2:<デバッグ>は仕事にならなかった
教会が働き手を募集している、という話は、別れ際にフィーネさんが教えてくれた。
その足で、俺は門を叩いた。他に行くあてがない。
面接をしたのは、コンラートという司祭だった。三十代半ば。茶色の髪をきちんと整えている。法衣は襟元まできっちり留められていた。
「<デバッグ>、ですか」
「はい」
「……失礼ですが、鑑定の評価は」
「ハズレ、と言われました」
嘘をついても仕方がない。コンラート司祭は表情を変えずに書類へ何か書きつけ、それから顔を上げた。
「うちで必要なのは、時間どおりに来て、決められた手順どおりに動ける人です。スキルは問いません」
「……ありがたいです」
「短期です。住み込みになりますが、構いませんか」
「はい。私は、それしか選べる状態にないので」
コンラート司祭は少しだけ間を置いて、「では明日から」とだけ言った。
宿舎の部屋は、その日のうちに割り当てられた。寝床と、夕食が出た。
金が無いことは、とうとう言わずに済んだ。
割り当てられた仕事は、朝の目覚めの祈りへの随行だった。
毎朝、日の出とともに当番の聖職者が、結界の中枢部屋を訪れる。壁一面に古い紋様が並んでいて、聖職者は短い祈りを唱えながら、それを決まった順に見ていく。最後に「異常なし」と唱え、記録帳に印を記す。
正面の壁の前に、腰の高さの箱が据えてある。蓋は閉まったままで、開けるところは一度も見なかった。
俺の仕事は、灯りと記録帳を持って隣に立っていることだ。それだけ。触れるなとも言われていない。触れる用事がないからだ。
三日目には気づいてしまった。
祈りの文句は、確認する紋様の順番と、一つずつ対応している。正面の箱から順番に。
記録帳の方も同じだった。日付。当番の名前。印。
(これ、点検記録だ)
毎朝同じ順で見て回り、確認した人間の名前を残す。祈りではなく、日次のヘルスチェックと、その監査ログ。
(ああ、俺もやってたな、毎日)
懐かしい気持ちになりかけて、まだこの世界にきて一週間も経ってないことに気づいた。
たった何日かで、元の世界は遠くなってしまった。
そして四日目の朝、灯りを掲げて突っ立っていた俺の視界の端に、文字が浮いた。
外周防衛結界:正常
供給系統:正常
警戒値超過:記録あり
勝手に見えた。
正常。正常。それはいい。問題は三行目だ。
つい、そちらへ意識を向けてしまった。
警戒値超過記録:132,419件
直近1年:268件
非常時運用への切替:実行記録なし
手が冷たくなった。
十三万件。去年一年だけでも、二百六十八件。
要するに、警戒値を超えたという記録がそれだけあって、超えたときに移るはずの運用へ、ただの一度も移っていない。
しかも――こちらの方がよほど悪い――切り替えられる先は、ちゃんと存在している。
(機能はある。あるのに、誰も使ってない)
備えは用意されている。五百年、ただの一度も呼ばれていないだけで。
「あの」
「はい」
「この紋様は、何を示しているんですか」
当番の若い聖職者は、俺が指した先を見て、少し困った顔をした。
「そこは見なくてよい、と教わっています」
「見なくていい」
「昔は確認していたそうですが、詳しくは分かりません」
「それで、何か起きたことは」
「私の知る限りは、ありません」
迷いのない答えだった。嘘でもごまかしでもなく、本当にそうなのだろう。
彼らが手を抜いているわけではない。決められた手順を、驚くほど正確に守っている。ただ、その手順に、この数字を見ることが入っていない。
何がその数字を増やしていて、なぜ収まるのかは、出てこない。記録の形だけだ。超えて、戻る。超えて、また戻る。それが十三万回。
鳴りっぱなしの警告が現場でどう扱われるようになるかは、知っている。人は慣れる。慣れたものは、そのうち見えなくなる。どこの世界でも同じらしい。
切替が何をするものなのか。その手順が教会に残っているのか。どちらも、ここからでは分からない。俺に見えているのは結界の側だけで、人が紙に書いたものは見えない。
中枢部屋にいる間、文字はずっと追ってきた。
剣一本とは違う。どこまで意識を向けても、その先にまだ何かがある。街を覆う巨大な仕組みの一端へ、無理やり目を突っ込んでいるようだった。目の奥が痛い。
中枢部屋を出たところで、床が傾いた。
* * *
丸一日半、宿舎で寝込んだ。
頭の芯が重い。目を閉じても、あの桁が瞼の裏に残っている。大きすぎるものを無理に覗いた反動だ、というのは、なんとなく察しがついた。
人は来た。当番の割り振りを直すために。
「熱ですか。では今日はお休みください」
それだけ言って、扉が閉まる。
コンラート司祭も一度だけ顔を出した。折り目正しく、体調を尋ね、代わりの手配は済んでいると告げて、帰っていった。
知っている人はいる。心配してくれる人はいない。
ここでの俺は、埋めるべき欠員の一つだ。それは正しい扱いだと思う。思うのに、天井がやたら高く見えた。
熱が引いても、考えていたのは結界のことだった。
何かはできる。
少なくとも、これだけの警告が放置されている原因を調べることはできる。原因が分かれば、対処も考えられる。
でも、ここは俺のシステムじゃない。それは俺の仕事でもない。
街の結界に手を入れる許可を、俺は誰からももらっていない。見えるからといって勝手に触れば、それはもう職人でも技術者でもない。ただの侵入者だ。
三日後、俺は辞めた。
見えているのに触れない場所に、毎朝立ち続ける自信がなかった。
それに、見えてしまえば、きっとまた寝込むことになる。
何日か分の給料をもらった。これで何日生活できるのか、まだ分からない。
住み込みだったので、辞めるというのは、そのまま宿舎を出るということだった。荷物はないので、身一つで門を出た。
* * *
街で仕事を探した。
結論から言うと、<デバッグ>は仕事にならなかった。
職人ギルドの受付で、白髪交じりの人が胡散臭そうに俺を見ている。
「<修復>なら話は早いんだがな。壊れてないものを見て、何ができるって?」
「悪いところが分かります」
「じゃあ、これは直せるか?」
出された魔道具が、何をするものなのかは分からない。
それでも、いつもの文字は視界の端に浮かんだ。
魔力伝達:正常
出力制御:物理破損
「これは……出力部分が壊れてますね」
その人は、俺の言葉を聞いて片眉を上げた。
「それで?」
「その部分を交換すれば、直ります」
「じゃあ、直せるか」
「……」
どうやって。
内部の挙動なら書き換えられる。
でも、壊れた部品を取り替えるとなると、代わりの部品が必要だ。そして、部品の区別は俺にはつかない。この世界の魔道具が、どのような物でどのように作られているか、俺は知らない。
黙ってしまった俺に、溜息が返ってきた。
「それだけじゃ、仕事として金は払えんな」
どこへ行っても同じだった。この街で価値があるのは、壊れたものを元に戻せることと、新しく作れることだ。壊れる前に見つける仕事には、名前すらない。
荷運びは半日で腰が立たなくなった。
書き写しの仕事も試そうとした。この世界の字は読めるのに、書けなかった。断られた。
宿代は前払いで、一日ごとに減っていく。数えるのをやめたら余計に減った。
安宿の硬いベッドで天井を見ながら、街へ来た日に見た遺跡を思い出した。
荒野の向こうにあった、誰も入れないという古い街。
その後、教会や仕事先で耳にした話では、五百年前に捨てられて以来、入口の結界が誰一人として通さないままだという。
(……五百年、同じ状態で放置されている結界)
起き上がった。
この街で、俺のスキルは必要とされていなかった。
だが、五百年誰も入れないままの結界なら、話は別だ。




