしましたか」

「いえ。処理に時間がかかっただけです」

「そうですか」


 それ以上は訊かなかった。


 * * *


 夕方、フィーネさんが来た。今日は木札も紙も持っていない。何も持っていない。

 上着を脱いで、部屋の隅へ置いた。


「シュウさん、聞いたよ」

「何をです」

「二階の人。お礼言いに行ったって」


 時々、フィーネさんは何でも知っているんじゃないかと錯覚してしまう。

 なんで知っているのか、不思議に思いながら頷いた。


「言われました」

「なんて答えたの」

「不具合を直しただけです、と」


 フィーネさんは、少しの間、黙っていた。

 俺が何も言わないので、彼女は首を傾けた。


「それだけ?」

「直したのはヨナスさんたちです、とも言いました」

「……シュウさんにとっては、直しただけかもしれないけど」


 彼女は天井を見上げた。上の階で、子供の足音がしている。それから、また俺を見た。


「あの人にとっては、夜中に子供がすぐ寝られるようになった、ってことだよ。そしたら自分もちゃんと寝られる。ちゃんと寝られたら、次の日ちゃんと起きられる。仕事にだって行ける」

「……それは」

「直っただけじゃないよ」

「いえ、でも」


 話が噛み合ってないことは分かっていた。

 分かっていたけど、何をどうしたら噛み合うのかは分からなかった。

 処理の手順を間違えたときのような、やってしまったという感覚だけがあった。


「私は、正常な状態に戻しただけです。実際に直したのだって、ヨナスさんたちです。たいしたことはしていません」

「たいしたことなんだよ」


 フィーネさんは、そこで少し笑った。困ったような笑い方だった。


「あの人にとっては、ね」


 フィーネさんは、たぶん俺とは違うものを見ている。

 同じ水を見て、同じくらい大事だと思っているはずなのに、見ているものが違う。

 そして俺は、フィーネさんが見ているものが、分からない。


「……分かりません」


 フィーネさんはちょっと困ったような顔のままだった。


「シュウさんのそういうところ、いいところでもあるんだけどね」

「そうでしょうか」

「うん。でも、もったいないって思うよ」


 出てきた言葉の意味が飲み込めなかった。


「もったいない、とは」

「損してるなっていうか」

「……損得だけで判断するのは、危ないので」


 フィーネさんは、また笑った。


「そういうところ」


 それ以上、彼女は何も言わなかった。

 桶を提げていたあの人と同じように、少しの間だけこちらを見て、それからいつものように手を振って帰っていった。


 一人になってから、奥の部屋に行った。水の口に手を当てた。


   給水系統:正常


 正常。それだけの表示を、しばらく見ていた。

 十日前は、水が出ないと言われて困っていた。今日は、水が出るようになったと礼を言われて困っている。困る理由が正反対なのに、困り方はよく似ている。

 直しただけだ。それは間違っていない。

 間違ってはいないのに、足りていない。この水の口と同じだ。決められたぶんはきちんと出して、それで正常だという顔をしている。


 上の廊下で、また子供の足音がした。二人ぶん。行って、戻って、扉が閉まる音。

 いつもの音だ。いつもどおり、腹は立たない。

 耳を澄ませると、生活音が聞こえる。水音、料理の音、足音。それから、誰かの喋る声。


 明日の朝も、たぶん同じ時間に目が覚める。

 それはきっと、変わらない。


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