1:異世界に来て早々、障害調査
気がつくと、俺は荒野に立っていた。
スニーカーの下は、乾いた土。足を動かすと砂埃が立つ。風はぬるい。
背後には石を積んだ壁が長く伸びていて、その手前に、半透明の薄い膜のようなものが空へ立ち上がっている。触れていないのに、そこに何かがあると分かる。
ついさっき、会社を出た。交差点に差し掛かって、それからブレーキの音。白い光。
持っていたはずのビジネスバッグはなかった。ワイシャツにスラックス、ノーネクタイ。ひどく場違いな服装に思えた。
(……とりあえず、現状確認だ)
分からないときは、まず今どうなっているかを見る。仕事でもそうしてきた。まずは観察と計測。
そう思って一歩踏み出したところで、正面の岩陰から灰色の獣が出てきた。犬にしては大きい。狼にしては、目が四つある。
(現状、確認できました)
獣が跳んだ。
腕で顔をかばった。それしかできなかった。
金属の音がした。
衝撃は来ない。かわりに、重いものが地面へ落ちる音がした。
顔を上げると、俺と獣のあいだに人が立っていた。目の前で金茶色の三つ編みが揺れている。
俺よりは小柄な体に、軽装の鎧。手には剣。
「そこ、動かないで!」
言われるまでもない。動けない。
獣は一頭ではなかった。岩陰から、さらに二頭。彼女は下がらず、半歩だけ横へ動いて、俺を背中に入れる位置を取り直した。
「奔れ」
短い言葉と一緒に、足元へ光の紋様が一瞬だけ走った。
速い。さっきまでとは別人の速さで踏み込み、一頭目を斬り伏せ――そこで、動きが鈍った。
ほんの一瞬だった。刃は毛皮を撫でるだけで止まり、彼女は距離を取る。
「ああもう、この魔法、いっつもこうなる!」
(今、何か……)
剣が翻ったとき、見えた。
見えた、という言い方が正しいのかも分からない。文字が、視界の端に浮いていた。
魔力伝達:正常
出力制御:異常
原因:術式間競合
何か――たぶん魔力――の通り道を、二つの何かが同時に掴んでいる。片方が離すのを待っていない。
典型的な競合だ。どちらも正しく動いている。ただ、同時に動くことが想定されていない。
……いや待て。なんで異世界に来て早々、障害調査してるんだ俺。
「伏せて!」
こちらを見ないまま、彼女が叫んだ。
考えるより先に、俺は頭を抱えて地面へ伏せた。
横合いから、四頭目が飛び出してくる。俺がさっきまで立っていた高さを、灰色が通り過ぎた。
彼女はそれを振り向きざまに斬り、返す動きで最後の一頭を仕留めた。
あたりが静かになる。彼女は剣を下ろし、荒い息のまま俺を見た。
「怪我はない?」
「……ありません」
「良かった」
俺は、さっき見えたものが気になって、彼女の剣を見ていた。
文字がもう一度、視界の端に浮かび上がった。
魔力伝達:正常
出力制御:正常
異常があったのは、さっきの一瞬ということか。
つまり、特定の条件下でのみ発生する不具合だろうか。
「わたしの剣、どうかした?」
「え、いや、あの……」
言うべきか迷った。
見ず知らずの人の物だ。勝手にあれこれ言っていいのだろうか。
彼女は首を傾けた。
「何か気になってるなら、言ってほしい」
見えたものを言わないのも不誠実な気がした。
「不具合が、見えたんです」
「不具合?」
「はい、出力が一瞬途切れる、その原因が」
彼女はぽかんとした後、身を乗り出した。
「原因、分かったの!?」
「分かります」
「直せる!?」
「……たぶん。ただ、この世界のやり方は知らないので」
「じゃあ、直してほしい!」
彼女はあっさりそう言って、剣を差し出してきた。
会ったばかりの、素性も知れない男に。戦闘の直後に。自分の武器を。
(……いいのか、それは)
受け取ると、ずしりと重い。柄の中で、二つの何かが黙って待っている。
中身は文字ではない。でも、プログラミングのコードを読むときと同じで、構造が見える。
書き換えられそうだ、とも思った。
「中身、触りますが大丈夫ですか」
「うん」
「中の動く順番を変えます」
「うん?」
「元に戻せない可能性も――」
「さっきからずいぶん確認するね」
「仕事なので」
「……変な人だね」
原因さえ分かっていれば、やること自体は単純だった。
どちらのモジュールも壊れてはいない。動いている。
順番を決めるだけだ。片方が経路を掴んでいるあいだ、もう片方は待つ。それだけ。
「終わりました」
彼女は剣を受け取ると、少し離れて素振りを一つした。それから、
「奔れ」
紋様が走る。踏み込み。刃が空を裂く音が、途切れない。
魔力伝達:正常
出力制御:正常
視界の端に見える文字にも、結果が出ていた。
彼女はもう一度「奔れ」と言った。やっぱり途切れない。
三度目はやらなかった。剣を見下ろしたまま、しばらく黙っている。
「……直ってる」
信じられない、という顔だった。
それから、ぱっと笑って顔をあげた。俺を真っ直ぐに見てくる。緑の瞳が、陽光を受けて輝いていた。頬が微かに色づいているのは、戦闘の後だからだろうか。
「直ってる! ずっと故障じゃないから<修復>できないって言われてて、でもわたしはずっと困ってて……直ってる!」
なんと答えていいか、分からなかった。
不具合を直しただけだ。元の世界でも、直したところで誰も気づかない類の仕事だった。目の前で誰かがこんな顔をするのを、俺は初めて見た。
「あ、ごめん。名乗ってなかった」
彼女は剣を鞘へ納め、姿勢を正した。
「守備隊のエルフィーネです」
「エルフィーネ、さん」
「フィーネって呼んで」
「では、フィーネさん」
「うん」
「相楽修です。修が名前です」
「シュウさん、だね」
街へ入るには、あの膜――防衛結界というらしい――の切れ目にある門をくぐるのだと教わった。歩いて十分ほどだという。
「それなら、一人で行けます」
「いや、一緒に行くよ。ここでまた何かあったら寝覚めが悪いし」
快活に歩き出した彼女についていく。
そこで俺は、もう一つ気になっていたことを質問する。
「さっき、こちらを見ていませんでしたよね。なのに、見えているみたいでした」
「そうだった?」
「伏せてって言われたとき」
彼女は小さく「ああ」と笑った。
「それはね、わたしのスキルなんだ。<危機感知>」
「……便利そうですね」
スキル、というものが飲み込めなくて、曖昧に相槌を打った。
彼女は小さく首を振った。三つ編みが揺れる。
「そんなことないよ。なんとなく危ないって分かるだけ。あんまりたいしたスキルじゃないんだよね」
なんと言ったらいいか分からなくて、黙る。
彼女は気にしてないように、笑った。
門に向かう途中で、遠くに、もうひとつ街のような影が見えた。
フィーネさんは、俺の視線に気づいてそちらを見た。
「ああ、あれは」
歩きながら、彼女が肩越しに振り返った。
「昔の遺跡だよ。今は誰も住んでない。……というか、誰も入れない」
「誰も」
「うん。街道沿いだから守備隊は巡回してるけど、誰も近付かないよ」
俺はもう一度だけ、遺跡と呼ばれた影を見た。
* * *
門をくぐると、フィーネさんはまっすぐ教会へ俺を連れていった。異世界人は登録が要るのだという。
門番も、受付の聖職者も、俺の格好を見て驚かなかった。「ああ」という顔をして、書類を出してくる。
どうやら異世界人はたまに来るものらしい。
聞かれるままに答えた。
名前。相楽修。年齢。二十八歳。元いた世界での職――。
名刺にはセキュリティエンジニアと刷ってあった。それをどう言えばいいのか分からず、少し迷って「技術者」と答えた。
それから、スキルの鑑定を受けた。鑑定士は俺の手のひらへ手をかざし、数秒、目を閉じた。
「<デバッグ>、ですね」
「デバッグ」
「用途の狭い<修復>スキル、というところでしょうか。ハズレですね」
(ハズレ)
「……え?」
声を上げたのは、フィーネさんだった。
鑑定士は、淡々と説明を続ける。
「用途が狭いので。まあ、無いよりは、というくらいです」
「でも、さっき、剣を」
「?」
ハズレ、と呼ばれたことは、思ったよりも滑らかに飲み込めてしまった。何も起きなかった月の報告書を出すときと、手触りが同じだった。
「ちゃんと、直ったんです」
「<修復>ではないので、壊れたものは直せないはずですが」
「そうじゃなくて、壊れてなくて」
「壊れてないものを直す、ですか?」
フィーネさんはそこで、口ごもってしまった。
申し訳なくなって、口を開く。
「分かりました」
フィーネさんは、それきり何も言わなかった。鑑定士は、ほっとしたように頷いた。
(まあ、マシな方だ)
正直なところ、馴染みのありそうなスキルで良かった、と思っていた。
これでいきなり戦えとか言われたら、非常に困っただろう。
さっきの化け物を思い出す。自分で戦える気がしない。
だから、自分に見合ったスキルなのだと、納得していた。
教会を出るとき、彼女が横でぼそりと言った。
「……ハズレじゃないと思うけどな」
聞こえたが、答えようがなかった。
この世界に来て半日。俺をそう言ってくれる人間が、一人だけいる。それは運が良かったと言っていいのだろう。
とはいえ。
所持品はなし。
宿代も、食事代も必要らしい。
俺にあるのは、ハズレと言われた<デバッグ>スキルだけだった。




